サラリーマン時代や旅先での英語 英会話教材廃棄準備

2023-03-12 11:10:22 | サラリーマン人生

 今朝は本棚に並んで居た英会話がらみの教材を抜き取り床に並べて撮影した。 量的に多いのはNHKラジオやテレビの教材の冊子、 その他にEmailの作法や旅行の際に必要になりそうなもの。 放送教材の日付は放送日が1994頃に始まってピークは1996年、 そして2000年以降の日付の物は皆無の様です。

 

 つらつら振り返ってみると、 1990年代(40代)の僕は50歳を期に会社の早期退職制度を利用して退職して、 「思う存分海外旅行に行くぞ!!」 なんて事を夢想していた時期と重なります。 でも結局60歳の定年、 それ以降65歳まで子会社に出向しての40年を超えるサラリーマン人生を送りました。

 そんな訳で海外旅行での英語力の必要性は感じないまま、過ぎましたが・・・ 会社の仕事では、 たまにですが英語を実際に使う必要がある職場でした。 例えば、2000年以降には 磁気力顕微鏡(MFM : magnetic force microscope )の開発担当の一員となり、 プローブ制御に必須な、デジタル信号処理に特化したマイクロプロセッサ ”DSP( digital signal processor )” を制御回路を組み込んだユニットの設計担当社になった時の事、  その時に装置本体のWindows PCに組み込むメインソフトの開発を担当していたのがロバート君、 彼は英国在住でケンブリッジ大学在学時代からJEOLの走査型トンネル顕微鏡(Scanning Tunneling Microscope(STM))のソフト開発の協力者となっていた人物でした。 そんな彼とのインターフェース仕様関連の情報交換はEmailで行っていたのです。

 

 そして本格的な現役サラリーマン引退後、 念願の海外旅行に出かけました。 僕の英会話能力なんてブロークンイングリッシュの最たるレベル、 でも装置納入の際などに一緒に協力したアメリカの会社から出張して来た技術者さんと協同納入作業などの経験で「へんなクソ度胸」は着いていました。

 だからUSA横断やニュージーランド南島一周の3週間程度のドライブ旅行、 イギリスの湖水地方、 カナダ北部でのオーロラ見物、 ブラジルのカーニバル時期の旅、 コロラド州での皆既日食見物 etcを個人旅行で楽しむことが出来ました。 旅行会社のツアーに参加した時でも、 サンクトペテルブルクやカムチャッカの旅などでは、 オプショナルツアーが催行される日程には離団して自分で自由行動で街なかを散策して楽しむことも出来ました。  そんなくそ度胸の小さな源泉ともなっていたかも知れない

 英会話教材、とも 終活のために おさらばです。 

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ゴミ部屋 サラリーマン人生時代の有用物

2022-04-07 10:51:38 | サラリーマン人生

 ゴミ部屋と称している僕の部屋、 その中には過去の有用物やアレコレの雑多な品も眠っている。 例えば写真のDSPチップ搭載基板は搭載されている部品を電気的なダメージから保護する目的でアルミホイルで包んで長いこと金属製ロッカーに保管してあった物です。

 現役サラリーマン時代の後半、 世の中のPC本体内部の拡張基盤用のBusとしてISA Busが全盛を過ぎつつあった頃の話。 Top写真は基盤に載ったDSPの信号処理能力を利用した磁気力顕微鏡(MFM)の開発に使用していた物でした。 僕はそのMFMシステム内で、DSPボードと協同して動くハードウエアの設計とDSP基盤に搭載されたDSP制御ソフトの開発担当者として働いていた時期がありました。

 商品が完成を見る頃にはPC本体の拡張Busの規格も PCI Bus へと変化したため、 開発初期に使用していた ISA Bus DSP ボードは無用の長物と化して廃棄される運命にありました。 その基板を貰い受けたものの、20年以上もの長きに渡って我が家で活用される事も無く眠り続けただけで、 今となってはただのゴミですが・・・

 そんな制御回路のハードウエアやソフト開発の仕事をしていた時代、 世の中のPCのOSはMS-DOSからWindowsに変化、 それもWindows98になっていました。 



 写真に見える OS Windows95、 テレビやEpsonのデジカメの取説類、 そんな物も当時は大事な物だったけれど、 テレビもデジカメも本体は我が家からは消え、 PCのOSも現用OSはバージョンアップが進み、 すべてが不要な物になってしまっているにも関わらず、 ダンボール箱やキャビネットの中に眠り続け、 室内空間を狭くし、 ゴミ部屋のゴミとして滞留しているのです。 こんなゴミの片付けを毎日少しづつ進めています。
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スダレと網戸でモワレ縞

2021-07-19 14:28:37 | サラリーマン人生
 熱い陽射しを防ぐ目的で我が家の軒先にスダレがブラ下がった。 ベランダ側には網戸がハマっている。 そんな状態の室内に寝転んでボヤッと外を眺めていて「モワレ縞」が出来ているのに気がついた。 スダレが風で揺れるとモワレ縞も揺れ動きます。

 昭和40年代の終わり頃、 所属していた部署は二次元温度画像を取得出来る装置・赤外線カメラの開発・設計を担当する部署だった。 現今の小型テレビカメラを想わせる赤外線カメラとは違い、 当時の医療用のそれは画像情報を得るために大きな凹面鏡を機械的に振り回し、小さな米粒サイズの一次元検出器に被写体からの赤外線を集光させて電気信号に変換し、 人体表面の二次元温度分布画像を取得する、 とんでもなく大掛かりな装置だった。

 寝転がって見たスダレの上のモワレ縞。 それはまさに、 その旧式な光学的二次元スキャン機構での位置検出部に使われた技法なのでした。

 そう言われても「なんのこっちゃ?」、 「意味不明!」と言われそうだから、もう少し書き足します。

 写真のスダレを構成する竹ひごは 5 mm 間隔の隙間が出来るように編まれています。 そして僕がモワレ縞と呼ぶパターンはそれよりも間隔が広い縞模様の事なのですが、 詳細に写真をみるとそのシマ模様1本の間隔の間には竹ひごが4~5本並んで納まっているのが判るでしょうか。これを応用すると・・・ 狭い間隔で並べた目盛線の幅よりも大きなサイズの検出器をつかっても微細な目盛り線一本いっぽんの動きを検出出来るのです。

 ところで写真では網戸と竹ひごで発生したモワレ縞はどことなくボヤッとした物です。 しかし等間隔なパターンを透明なガラス板に金属薄膜のエッチングの様な手法で描画したた物を適度な角度で交差させて発生するモワレ縞の場合、 縞の見え方も良く、 モワレ縞を検出する素子から良好な電気信号を得る事が可能となり、 大きな凹面鏡を首振り扇風機の如く左右に振らせた際の振り角度を微細に検出する検出手段になるのでした。

 今のサーモカメラではスマホのカメラと同様に小さな二次元的な撮像素子を使用していますから、 「光学系を機械的に振り回して二次元情報を得る」 そんな旧式な方法は採用していません。 「しかし天文学の世界では電波望遠鏡なんかとてつもない大型の凹面鏡に相当するパラボラアンテナ使っています。 そしてX/Y二軸の内、 一つの軸は地球の自転を利用して、 もう一つの軸の分だけ機械的にスキャンして、 宇宙の中を2次元的にスキャンしたのと同様な情報を得たりしています・・・」 とさ。  最後の電波望遠鏡がらみの部分は受け売り話です。
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入れ歯を探してゴミ箱あさり

2019-07-20 11:21:09 | サラリーマン人生
 僕のサラリーマン人生の中に転職経験(勤務する会社が変わる事)は一度あった。 その後に同じ会社内で所属変更となる状態は数多くあったが、 その一度目の転職活動の時期に夕食に立ち寄った食堂の調理場の食材くずや残飯を放り込んだ大きな青いポリバケツの中から入れ歯を探すなんて馬鹿な事をやった想い出が50年以上も経過した今も鮮明に残る。

 時は昭和43年2月、 新聞に掲載された募集広告を見て応募の書類を提出し、 面接を翌日に控えた前の晩の事だった。 今も山歩きや山菜採りなどの付き合いが続く、 同期入社したSさんと一緒に荻窪駅近くの食堂に立ち寄った時の話。

 武蔵小金井から新宿を経由して高田馬場駅に至る通勤電車の混雑にウンザリしている事や会社の仕事が面白くなくなっていて転職を考えたこと、 明日には面接がある事などを話題にしたはず。

 食事を済ませ、 荻窪駅へと戻る途中、 上の前歯を抜歯した箇所に暫定的に取り付けてあった入れ歯1本を食事に邪魔だったから食事の皿の上に外して置き、 そのままを食堂を出てしまったのに気が付いた。

 Sさんと一緒に店に戻り、「かくかくしかじか」、「 食事のプレートの上に入れ歯が残って居なかったか?」 と店の人に聞きました。 返事は「気が付きませんでした」、 「皿に何かあったとしても、残飯として廃棄したはず」とそっけない。

 明日の面接に歯抜けの顔を晒すのは困ると思った僕は「残飯用のポリバケツの中を探させて下さい」とお願いした。 店の人は面倒な奴と想ったはずだが、 残飯や食材クズを入れた40リッターサイズのポリバケツと水切り網の役目をするプラスチック製のザルを貸してくれました。

 台所の一隅でポリバケツの中の物を表面から少しづつザルに入れては入れ歯探しを始めました。 残飯を掻き出しては入れ歯が無いか調べる作業を続けました。 店を出たのは数分前だから、 バケツの一番下まで入れ歯が落ち込む事は考えにくい。 一緒に入れ歯探しに付き合ってくれて居たSさんにも申し訳ない気持ちが一杯になりました。 バケツの中全量を確認するのは途中で止めて、 お礼を言って店を後にしました。

 翌日の面接、 採用部署(開発本部・電気研究室)を担当する役員・室長・室員と人事課長、 4名が居並ぶ前での面接でした。 とにかく、 当時24歳だった歯抜けの僕は採用されました。  そして、 その後の40年ほどの2度目のサラリーマン人生が始まったのでした。

 失った入れ歯ですが、 それを作ってくれた新宿駅ビルの上階にあった歯医者さんに引き続き通院し、 転職日となる4月1日よりもずっと前に 「これで一生使えますよ」と差し歯を作って呉れました。 その差し歯はその後の人生を僕の口の中で過ごしています。 このまま棺桶に納まる日まで一緒に過ごすことでしょう。 
  
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古い職域の仲間たち

2015-10-10 22:11:03 | サラリーマン人生
 「秋にサーモ会をやります」そんな古い職域の仲間の集まりの案内予告を受け取ったのは今年の春先、 知らない人には「何ですか秋にサーモンでも焼いて喰う集まりですか?」と聞かれてしまいそうだが、 チョイト違います。

 赤外線を感知する検出器から出る電気信号をこねくり回して、 遠隔でモノの表面温度を測定したり、 温度画像として表示する。 そんな装置が世の中にはあります。 一般の人も空港などで病気で発熱していて体温が高い人を見つけ出す装置の事を見聞きしていると想います。 そんなサーモグラフィー装置の「サーモ」なのです。

 僕がその装置に関わったのは第一次オイルショックを挟む数年間だった。 会社の業績が急降下すると、 ガタガタと組織変更が繰り返されたのですが、 そんな時に編入された組織での運営について、 僕の頭にカチンと来る事があったので、 別の製品系列を担当する部署へ移動させてもらったのでした。

 僕が移動したからと言って、 サーモグラフィー装置の製造販売が無くなるはずはありません。 事業は継続されていたのですが、他社が開発した小型で廉価な装置に押されて業績は尻すぼみ状態となり、 商品の開発・製造・販売を中止する決断が下だされました。 それが何時だったか? 調べれば判りますが、 テーマから外れるので省略・・・ 

 その尻すぼみの期間、 装置の開発は信号のデジタル処理系に注力(人手を掛けた)した訳で、僕の面識の無かった人々が動員されていたのだった。 それでまあ、昨日行われた「サーモ会」の出席者は20名ほども集まったのだが、 メールで送られて来た集合写真を見ると、顔と名前が一致するメンバーは半数だけだった。 その事は幹事さんが関係者に出欠確認をメールで行った時の返信状態からも判っていた事だった。 それで「面識の無い人が半数」そんな状態を知って、 「気乗りがしないから」と不参加の返事を出したのでした。



 さて話変わって、次の週末には奥多摩の日の出山・山頂直下にある「東雲山荘」を借り切っての2ヶ月早い忘年会があります。 こっちも古い職域メンバー主体の会合だけど、 山岳部の連中だから、 楽しみにして参加する予定。


 先日・多摩川の土手歩きに出掛けた時に「狛江までサイクリングに行って戻って来た所だ」と言うサシダ君に土手に出る手前の国立市青柳あたりで偶然出会って、「2ヶ月早い忘年会」の事を教えてもらったのでした。 
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ある時期には旋盤工

2015-02-09 12:39:23 | サラリーマン人生
 丸い金属棒を回転させて、それに「バイト」と呼ぶ刃物を押し当てると金属棒を必要なサイズの円形を組み合わせた形の製品を作り出せる。 そんな工作機械を旋盤(せんばん)と呼ぶのだが、 昭和30年台の後半の一時期には自動旋盤のアタッチメント的な仕事を与えられ、それに従事した事がある。

 なんで「アタッチメント」なんて機械の付属物を連想させるネーミングをしたかと言えば・・・

 僕が加工図面を見て、 旋盤の刃物を操作するハンドルを回して、必要な寸法に旋削加工する訳じゃなく、 刃物はカム機構を使って自動的に駆動され、 勝手に部品加工が出来てしまう、 そんな工作機械の「自動旋盤」だったから、 僕の役目と言えば、

1. 自動旋盤への被加工素材の補給。

   加工が進で素材の長さが不足してきたら、
   旋盤を停止させて素材を供給するのです。

2. 加工部品の仕上がり寸法の監視

  部品の寸法精度は許容範囲に収める必要があります。
  旋削加工に使用する刃物は、徐々に摩耗してきます。
  すると加工品の仕上がり寸法が変化して来ます。
  それで、 時折寸法の確認を行う必要があったのです。

  その時に多用した計測器は限界ゲージと呼ばれる物で
  穴径の確認、 外形の確認などの目的に応じた
  形状の物がありました。

 そして、 問題が生じた時には機械加工の専門技術者に報告して対処してもらう、 そんな役目でしたから、 「アタッチメント」と自分を卑下するしかなかったのです。

 ところで、電気系の学校を出た僕がどうして機械加工作業に割り当てられたか? その頃に「EPR2T」そんな機種名のペンレコーダーがバカ売れしていて、生産人員が不足していたからでしょうかね。


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JJYとリサージュ図形

2014-04-26 22:10:49 | サラリーマン人生
 このところ山歩きもせず、旅行もいかず、ほとんど家にいて電気工作、散歩、囲碁と同じことの繰り返しで一日一日が過ぎてゆく。 ブログのネタも切れようと言うものだ。 そうした場合のお助けカテゴリー「サラリーマン人生」を久しぶりに登場させましょう。

 ”JJY ”の文字列を見て「標準電波」とすかさず答えられる人がどの程度いるのか知らないけれど、 皆さんの家庭でも標準電波をきっと利用しています。 それは、正確な時を刻む電波時計が、 「JJY」のコールサインの電波に乗せられて送信されている時刻情報を利用しているからです。

 かって昔、短波帯の周波数を扱う測定器を作っていた会社に勤めていたころは、短波帯の5MHzや10MHzで送信されていたJJYを受信して、周波数標準として使っているのを目にしたものです。 しかし、 短波帯のそれは去年(2013年3月に)停波され、 いまは長波帯のみで運用しているんだそうです。

 今の時代、リサージュ図形はレーザー光線を何らかの形で振り回して幾何学的な模様を表現するのに使われたりしてますが、昭和30年代後半の頃、調整担当者は発信機の周波数較正に標準電波と発信機出力をX-Yモードにしたオシロスコープに入れてリサージュ波形を描かせ、 n:1 (nは整数)の図形となる点を まだ周波数目盛りが入っていない、白地に円弧だけ描かれた目盛り板に鉛筆でプロットして、 それを目盛線を書き込む外注業者さんに渡して墨入れしてもらって発信機に組み込む「周波数目盛り」を完成させる。 そんな家内制手工業みたいな事をやってましたよ。

 ちなみにこの写真は2つの信号の位相はわずかにずれていますが、周波数が同じ状態のリサージュ図形です。 (Google上の画像から流用させてもらいました)
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「諸君は社会の中堅になる!」

2014-01-14 19:25:56 | サラリーマン人生
 僕が学んだ工業高校で国語を担当されていた教頭先生がいつもの「ちょっとニヒルな語り口」で就職する僕らに語った言葉は

「これから諸君は社会の中堅になる!」、

「間違っても社長にはならない・・・」


 後半の言葉はそういわれたか定かではないけれど似たような意味合いの言葉を贈られたことは確かだ。

 入社して暫くの間、「昇給」には興味があったけれど、「昇進」の言葉に意識を向ける事は殆どなかったと想う。 何しろ脳みそには教頭の贈ってくれた言葉が卒業してから50年以上経過した今も鮮やかに思い浮かぶほど強烈に刷り込まれて居たのですから。 
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OLYMPUS PEN 購入

2014-01-13 17:40:45 | サラリーマン人生
 今の時代「ハーフサイズ・カメラ OLYMPUS-PEN」と聞いて、標準の36枚撮り35mmフィルムで72枚分の画像が記録出来るカメラをイメージ出来る人はどのくらい居るのだろうか?

 新入社員の頃は安月給で遊びにもそんなに金を使えなかったから、安上がりな山歩きを趣味にする様になりました。 その山歩きの範囲はいわゆる奥多摩、国土地理院発行1/5万の地図「五日市」図幅の範囲から始めました。その山歩きの記録に当然カメラも欲しくなりましたから買ったのですが、 それがOLYMPUS社が発売していた「ペン:PEN」シリーズのカメラだったのです。 まあそのカメラで色々撮影したのは確かだけれど、ハッキリ記憶に残っているのは、代々木オリンピック競技場上空にカラーの煙で描かれた五輪のマーク。 ジェット機が飛来して輪を描き、 飛び去って行くのを高田馬場駅近くの職場の窓越しに眺め、慌てて外に飛び出して青空に浮かぶ五輪を撮影した事を今でも覚えています。

 それにしてもブログネタに困った時用に作って置いたカテゴリー「サラリーマン人生」で記事を書くのは久しぶりだなー。
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初めてのオーダーメイド

2013-06-30 10:30:49 | サラリーマン人生
 ブログネタに困った時にと思って設けた「サラリーマン人生」カテゴリー、前回の「課長の家の下宿人」のタイトルで記事を書いてから2ヶ月近く経過した。 当時勤務していた会社は東証2部上場の計測器メーカーだったのだが、 そこの課長職の家庭はこんな風だった。

 住まいは狭いながら庭付きの木造平屋建ての持ち家。 場所は立川駅まで徒歩で10数分の距離で土地は借地だった。 家族は奥さんと子供2人の4人家族で、 長男は国立市にある私立中学に通い、小学生の長女も同じ中学に入学すべく、当時の小学校の担任だった先生から個人的に勉強の面倒を見てもらっていたようだった。 暖房器具の石油ストーブは当時の女性のバイブル的存在だった「暮しの手帖」誌面でも紹介されていたアラジン社のブルーフレームなんてのを使って居た。 そして立川駅前にあった大手デパートからは「お得意様優待日」そんな案内状が届く生活をしていた。

 そんなだから、僕を下宿人として受け入れるにあたって、経済的に僕からの下宿代を当てにしていたなんてことは100%考えられない事でした。

 そして世話になり始めた年の暮れ、 ボーナス商戦の一環としてデパートから「お得意様セールスの案内状」が届いたみたい。 「タナカさん、このお得意様セールスだと割安だし」、「生地はイギリス製の一流品で一生物のコートが出来るわよ」そんな具合に奥さんから声を掛けられた。 「名探偵ポワロが着用するような冬のオーバーコートは貧相な僕の顔に似合わないよ」そんな想いもあったけれど、 連れて行ってもらってオーダーメイドで採寸して作ってもらったのです。 

 ところで僕の終戦間際の子供時代から就職するまでの期間、喰うのが精一杯の家庭で育ちました。 毎日のおかずに必ず魚や肉が出るなんて事はなかったのです。 それがひょんなことから課長の家に下宿して、食事も家族同様に扱われた毎日の生活は僕の身体に劇的な変化を与えました。 なんと1年で10cmも身長の伸びをみせたのです。 いくらオーダーメイドで誂えたコートだって、どことなく寸足らずになろうと言うものです。 そんな訳で、奥さんの言葉のように「一生もののコート」にはなりませんでした。
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