おねえちゃんの独り言

「おねえちゃんの独り言」のブログ版
(・・・って、そのまんまだけど)

祖母について

2016-05-31 22:22:51 | Weblog
 随分と間が空いてしまったが、今度は祖母について書いてみる。
 いきなりだが、私の祖母は5月30日に亡くなった。あと2週間で106才というタイミング。ほんの数時間前に母からのメールで訃報を知ったのだが、間が悪いことに、今日の日中に私と娘からの祖母宛のお誕生日カードを送ってしまったところだった。

 こんなに長く、それも比較的元気に、歩行器を使って自分で歩いてトイレや食事にも行き、頭もあまりボケずに生きたのだから、最後ぐらいは安らかに、老衰で眠るように亡くなるに違いないと固く信じていたのに、急性間質性肺炎で発症から約15時間苦しんで亡くなったそうである。後半は緩和剤で意識朦朧だったようだが、15時間余も苦しい呼吸だったことに違いはない。
 本当に人間の一生って何なんだろうな・・・と思う。

 祖母は、高齢になってからも非常に元気いっぱいで若々しかった。祖父が亡くなってからは、当時流行っていたケートボールにはまり、ゲートボール仲間のボーイフレンドまでいたようだ。90を過ぎてからは俳句にはまり、新聞に投稿して頻繁に掲載されたり、自費出版で句集も出した。
 同年代の友人は次々と鬼籍に入り、あるいはボケ、そのうちに娘世代の友人とよく遊びに行くようになった。99才の夏まで、石和温泉にある定宿に旅行していた。
 年金は十分、住まいは娘(私の母)の持ち家、自室に増築したミニキッチンで自炊して毎朝近所を散歩して庭いじりして悠々自適。これである日ぽっくり逝っていたら、祖父をも上回る大往生っぷりだったのに・・・そうはならなかった。
 非常にありがちなパターンだが、99才の秋に転倒したことをきっかけに入院。急激に体が弱って老け込んだ。たまたまその時期、日本に行っていた私は、これが最後かとお見舞いの後で涙した。母も「最後に会えて良かったね」などと言っていたのだが・・・最後にならなかった。
 転倒、入院というアクシデントはあっても、ここで長患いせずに天に召されていたら、それでも十分、他人がうらやむ人生の終わり方だったろうに、なまじ丈夫だったのが災いしたか・・・

 その後、退院、苦労の連続の自宅介護、老健施設を経て、終の棲家となった特養に落ち着くまで数年間、母に苦労や面倒をかけまくり、それまでの人もうらやむ老後人生が帳消しどころかマイナス評価である。

 念のため、別にうちの家族が不幸だとか不運だとか言うつもりはまったくない。とりあえず金銭的な心配はなく、最終的には家から徒歩で通える特養にも入れた。世間に老人問題で苦しんでいる家族は数限りなくいる中で、恵まれているほうだとは思う。(母個人を見ると、一から十まで不運な人だなあ、とは思うが)
 ただもう、人間の一生というものに対する疑問、難問、禅問答・・・

 99才の秋に転倒してから亡くなるまでの6年半、祖母はどんな思いで生きていただろうか。施設のイベントや他人との会話などで時には笑うこともあっただろうが、基本的には夢も希望もない、ただ死ねないから生きているというだけの状態が何年も続いた。体はどんどん古くぼろくなっていく。施設から出ることもほとんどなく、体もあまり動かさないから疲れることもなく、夜は睡眠薬がなければ眠れない。腰や背中は常に痛い。この先、良くなることはまったくあり得ず、ひたすら悪くなる一方なのは分かりきっている。繰り返すが、ただ死ねないから生きているだけだ。
 先に楽しいことも何もなく、ただ同じことを繰り返す毎日。一時は少しボケた頭も施設に落ち着いてからはほぼ回復。なまじ頭がしかりしているだけに、かえって残酷な終身刑状態である。
 特に今年に入ってからは、父まで長期入院状態になってしまい(父については改めて書く予定)、母が祖母に割ける時間や余裕も減っていたに違いない。最後の最後は母が看取ったそうだが、さみしい最期である。

 もちろん、もっとさみしい最期を迎えている人が山ほどいることは知っている。しかし、高校時代に祖父の大往生を見て以来、うちの家族は皆、誰もがうらやむ大往生を遂げる、将来、介護問題に悩まされる心配はまったくない、と、勝手に思い込んできた私にとって、ここ6~7年の祖母の状態は非常にショックであった。

 祖母は以前から、自分が死んだら大学に献体する、葬式も香典もいらない、墓は大学の納骨堂、と繰り返し言っていたそうで、亡くなった数時間後に杏林大学に引き取られた。最後の最後の本当に最期は、誰にも面倒も迷惑もかけずに旅立っていった。

 今にして思えば、それでも随分と幸せな人生だったかもしれない。明治の終わりに御殿医の末っ子として生まれ、容姿にも恵まれ、高等女学校卒業まで何不自由なく暮らした(子どもの頃の栄養状態が良かったから、体も人並み外れて丈夫で長生きしたのでしょう)。当時にしては結構な高齢(20代後半)で甲斐性のない男(祖父)と結婚して、戦争もあり、それなりに苦労はしただろうが、私が3歳の時から我が家に同居(母の仕事が忙しかったので、祖父母と同居する前、私は日中は近所の人に預けられていた)。それ以降は比較的幸せな人生が長い年月、続いたと思う。
 私が折に触れて思い出す光景がある。私が幼稚園の頃に住んでいた家には縁側があった。その縁側のすぐ外には、ピンクの芝桜が一面に咲いていた。一面のピンク、穏やかに晴れたやわらかい日差し。植木いじりが好きな祖母の隣で、芝桜の前にしゃがみこんだ幼稚園児の私は、「私、おばあちゃんが世界で一番好き」と言った。祖母はほほえみながら、「そんなこと言わないで、みんな好き、って言うのよ」と答えた。

 本当はこんなことを書く予定ではなかったのだが、私がもたもたして祖母について書くのが遅れているうちに、予想外のタイミングで祖母が亡くなってしまい、老人問題について書きたいのか追悼文を書きたいのか、わけが分からなくなってきてしまった。

 祖母の魂は今頃、古くて思うように動かず、痛みまで伴う不自由な肉体から解き放たれて、大喜びで自由に空を飛び回っていることだろう。数少ない肉親である祖母の冥福を心から祈る。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« トランプ | トップ | ただのぼやき »

Weblog」カテゴリの最新記事