脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

卒論のテーマには責任を

2014-01-09 | Weblog
もうそろそろ卒論を提出する期間である。
そのころになると大学生と話をする。
ところで卒論は何書いているんだ?
○○○の○○についてです。
へーっ変わったテーマだな、結構めんどくさいだろ。
ええっ、でも今のところたいしたものが書けなくてこまっているんですよ。
参考文献を聞いたらそれがあまりたいした本を上げてはいない、そのテーマだったら日本語の文献などほとんどない、君が行き詰まっているのは参考文献の量がとぼしいから、英語でもなんでももっと探して読む必要があると指摘すると、英語は苦手ですからと答える。
最近の若い人と言っては何だが、少し前から個性と言われているのか、人と違うことをやったり、目立つことが個性だと勘違いしている、卒論にしてもそうだが、スタンダードなものよりもむしろユニークなテーマを選んでいるのだが、しかしその個性を生かすためには、いろいろな知識を得て、いろいろな比較をして、本当にそれがいいのかわるいのかということを見極める必要がある。比較して作り上げていくからこそ、個性的な作品が生まれるのであって、そういう個性が自己主張だと思っている。

自分本位と個性とは違う、好きなことを言って人と違うことをやることをするのが個性だと思っている奴がいるが、しかし独りよがりの個性はただの滑稽、個性とは磨かれなくては個性にならない。最近は個性個性と言われてきているので、目立つことや滑稽なことをするのが個性だと勘違いしているが、しかしそういう奴らが個性だと言い出すとサルでも人格や個性を持つことになる。しりを見せて地べたにすわって求愛するのが個性なのか、コンビニの前ですわってビールか酒かわからないが、それをみんなでまわして飲んでいる姿を見るとチンパンジーのバナナの回し合いにしか見えないが、漢字もまともに読めない奴が勝手に読み方をかえて、子供にありえない漫画のような名前を付けることが個性なのか考えてみたらいい、ついでに言うとボクシングしかできないというのは芸だ、芸はサルでもできるし、サルのほうがもっと見事にできる。
人間は考える葦だ、ラテン語で人間のことをホモサピエンスと言うが、これは知性を持つものと言う意味、すなわち人間だけが他の動物に比べて知性をもつ、そのことが人間がほかの動物に比べてユニークなのだということだが、個性とはこの知性を十分に生かすものだ。

話は英語の論文になるが、英語の論文を書くにあたって意外と重要なのは接続詞だ、接続詞というのは言葉をつなげていく言葉であるが、英語にはtherefore moreover furthermore alternativelyなど、その他にもたくさんの接続詞があるが、これらの接続詞には、それぞれ強調してつなげる、反対のことをのべる、さらにつけくわえるというように、つかう接続詞によって違うのだが、英語でこれだけいろいろな種類の接続詞があるというのは、やはり論文はいろいろなことを比較して客観的に考察しつつ、ひとつの結論に至っていくということであり、論文などでは引用文も多く使うので、必然的にそういう表現が生まれたのだろうと思う。
物事というのは、比較しなければそれがいいかわるいかということはわからない、比較できる能力もないのにこれが俺のやり方ですからと自分のやり方に固執するのは、ひとりよがりのなにものでもない。
本当に主張するための個性を持ちたかったら、言葉を覚えてたくさんのことを知って、経験することだ、私がこいつらはダメなトレーナーだと思うのは人の話が聞けない奴、人の話を聞かないのではなく、聞けない、聞く能力がない奴のこと、言葉をかえれば論文や文章を書く能力のない人間で、咀嚼力がとぼしい人間だ、考えてみたらわかるがそういう能力がない人間が人の話を聞いてアドヴァイスできるのか?おそらく自分のことをいうのが精一杯で、人のことを聞いてそれを咀嚼して考える余裕などない、真面目なことを聞けばきくほど滑稽なことを言うだけだ、そういうやつに限ってアホなルールをつくったり、あいさつなどの子供じみた礼儀にこだわる。
こういう奴が集まると価値観がかわる、正直な話運動系のアホな不祥事はこういう奴らが生み出す、小さな小さなムラ社会の常識もどきの社会から生み出されるのだと思っているが、こういう縦社会から個性的な人間がうまれてくるのだろうか。







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