ドドメ 別名 桑の実

2024-05-26 08:54:50 | 昔話

桑の実の画像は 群馬県 蚕糸技術センターさんのサイトから転載

 

 過日、 田無市(現・西東京市)芝久保地区にある銭湯「庚申湯」まで車を走らせた。 庚申湯の場所は五日市街道を新宿方面に向かって走り、 小金井公園の敷地の東端を花小金井に向かい、 さらに公園敷地の北東端に突き当たる形の「府中道」を北上し、 およそ500mの位置に在りました。 庚申湯の手前100mほど右側には窪地に広がる「向台運動場」が在りました。

 

 その銭湯を知ったのは gooブログへの投稿記事を見ての事。 車の駐車場も有るとの記載を見て車で出掛けたのですが、 到着した午後4時半ころには10台分ほどの駐車スペースはすでに満車で利用出来ませんでした。 仕方なく車を置ける場所を求めて歩き回った際に「向台運動場」の敷地の北西端近くの場所に随分と大きな桑の木の一群と出会いました。 桑の木の枝が広がった範囲の地面には沢山の黒色のドドメが散らばり、 木にもまだ実が沢山ついていました。

 

 子供の頃を思い出して「食べたい!」気持ちは有ったのですが、 実のサイズが貧弱さを感じる小ささで、 これまた子供の頃の記憶で「これは食べても美味しくないぞ・・・」の囁きが脳内に湧き上がり、 口にせずにその場を離れてしまいました。 

 

 

 僕が生まれ育った群馬県、 水利が悪く、田んぼが出来ない地域では養蚕が盛んで桑畑が沢山ありました。 時期が来れば黒色のドドメ(桑の実)なんか食べ放題、 本数は少なかったですが、やや透明感を感じさせる「紫水晶」と呼んで珍重すべき実をつける種類の桑の木もありました。 更には採ったドドメの量が多い時には家に持ち帰り、 水鉄砲として作った竹筒の中にドドメを押し込み、 水鉄砲の先の小さな穴から果汁を絞りだし、ジュースとして飲む事だってありました。

 

 しかし子供にとってドドメ天国だった時期は中学校に入った前後に突如消え去る事態が生じました。 農家の方が背負う大きな竹籠に桑の葉だけムシリ取って持ち帰る状態から、 桑の木の根本近くから枝ごと刃物で切り取り、自宅に持ち帰り、 蚕の餌として養蚕の床部分に葉の付いた枝をそのまま敷き並べる給餌方法への変化があったのです。 そのため、熟したドドメが畑から多量に消えてしました。

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保育園へ送迎 自転車なら熱中症死亡の危険性ゼロ

2022-11-13 21:05:32 | 昔話

  夏の暑い時期、保育園が運行するマイクロバスの車内に園児が取り残された子供が熱中症で死亡する事故が発生し、 大騒ぎになったことは記憶に新しい。 そして今日、 自家用車で我が子を保育園へ送迎していた父親のミスで子供を車中に放置した結果、 熱中症が原因と想定される死亡事故が発生のニュースが伝えられた。

 人間は誰しもミスを犯すもの、 しかし、 自転車を使って保育園に通う息子をおよそ6年間送迎した僕の場合、 車中閉じ込め、 熱中症発生なんてことは考えた事もなかったし、 考える必要も無かったです。

 

 Top画像の如き状態で自転車に二人乗りして6年間、 サラリーマンしながら無事故で送り迎えの役目を果たせたことは自慢出来るかも・・・ ですが、 今は二児の父親となっている息子から感謝されたことは一度もありませんねえwww

 

 ちなみに我が家から保育園までの距離はおよそ400m、 僕の自転車による会社への通勤経路の途中にありました。 その会社への通勤、 距離はおよそ6km、 自転車での通勤年数はおよそ35年、 その間 良く無事故で過ごせたものです。

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ISA Bus の DSPボード 惜別の辞

2022-10-10 20:45:59 | 昔話


         DSP 搭載 ISA Bus  ボード

 僕の年齢が50台だった今から25年ほど前の話、Windows PCに組み込む拡張ボードは ISA Bus からPCI Busへの移行期だった。  現役時代の僕のメインの職種は電子回路・ハードウエア設計の技術者だった。

 そして当時急遽開発を担当する事になった装置は磁気力顕微鏡(MFM:Magnetic Force Microscope)だった。 それはすでに市販されていた走査型トンネル顕微鏡 (Scanning Tunneling Microscope)が持つ物体表面を物理的に触れる事無く、原子レベルの凹凸さえも検出する能力を利用し、 物体表面から一定空隙を保ってなぞった場合、(その空隙ではトンネル効果による電流は流れない) 物体表面の持つ磁気的特性の分布図を描き出すことが出来る。 そんな装置の開発だった。

 詳しい話は省くが、 デジタル信号処理プロセッサ(DSP)を搭載したISA Busの拡張ボードをPCに組み込み、 MFM機能を実現する装置の開発は既に他の担当者(どちらかと言えばソフト屋さん)が取り組んでいた。

 それがハード設計担当の僕の目から見たら馬鹿馬鹿しいほと簡単なことが原因 ( *1 ) でMFM機能実現に必須なSTM(従来はアナログ制御回路で実現していた)機能のDSPボードへの移植も着手から2年ほど経過しても未完成状態だったのだ。

 開発のバトンタッチを受けた僕、 前任者からDSPボードの制御ソフト開発に必要なボードと(C言語)ソフト開発環境一式を引き継ぎ、 半年ほどでハード・ソフトを含めたMFM装置のプロトタイプを完成させたのだった。

 そうこうしている内に世の中の拡張ボードの主流はPCI Bus へと移ってしまったので商品機はPCI BusのDSPボードを組み込み、めでたく完成に持ち込んだ。

 開発に使用したが、不要になった ISA Bus のDSPボード、 僕が退職する時点でありがたく頂戴し家に持ち帰ったと言う訳だ。 65歳で完全リタイア後、 DSPボードをいじって遊ぶことも全く無く、 押し入れで眠り続けてゴミ部屋のゴミの一つになっていたそのボード、 ついに廃棄の時を迎えたのです。



   何らかの物に生まれ変わって、


      この世にまた出て来て下さい。

         さようなら!!




( *1 )  : STM装置において探針の位置制御には RとC を組み合わせたアナログ制御回路が用いられ、  特性的にはP I 制御で安定な制御を実現していた。 それをDSPの制御系では P I D 制御系を構築し、 その3要素をあれこれ調整して位置制御の安定化を実現しようと無駄な努力を延々と続けていたのです。 アナログ制御系に習って D の成分をゼロにして、 PとI だけに絞ってトライすれば簡単に解決したのにね。
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生まれ故郷のお祭りの日に想う

2022-08-19 21:08:35 | 昔話
 僕の生まれ故郷の夏祭りはお盆の直後の8月20日に曜日に関係無く実行されていた。 実家の周辺は内科や外科、 それから歯医者もある町場だったが、 周辺一帯は完全な農村地帯だった。 周辺住民の圧倒的多数は農業従事者、 会社勤務の人間はどちらかと言えば少数派。 そんな地域だったから曜日なんか関係無く祭りは実行され、 祭りが終えたら農作業に精を出す生活に戻る。 そんな生活パターンだったのだろうと思う。

 昔、子供だった頃、 そんな季節の節目の夏祭りを境に夏の暑さも切り替わる感じがしていたものです。 今住んでいる東京の暑さ、 特に今年は7月末からの体調不良もあって、 暑さにグッタリ気分だったけれど、 昨晩そして今日の気温はなるくなり、 夜の睡眠も久しぶりに熟睡感を感じるものでした。 さらに今朝なんか、 朝食を済ませた後に床にゴロンと横たわってテレビを点けて置いたのだが、 10時半頃まで眠ってしまった様だ。 もっともこれは俺が年老いたことによるものかもしれないが・・・

 そして今年、 祭りの神輿の通り道でもあった実家前の道路は拡幅のため工事も始まったとかで、 実家その物が跡形もなくなってしまう年になった。 住んでいた弟に電話してみたら、 「今年はお祭りがどうなるのか判らない」そんな返事だった。
 
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双眼鏡 いまだに現役・58年前の購入品 

2022-05-31 08:57:36 | 昔話

 " Nikon 8 x 30  8.5 ° " そう刻印された双眼鏡を持っている。 購入したのは20歳になった頃だから58年も前に購入した物だ。 僕の身の回りに有るものでこんなに長持ちして、今も現役で使っている物は他に無い。 まあ、その他の物で年数だけは同じくらい長い物には山歩きに使っていた国土地理院の地図があるけれど・・・

 中学生の頃、 焦点距離が60cm ほどのガラス玉レンズを入手し、 鏡筒は厚紙で望遠鏡を作って遊んでいた僕、 隣のお金持ちの家のオジさんが持っていたニコンの双眼鏡を覗かせてもらい、 その視野の広さや遠くの物が良く見える事に驚き、 「大きくなってそんなのが買える様になったら、僕も手に入れたい」と心に誓った記憶が残っている。 そんな訳で入手した双眼鏡、 今も時折夜空を眺めたり、 旅先に持って出たりしています。

 一方の国土地理院地図、 昔は初めての山域への山行の都度、新宿の紀伊国屋書店で必要な地域の地図を購入したものだった。 しかしその後国土地理院が5万分の1の地図をWebで公開、 それの一部をプリンターで印刷するのが容易になって以降、 地図の購入はほとんどなくなりました。 まあ水溶性インクのプリンタで出力したものは雨で濡れたら、 とても見られなくなりますが、 そんな雨天の中を歩き回る縦走の様な山行形態で出かける事のなくなった今、 自宅でのインクジェットプリンタ、 コンビニに置かれているレーザープリンタなどで地図は印刷して使用することがほとんどになりました。
 
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敷布団を干した日の富士山

2021-01-31 09:53:33 | 昔話

 雪が降り2日経過した後の昨日、 洗濯物を干し始めた妻が 「あなた布団を干しませんか?」と声を掛けて来た。 そろそろ花粉の飛び始める時期が来るから「今の内に干して置くか!」そう考えて布団をベランダに持ち出した。 そしたら富士山が綺麗に見えたので、 60mmレンズを付けたカメラを持って、 いつもの撮影ポイントに出かけて行った。



 自宅に戻ってから OLYMPUS Viewer でファイルを取り込み、 画像を確認すると、 山頂付近と左裾には強風を思わせる雪煙が見えた。 そして急に冬の富士山で滑落して命を落とした山仲間・O の事を想い出した。

 O はキャンプや集中山行の時にはギター持参で参加し、 宴の際の歌を盛り上げる人気物だった。 彼は僕より少しだけ年下で、 結婚していたが、 未だ子供は居なかった。  葬儀の際、 Oの奥さんは焼き場に向かう霊柩車に向かって泣き・叫んだ。 「(遺体を)焼き場に持って行かないで・・・」みたいな事を大きな声で。 その時には誰か親戚の人でも彼女の体を支え、押し留めていたのだったろうか? 40年も経過した今となっては細かな事は覚えていない。
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どんど焼き

2020-01-16 09:43:16 | 昔話
 ときおり閲覧させて貰っている「たかたかのトレッキング」なるブログ記事のオーナー ”たかたかさん” 。 昨日の記事では「どんど焼き」を話題にしていた。 今日のブログは何をテーマにしようかな? そんな事を頭の片隅にしてのブログ閲覧だったので燃え盛る炎の写真を見て「そうだ今日はどんど焼き」と決めたのです。

 ところで僕の生まれ故郷は彼女が暮らす高崎ですが、 僕が育った地域ではどんど焼きは催されなくなっています。
 もっともそれは随分昔の話で僕が中学生頃(昭和30年代初頭)には既に実施されなくなったと記憶する。

 子供の頃、 正月の松飾りが外される時期には利根川の支流・烏川の河川敷にどんど焼きの骨組みは組み立てられた。 材料は真っ直ぐな真竹と荒縄。 何本もの竹の先端を縄でまとめて縛り、 地面に接する部分は円形に広げて建てる。 するとインディアンの移動住居「ティピー」と同じ様な円錐形の骨組みが出来上がる。 

 その円錐形の構造の中間部分、 大人の背丈くらいの位置の内部には竹を組み合わせて床の様な構造も組み込まれ、 円錐形構造の補強がなされていたはずだ。 また円錐構造の一部の竹組には出入り口となる開口部が設けられて内部に人が出入り出来る様になっていた。 

 正月の松飾り、 一年間の勤めを終えただるまさん、 仏壇や神棚の御札。 そんな各家庭から持ち出された可燃物はどんど焼きの対象となるべく、 円錐状に建てられた竹材の隙間に押し込まれて骨組みの竹は覆われてしまうのです。 そしてどんど焼きが行われる当日の夜、 地域の寺の坊さんの読経に続いて火が放たれる。 それを取り巻いていた僕たちは神棚の飾り物、 小枝に幾つもの小さな丸い餅を指した繭玉(おまいだまと呼んでいた)を残り火にあてて焼いて食べ、 多分一年の無病息災や農家であれば養蚕の収入増加をいのったのでしょう。

 そんなどんど焼きの対象が川原に建っている期間は建造開始してから2~3日の間と記憶しますが、 他所者に火を着けられて燃やされてしまわない様に消防団の様な組織の若者が 「見張り番として、 どんど焼きの内部に泊まり込む」そんな時代でもあった。 そして、 飲酒泥酔して寝込んでいるところに火を着けられて火傷ないしは死亡なんて騒ぎもあったと聞く。 (僕の地域のどんど焼きでは事前にちょっかい出されての消失事故は無かったと記憶します、きちんと見張りをしてくれていたのでしょう)

 そんな正月飾りの松の枝などを売る「松市」なんてのも暮れの風物詩として有ったのだが、 「山林を守ろうとしてか?」 「新生活運動」なる活動の一環としてか? 世の中は小さな紙に松飾りの絵を印刷した物を玄関に貼り付けて簡略に済ませる風潮がはびこる時代となり、 「どんど焼きは危険」といった意見もあって、どんど焼きが行事が中止されてしまいました。

 あの松市に出品されていた材料は正規の山林の持ち主の収入につながったのか? それとも松市に出店していた(幾分ヤーさんポイ人々)の懐だけを潤したのか? 当時の僕には知るすべもなかったのだが、・・・ もしかしたら松市やどんど焼きの消滅が、 今の世で松食い虫の被害がはびこる原因となっているのではないか? そんな感慨を持ちながら、 この記事を締めくくる。
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父親から習ったこと

2018-05-03 21:27:47 | 昔話
 極たま~にだが、 タタミ職人だった父親の事を想い出すことがある。 仕事には藁で作られた床やその上を覆う畳表を切る作業が必要で、 そのための包丁は幅の広いのや家庭用の菜切包丁程度の幅の物まで、何丁も持っていた。 そして極たまにしか仕事が無かった(年間を通して仕事の注文は無かった)けれど、 作業を終えた後では包丁の切れ味を維持するために砥石で包丁を丹念に研いでいた。

 そんなだから、 小さかった僕にもナイフを待たせてくれたり、 砥石を使っての刃物の研ぎ方を教えてくれた。

 また夏の盆の時期には仏壇の盆飾り作りを手伝わせてくれた。 その盆飾りは細縄に紅く色付いたホオヅキの軸を小さな提灯の様に適当な間隔で細縄の隙間に挟み込んでぶら下げる物だった。 その細縄ですが買って来るのでは無くて、自分たちで作るのです。

 河原に生えている丈の高い草(多分茅の葉: 縁は鋭い刃物の様で、葉の縁を指に触れさせた状態で引っ張ると細い傷が出来て血が滲む、 そんな物でした)を刈り取って来て、 3本程の葉を腰を下ろして伸ばした足先の指で押さえて、 両手で撚りを掛けながら縄に綯う(ナウ)のです。 最終的に必要な長さは3m程ですが、 葉っぱの長さは60cm程度だから、 途中の適当な所で新たな葉を追加しつつ、 長い縄に仕上げるのです。 小さな子どもなんて、 大人のやっている事を真似るのが面白くて、指が少々傷ついたって気にもせずに縄を綯い、ホオヅキを挟み込む飾り作りを手伝いました。

 そんな風な想い出を自分の子供に僕は与えて来たか? ちょいと心許ないですね。 そもそも今の我が家には仏壇が無い。 自分の母親や父親の命日に故郷に戻って墓参りもしていない。 そんな親をみていたら、 俺に育てられた子供は 「祖先を敬う、 そんな気持ちはほとんど無いだろうな・・・」 と想うのです 。
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ウドンの様だった回虫

2017-11-19 11:52:38 | 昔話
 まだ水洗便所の普及していなかった僕達の子供時代、 便所に溜まったそれは農家の人が汲み取りに来てくれていた。 それは有料だったのか? 子供の僕には判らない事だったが、 逆にお礼としてか? 大根などの野菜を貰っていた様なおぼろげな記憶が残っている。 そしてお腹の中には大人も子供も回虫の様な寄生虫に住み着かれていた記憶はハッキリと残っている。

 そうです、僕の子供時代、 農家では野菜などの栽培の際に糞便を肥料として利用する。 そんな時代の名残があったのです。

 糞便に含まれた寄生虫の卵、 それが野菜に付着した。 その洗浄が不十分あるいは加熱調理不十分であれば、 再び口から寄生虫卵が人間の体内に入り込む、 そんなサイクルで寄生虫がお腹にいる人が多くいたのです。

 それで小学生の頃には学校で飲まされたか、 家で飲まされたか記憶は判然としないものの、 寄生虫駆除を目的に海藻だったかを煮込んだドロッとしたな苦味のある汁ものを、 小さなお椀に一杯近い量を飲まされた事は覚えている。

 すると翌朝には、 肛門から逃げ出して来たのであろう白色で大型のミミズの様な形状の奴が1~2匹、 パンツの中だったか、 シーツの上だったかで蠕いていたのを覚えている。 それが回虫だったのだ。

 また父親が自分の口中に指を突っ込んでウドンの切れ端の様だがうごめく回虫を摘まみ出した事も鮮烈な記憶として残っている。

 なんでこんな事を想い出し、 ブログに書く気になったのか? 実は夜中に目覚めた時に布団の中でWebサーフィンして居た中で、 BBCのサイトで、以下の様なタイトルの記事を見たからだ。 

North Korean defector found to have 'enormous parasites'

北朝鮮の亡命者には「巨大な寄生虫」が見つかった

 何日か前に軍事境界線の板門店で北から南に逃亡を試みて銃撃されて重傷を負った兵士のニュースはご存知かと思います。 今回の読んだ記事は、 その重傷を負った兵士の救命手術を担当した医師がダメージを受けた臓器の修復手術を行う過程で、 腸内に数多くの寄生虫がいたこと。 中には27cmもの長さの大物が見つかった事を伝えたものでした。
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20代の同僚との再会

2016-12-23 11:06:16 | 昔話
 明日はかっての会社の先輩のお宅にお悔やみに伺う予定が組まれている。 そう言った類の訪問はどちらかと言えば、 苦手と言うか参加したくない気持ちが強いのだが・・・ 今年の夏が過ぎていつの事だったか、 その先輩のお宅(我が家から歩いて7分)の敷地に何時も駐車してある車が長期間見えなくなって居ることに気がついた。 洗濯物が干されているのを見ることも無くなった様な気がしたので、 「高齢者向けの住宅に奥様ともども移住されたか?」 そんな気がして、 隣家のベルを押して様子を聞いてみたのが11月の初旬。 そしたら「ご主人が亡くなって、 奥様が暮らしている」と教えてくれた。 その事を40年近く続く永きに渡って旧職場の新年会の幹事の任にあたってくれているモリ氏に伝えた。 そのモリ氏から 「年内にお悔やみに行く事にするから、 家を知っているタナカ君も同行して」 と頼まれると、 亡くなった事を連絡した手前、 「行きたく無い」 そんな返事は出来ないってものだ。

 その弔問メンバーにM君が参加する事がメールで知らされた。 俄然、 弔問よりも、 当時(昭和43年4月1日付で転職したばかりの会社で)同僚となった新入社員だったM君との再会に興味が湧いて来ました。

 大学で電気系の学部で学んで来たM君だが、 「電気ばかりじゃツマラナイからと、 単位の取得とは関係の無い物理や化学の講義を聴きに行ったりしていた」と言い、 「科学の先端を行くのはソ連、 だからロシア語を勉強しよう!」 そんな彼が音頭を取って始まった、 昼休みに当時居室のあった開発館の屋上での勉強会に僕も加わったのだ。 だから、 今でも「ウルーク フタロイ(第2課)」、「マーリンカヤ アー クノー バルショイヤ ソビエトラヤ(部屋は大きく明るいです)」 そんな教材の一節が僕の頭の片隅にはこびりついているのです。 

 そして昭和40年代後半、 オイルショックや円高に動いた経済環境の中、 勤務先の業績が悪化し人員整理の嵐に巻き込まれた。 その前にM君はさっさと会社とオサラバして、 吉祥寺で赤ちょうちんの店を始めたり、 縁あって結ばれた奥さんの実家が営む照明器具製造会社の技術面の一員として活躍し、更には経営に携わったりと変化して行った。 そんな彼と最後に会ってから、 かれこれ40年は過ぎただろうか? なにせ彼は、 その間に毎年開かれていた電気研の新年会にほとんど参加して来なかったから、 出会う事も無かったのだ。 そんな彼と、 明日には出会うことになる。 血色の良い唇と頬に紅味がさしていた20代だった彼と、 高齢になった彼の風貌のギャップは如何程のものか? 興味深々です。

 話題にするチャンスが有るかどうか判らないけれど、 ロシア語の勉強会と時を同じくして使って居た「材料科学入門Ⅰ 物質の構造 ジョン ウルフ編 岩波書店」 まだ捨てずに本棚に残っています。 その本をカバンに入れて出かけて見ようかと考えている。
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