福田和也氏の「東京の流儀」を、かろうじてぼちぼち読み進んでいる。
だんだん失速気味なのだが、朝起きて、せめて1つのかたまりくらいは読もうとしている。
それで、今朝読んだところは靖国神社に関することだった。
私は、東京に45年以上住んでいるが、靖国神社には入ったことがない。
意図せず、気づいたら靖国神社の入り口のところにいたことがあり、ああ、ここが靖国神社なのか、と思ったが、敷地内に入る気にはなれなかった。それは、軍国主義というイメージを強く持っていたからである。
でも、中がどうなっているのか、実際に入ったら、どういう印象を受けるのか、それは体験してみなくてはわからないことだ。だからいつかは入ってみるべきなのだろう。
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今日、読んだところは、ちょっと目からうろこの部分があった。
というのは、靖国神社に祀られている戦死者たちは、その魂が一体となって1つの神になっているということらしいのだ。
もはや、1人1人の死者である人間ではないし、1人1人の神でもないようである。
神社で、そういう儀式を行い、死者の魂が、もはや生きている人間には手の届かないものになり、それらが集合して何か一体の神になっている、ということらしい。
一方、世間や中国・韓国・朝鮮などでは、靖国神社にA級戦犯が祀られていることが問題視されている。だったら、そのA級戦犯だけを、排除すれば解決するなどと考える人もいる。
それをしない理由、できない理由は、A級戦犯の家族に申し訳ないから、とか、今さら分けるのも永眠している死者が気の毒、などという理由かと思っていたのだが、いやそういう次元のものではないようなのである。
つまり、もう人々の魂は、合わせて一体の神になっており、それは人間を超越したものなのだから、今さらA級戦犯の人たちの魂だけをより分けて、元に戻したり、別のところに移動したりすることは不可なのである、あり得ないことである、ということなのではないか?
そうなるとA級戦犯を分けるなんていうことは、神道としては全く解決手段とはなり得ない次元の違う発想ということになる。
実は、私自身、A級戦犯だけ分ければいいじゃん、それをしないのは、やっぱり遺族が傷つくからかな?なんて思っていたのだったけど、そんなことができない理由はわかるのだった。
不特定多数の人の魂が集まってできた神なので、お参りするときも、そういう神に祈りをささげているのである。なるほど・・・
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しかし、生きていた時の名前も刻まれているようだし、個々の戦没者に思いを馳せてお参りする人も確かにいるわけなんだろうし、多くの魂が一体となり、もはや人間とはかけ離れた存在ということを認識している人はあまりいないのではなかろうか。
あるいは、多くの人はもう何も考えないで、花見をしたり、お祭りの縁日を楽しんだりもしているらしく、それはそれで、本当に何のわだかまりもない庶民の神社になっているということなのか。
書いているうちに、ますますわけがわからなくなってきた。
靖国神社、ぜひ一度は。ついでに何とかいう付属の博物館みたいなところにも。
憲法の教員をやっているので、靖国神社にはネガティブなイメージ、学生にもネガティブに話していました。でも実際を見聞しないで批判するのはフェアじゃないと思い、6~7年前に初めて。
まず、超大きな雄壮な神社です(当たり前、笑) それ以上は言わないほうが良い?
何とかいう入場料1,000円の博物館は、「ここ、21世紀の日本なの⁉️」という雰囲気でした。