ぶらぶら人生

心の呟き

永訣の思い出

2016-07-25 | 身辺雑記
 片づけを始めると、きりがない。
 もう少し、もう少しと、それが最大の意義ある仕事であるかのように、三食以外の時間を片づけに費やす。
 私の死後、役に立たないと思われるものや、私の心にそっとしまっておきたいものなど、家の中にあるものの大方は、私の人生(生き来し方)と何らかの関わりを持って存在している。
 それだけに、厄介である。
 10代の半ばから現在までの長い歳月を背景として。
 

 日記の類は、過日、すべて処理したと思っていたのに、別の戸棚から、たくさんの日記が出てきた。
 昭和の末期から平成にかけてのものである。

 当然、そこには、母の死・父の死、さらに恩師との永訣の記録も含まれていた。
 それぞれに異なる最期について、詳述している。
 
 30代のころから、日記帳は、市販の「一年日記」か「三年連用日記」を使用してきた。
 記録欄のスペースには、限度がある。
 が、特異の小さな文字で、ぎっしりと書いているのだ。

 4冊の大学ノートも含まれていた。
 表紙に、「病床記録」(NO1~NO4)と書いている。
 恩師の闘病の日々を、私が記したものである。
 2003年(平成15年)の当初は、市販の日記帳を用いている。
 が、その年頭から、師の体調はすぐれなかったのだと、今回日記帳を読み直して認識した。

 「病床記録」は、半年以上にわたる入院、再入院についての記録である。
 読み返すのはつらい作業ではあったが、同時に懐かしい時間でもあった。

 <看護士から、「ケイミン状態」という言葉を聞き、<軽い眠り>かと思ったが、直後に辞書をひき、<傾眠>(意識の消失してゆく、睡眠に似た状態)の意であることを知った>といったことも記している。
 そうした一文からでも、遠い日の、病む人とともにいた、病室のひとときが蘇るのであった。

 断捨離には、衣類などを捨てる如くには処理しがたい、記憶の数々もあるのだ。
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