どんど焼き

2020-01-16 09:43:16 | 昔話
 ときおり閲覧させて貰っている「たかたかのトレッキング」なるブログ記事のオーナー ”たかたかさん” 。 昨日の記事では「どんど焼き」を話題にしていた。 今日のブログは何をテーマにしようかな? そんな事を頭の片隅にしてのブログ閲覧だったので燃え盛る炎の写真を見て「そうだ今日はどんど焼き」と決めたのです。

 ところで僕の生まれ故郷は彼女が暮らす高崎ですが、 僕が育った地域ではどんど焼きは催されなくなっています。
 もっともそれは随分昔の話で僕が中学生頃(昭和30年代初頭)には既に実施されなくなったと記憶する。

 子供の頃、 正月の松飾りが外される時期には利根川の支流・烏川の河川敷にどんど焼きの骨組みは組み立てられた。 材料は真っ直ぐな真竹と荒縄。 何本もの竹の先端を縄でまとめて縛り、 地面に接する部分は円形に広げて建てる。 するとインディアンの移動住居「ティピー」と同じ様な円錐形の骨組みが出来上がる。 

 その円錐形の構造の中間部分、 大人の背丈くらいの位置の内部には竹を組み合わせて床の様な構造も組み込まれ、 円錐形構造の補強がなされていたはずだ。 また円錐構造の一部の竹組には出入り口となる開口部が設けられて内部に人が出入り出来る様になっていた。 

 正月の松飾り、 一年間の勤めを終えただるまさん、 仏壇や神棚の御札。 そんな各家庭から持ち出された可燃物はどんど焼きの対象となるべく、 円錐状に建てられた竹材の隙間に押し込まれて骨組みの竹は覆われてしまうのです。 そしてどんど焼きが行われる当日の夜、 地域の寺の坊さんの読経に続いて火が放たれる。 それを取り巻いていた僕たちは神棚の飾り物、 小枝に幾つもの小さな丸い餅を指した繭玉(おまいだまと呼んでいた)を残り火にあてて焼いて食べ、 多分一年の無病息災や農家であれば養蚕の収入増加をいのったのでしょう。

 そんなどんど焼きの対象が川原に建っている期間は建造開始してから2~3日の間と記憶しますが、 他所者に火を着けられて燃やされてしまわない様に消防団の様な組織の若者が 「見張り番として、 どんど焼きの内部に泊まり込む」そんな時代でもあった。 そして、 飲酒泥酔して寝込んでいるところに火を着けられて火傷ないしは死亡なんて騒ぎもあったと聞く。 (僕の地域のどんど焼きでは事前にちょっかい出されての消失事故は無かったと記憶します、きちんと見張りをしてくれていたのでしょう)

 そんな正月飾りの松の枝などを売る「松市」なんてのも暮れの風物詩として有ったのだが、 「山林を守ろうとしてか?」 「新生活運動」なる活動の一環としてか? 世の中は小さな紙に松飾りの絵を印刷した物を玄関に貼り付けて簡略に済ませる風潮がはびこる時代となり、 「どんど焼きは危険」といった意見もあって、どんど焼きが行事が中止されてしまいました。

 あの松市に出品されていた材料は正規の山林の持ち主の収入につながったのか? それとも松市に出店していた(幾分ヤーさんポイ人々)の懐だけを潤したのか? 当時の僕には知るすべもなかったのだが、・・・ もしかしたら松市やどんど焼きの消滅が、 今の世で松食い虫の被害がはびこる原因となっているのではないか? そんな感慨を持ちながら、 この記事を締めくくる。
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