これは1年ぐらい前の私のブログこのブログを見たら日本のスポーツの監督がなぜ好きではないかと言うことがわかると思う。
元巨人の桑田が体罰はダメだということをしきりに言っている。そしてそのことをスポーツ界の指導者たちにうったえかけている。前にスポーツ番組でその桑田と何人かのスポーツの監督が意見を交わし合っていた。そこには有名な女の監督が二人いたのだが、体罰に関して二人とも体罰は時には必要だということを言っていた。でも話を聞いていて笑えるのはこの人たちは物事を一般化できていないといないと言うことだ。意見を言う時も私はとか私たちはみたいな一人称的な発言が多く、この人たちは物事を客観視できていない本当に教養がないと思った。スポーツと言うのはこの人たちみたいにそれしかしてこなかったという人たちだけのものではない、スポーツを競技していても社会とのかかわりがあるのだから、体罰などの問題を語る時は物事を一般化する必要がある。でもこの人たちは相手を成長させるために殴ったとか殴られた。でもそれは自分のためだみたいな発言をしていたが、本当にダメだと思った。この人たちはスポーツ以外に何をやってきたのだろうか?監督だったら共通語の英語が話せるのか?ほかに何かきちんと勉強したことがあるのだろうか?こういう物事を一般化できないような人間を恰も我々の代表のように発言させることは大きな問題だと思う。体罰と言うのは人権の問題だ、そいつらは本気かどうか知らないが、しかし一般的にはたかだかスポーツごときでできないと言って頭や顔を殴られたり、罰を与えるというのは根本的に間違っている。それは人権侵害だ。ある作家が「性と国家」の中で、自分は性悪説だから暴力を徹底的に制御するシステムをつくらないといけないと言っていたが、戦争をしかけるのも武力で都合よく相手をおさえるため、人間はもともと性悪だから暴力を都合よく利用し相手を自分の意のままにしようとする。体罰は愛のムチだと言う大義とベトナム戦争はベトナムの人たちを解放するためだ、イラク戦争はイラクの人たちをフセインの独裁から自由にするためだという大義と考え方の構造は同じだ、リテラシーがないとこういう構造を見ようとしない、だから発言が一人称的であるのだ。学校や社会では暴力はゆるされない、そういう一般的な考え方を無視して愛のある体罰は必要だなんて言うのは言語道断、私は勉強してないアスリートが大嫌いなのはこういう身勝手な考え方しかできないからだ。
桑田は体罰に関して論文を書いたらしいが、桑田の問題点はその体罰を野球と言うスポーツだけの枠でとらえようとしたこと、だからこういう人たちのつけいる隙があったのだと思う。彼の意見は素晴らしいが、しかしそういう問題を語るためには倫理学や社会学の観点から考察する必要があったかも知れない。