백지영 화장을 고치고
日本語はめずらしい言葉だ。必ず母音でおわるので発音自体はかわることがないので、フランス語や韓国語に見られるリエゾンなどの法則や規則がない、発音に関してはある意味合理的と言える言葉である。これに対して韓国語はリエゾンだけではなく、鼻音、そして流音などの変化があって非常に複雑である。でもこの規則変化であるが、ネイティブはそれを説明できるかと言うとできない。生まれてその法則で話しているので特に意識する必要もなく、その法則をきちんとやるのは中学か高校でその時は国語のテストに出るのでまじめにやるそうだが、それがおわるとうすらおぼえでおぼえている程度だ。この発音の変化は会話では重要なので、韓国語の講師を選ぶ時このことがしっかりと説明できるかということは、ある意味いい講師を選ぶ基準になると思う。
今韓国に対して風あたりが強く、すごく嫌われていることがわかる。だから韓国語なんて言うと嫌悪感をもたれることもあるので、こういうことを書くのも少しためらうが、私はあまのじゃくなので向こうでは日本人を強調し、ここではその逆を強調して生きているが、何をかくそう彼ら彼女らにうらみをもっているし韓国人が大嫌いだ。でもしかし私の人生を語る上では彼女らの存在は大きいのは事実だ。私が彼ら彼女らの歌の詩に感動するのは、その感情特に悲しみや未練と言った恩や恨の気持ちをその歌詞や歌う気持ちに込めているからで、そういう気持ちが理解できるのはやはり半島の血が受け継がれているからだと思う。朝鮮の女性は喜怒哀楽が激しい、よく泣くしよく笑う、そして彼ら彼女らの歴史の中でつらい思いをしてきた人が多いのも事実だ。学生の時ある韓国人のおばさんに同情された。私は何とも思ってないが、そのおばさんが私の手をとって私の目を見た時にすごく悲しい目をしていて、この人すごく苦労してきたんだなあと言うことが伝わってきて、なんだかすごく悲しい気持ちになった。彼女らが喜怒哀楽が激しいのはそういったつらいことや悲しいことを受け流すためかも知れない。日本語で生活をし、英字新聞を見て、韓国語の歌を聞いてその詩に感動する私はすごくあいまいな人間だ。日本人であることを否定も肯定もしないし、韓国人であることもまた否定も肯定もしない、そういう存在である。うちのクラブは基本的に曖昧でもいい、意志が弱い、へたれだ、運動ができないそういう人でも、試合に出る気なんかなくても、ボクシングに興味がなくてもちゃんとここには居場所がある。へたれ大歓迎と言うのは宣伝文句ではない。それは私のこうした気持ちがあるからだ。