ここでは英語を教えているが、ビギナの人たちもだいぶ文法が理解できつかえるようになってきた。ここでは文法をひとつおぼえたらそれをつかい応用するというメソッドで英語の学習をしているが、この方法はかなり訓練になっているようだ。
しかしここからが重要なのだが、これによって特にいくつか文法をおぼえたビギナーの人たちに必要なのは日記をつけることで、実はこの学習のねらいはいくつか文法をおぼえたらそれをつかって文をつくって英語に慣れるということである。
文を書くというとは当然今まで習った文法をつかわなくてはならないし、当然わからない言葉は辞書をつかって調べなくてはならない、これをしなくては上達しないここからが大事だと言っているが言葉は習うだけではなくたくさんつかっていくことが一番の上達法である。
話は私の話になるが、私はどちらかというと自分の言いたいことをきちんと整理して論理的に表現することができる。たぶんたいていの人間はそういうことには長けている中にはうらやましいという人もいるが、しかし昔はそうではなかった。
論理的に自分の言いたいことを言うどころか、人の言っていることがよく理解できないそういうディスアドバンテージを持っていた。
しかしある時期をさかいに自分は大きく特に論理思考の面において大きなアドバンテージを持つことができた。
あるところでの結論は一応IQが高いということになっているが、しかしそれは違うなぜならIQというのは数学的なセンスだがしかし私は数学的なセンスがない、それに論理的思考とIQとは少し違うと思うからだ。
たぶん私が論理的な思考になれたのは語学をやってきたからだと思う。
語学というのは時には相手の言っていることをGuessして答えなくてはならないので相手が何を言っているのかということを感で理解しなくてはならないことがある。
そういうことを繰り返していくうちに実際に言葉が理解できるようになれば、今度は相手の言っていることが先読みできるなる、論理的な思考を司る脳の部分が強くなければ、感をみがいてそこに働きかける、言葉というのは時に英語のような文法がまったくちがう言語は、それと共に頭の中で整理していかなくてはならないのだから、人の言っていることを理解し論理的に話すことができるためには大きなアドバンテージとなる訓練となると思う。
なぜこういうことを書くかと言うと、人の言っていることが理解できない子供は私だけではない、たぶんそう言った子供たちはたくさんいるからで、もし自分が人の言っていることがわからない理解できないから人とうまくやっていけないと言うならば、とりあえず語学を勉強してみたらどうだろうか。
さらに語学は人とのコミュニケーション能力を広げる。特に西洋にいおいては言葉はつながりを意味するのだから、自分自身を主張しなくてはならないというところでの自己表現や理解力が養われる。
よく日本人は仲良くしましょうというが、仲良くしましょうって何、はっきり言って仲良くすることとコミュニケーション能力はちがう。日本人のように単一民族ならば同じ仲間で集まってという理論が成立できるが、しかし英語圏ではいろいろな人種がいるのでまず相手の違いを認め尊重することからはじまる、だからコミュニケーションとは同じということを強調して集まるのではなく、人との違いを認めて交流していくテクニックのようなもので、このことはむしろ訓練することで養われることだ。
私は友達がほとんどいない。だから飲みに行くなんていうこともまずないし、飲みに行ったところで何をどのように話せばいいかわからない、孤独と言えばそれまでだが、しかし人に必要とされているかといえばそうではない、自分は人に必要されているしコミュニケーション能力もひくくはない、なぜならその人が必要だと思うときはきちんとその必要に応じて話ができるからだ。
これは私なりの解釈だが問題なのは友達がいるかいないかということではない、人に必要とされるかされないかだ。
よくジムなどでも私たちは仲間だ家族的と仲がいいことを強調するようなところがあるが、しかしそこでは仲良くなければ排除されるし、必要とされるというよりも人に頼って生きるぶらさがりの世界だ。
私は仲良くしましょうという日本人のコミュニティーは非常に閉鎖的であると思っているが、大事なのは人と仲良くすることではなく、人に本当に必要とされているかということで、それは決して同じという集団から見えてこない、違いを認めて自分が少しはなれたところから見えてくるものだと思っている。
しかしここからが重要なのだが、これによって特にいくつか文法をおぼえたビギナーの人たちに必要なのは日記をつけることで、実はこの学習のねらいはいくつか文法をおぼえたらそれをつかって文をつくって英語に慣れるということである。
文を書くというとは当然今まで習った文法をつかわなくてはならないし、当然わからない言葉は辞書をつかって調べなくてはならない、これをしなくては上達しないここからが大事だと言っているが言葉は習うだけではなくたくさんつかっていくことが一番の上達法である。
話は私の話になるが、私はどちらかというと自分の言いたいことをきちんと整理して論理的に表現することができる。たぶんたいていの人間はそういうことには長けている中にはうらやましいという人もいるが、しかし昔はそうではなかった。
論理的に自分の言いたいことを言うどころか、人の言っていることがよく理解できないそういうディスアドバンテージを持っていた。
しかしある時期をさかいに自分は大きく特に論理思考の面において大きなアドバンテージを持つことができた。
あるところでの結論は一応IQが高いということになっているが、しかしそれは違うなぜならIQというのは数学的なセンスだがしかし私は数学的なセンスがない、それに論理的思考とIQとは少し違うと思うからだ。
たぶん私が論理的な思考になれたのは語学をやってきたからだと思う。
語学というのは時には相手の言っていることをGuessして答えなくてはならないので相手が何を言っているのかということを感で理解しなくてはならないことがある。
そういうことを繰り返していくうちに実際に言葉が理解できるようになれば、今度は相手の言っていることが先読みできるなる、論理的な思考を司る脳の部分が強くなければ、感をみがいてそこに働きかける、言葉というのは時に英語のような文法がまったくちがう言語は、それと共に頭の中で整理していかなくてはならないのだから、人の言っていることを理解し論理的に話すことができるためには大きなアドバンテージとなる訓練となると思う。
なぜこういうことを書くかと言うと、人の言っていることが理解できない子供は私だけではない、たぶんそう言った子供たちはたくさんいるからで、もし自分が人の言っていることがわからない理解できないから人とうまくやっていけないと言うならば、とりあえず語学を勉強してみたらどうだろうか。
さらに語学は人とのコミュニケーション能力を広げる。特に西洋にいおいては言葉はつながりを意味するのだから、自分自身を主張しなくてはならないというところでの自己表現や理解力が養われる。
よく日本人は仲良くしましょうというが、仲良くしましょうって何、はっきり言って仲良くすることとコミュニケーション能力はちがう。日本人のように単一民族ならば同じ仲間で集まってという理論が成立できるが、しかし英語圏ではいろいろな人種がいるのでまず相手の違いを認め尊重することからはじまる、だからコミュニケーションとは同じということを強調して集まるのではなく、人との違いを認めて交流していくテクニックのようなもので、このことはむしろ訓練することで養われることだ。
私は友達がほとんどいない。だから飲みに行くなんていうこともまずないし、飲みに行ったところで何をどのように話せばいいかわからない、孤独と言えばそれまでだが、しかし人に必要とされているかといえばそうではない、自分は人に必要されているしコミュニケーション能力もひくくはない、なぜならその人が必要だと思うときはきちんとその必要に応じて話ができるからだ。
これは私なりの解釈だが問題なのは友達がいるかいないかということではない、人に必要とされるかされないかだ。
よくジムなどでも私たちは仲間だ家族的と仲がいいことを強調するようなところがあるが、しかしそこでは仲良くなければ排除されるし、必要とされるというよりも人に頼って生きるぶらさがりの世界だ。
私は仲良くしましょうという日本人のコミュニティーは非常に閉鎖的であると思っているが、大事なのは人と仲良くすることではなく、人に本当に必要とされているかということで、それは決して同じという集団から見えてこない、違いを認めて自分が少しはなれたところから見えてくるものだと思っている。