Annum Novum Faustum Tibi percor!ラテン語で直訳すると幸せな新年をあなたということだが、今年一年も恵まれた年であることを願う。
この前うちの子供が特待生の推薦が受けれるということで、その説明をするために塾にその広報の人が来ていたらしい、特待生というのは学費免除でその中学の新しくできた進学クラスに入学するということだが、しかし特待生と言ってもうちの子が特別優秀だからということではなく、まあまあ実績のある進学塾から、そこそこという子供を特待生で入学させて実績を上げていくという試みで、うちのパートナーの話を聞くと、そこの広報部長が直接塾に来て説明していたらしいが、かなり真剣に取り組んでいるそうである。
話を聞いてておもしろいと思ったのは、そこの広報部長が日本人は表現力がとぼしい、だからこれからグローバル社会ではその表現力を身に付ける学習をしなくてはいけないということを力説していたそうであるが、私と同じようなことを言っていたことだ。
表現力をどう養うかということに関しては違いはあるものの、私のブログを見たんじゃないのかというぐらいよく似たことを言っていたらしいが、たぶんそういうところにアンテナをはっていれば自然と同じような結論にいたるのだろう。
英語というのはこの時代には絶対必要である。なぜ必要かというと、この英語がわからなくては今の時代は情報がつかめない、そして多面的な物の考え方ができないから、考え方が小さくなっていくからである。
少し前にテレビを見ていたら、あるアスリートが自分が影響を受けた人物は誰だと聞かれた時に、真面目に戦隊もののヒーローだと答えていた、うけをねらったのかはどうかはわからないが、しかしこれでは子供のインタビューだ、私はなんかそのおちゃらけた雰囲気と部室で軽々しく語るような会話に、頭にきたのでテレビのスイッチを消したが、まあこれが個性だと言ってしまえばそれまでだが、しかしもう少しまともなことえが返せないのだろうか、こういうたぐいの人間の会話は部室の会話レベルだ、公共の電波を使って部室で交わされるようなおちゃらけた会話をさせるのは非常に不愉快だ、オリンピックでどこに行こうが自分たちのことしか関心がない、所謂自分たちの部室というわくをこえることができない。
たぶんそのことはこういった程度のひくい会話にでているのだが、言葉ができない、それしかできないというのは場合によっては罪である、いろいろな国に言っていろいろな民族と出逢えば、日本人ということがどれだけ恵まれているかということがわかるし、いろいろなことが見えてくるものだ、しかし日本のアスリートが話すことと言えば部室の会話、それを聞いて喜ぶ奴も喜ぶ奴だが、拉致問題や竹島の問題などいろいろな問題がある、アスリートにはなるべく答えさせない、答えられないからそうしているのかどうかはわからないが、諸外国に比べて日本のアスリートたちは無知すぎて話にならない、世界に出て行くならば言葉を覚えていろいろなことに関心をもつ必要がある、このあとマララユフスザイが尊敬する人物に殉職したパキスタンの女性大統領をあげていたが、このアスリートとは非常に対照的で、本当に学力不足だということを実感させられた。
さらにこれからの英語の指導者は英語の文法や会話だけではなく、ラテン語や聖書の勉強をする必要がある、なぜそうする必要があるのかというのは、英語そのものをコミュニケーションの単なる手段ではなく、その英語がもつ意味や語られる背景を知ることで、文化や考え方というものを理解することができるからだ、そういうことを知ることで、英語を話すということが単なるツール(道具)ではなく、多面的な物の捉え方ができるメジャー(ものさし)になる、おそらくこれからのグローバル社会ではそういう背景をふまえて英語教育をしていく必要があると思うのだが、そのためにはその言葉の語源となっている、ラテン語や考え方の背景となっている聖書を理解することが大事なことで、私はこれを英語を覚えるのではなくて吸収すると言っているが、これからの英語教育に必要なのはこの英語を吸収していくことだと思っている。
英語というのは魔法の言葉だ、この英語を理解するだけでたくさんの人と話すことができるし、たくさんの人の考え方や文化を吸収できるのだ、英語がわからないと、まだ見えていないことがたくさんある、オリーブではやりなおしの英語ということで何人かの人に英語を教えているが、その時私は英語を教えながら、その考え方や語源や他の言葉との違いなどを説明しているが、そのことを知ることで新しい世界が開かれ、考え方や世界を広げて行って欲しいからである。
ディズニー映画のアラジンの主題歌a whole new worldの歌詞にこういう言葉が出てくる。
Ican show the world.shining shimmring splendid.tell me princess now when did you last let your heart decide?(君に世界を見せてあげよう、光輝く広がる世界を、さあ教えてプリンセス君が最後に自分で決断したのはいつ?)この歌はアラジンが夜にこっそり宮殿にしのびこんでプリンセスを魔法のじゅうたんにのせて、世界を飛びまわった時に歌った歌詞だ。教えてプリンセス君は自分自身で決断したことがあるかい?宮殿というきらびやかではあるけども限られた狭い世界に生きてきたプリンセス、しかし魔法のじゅうたんにのることで、もっともっとさらに大きい世界を見ることができた、英語というのはまさにその魔法のじゅうたんならぬ、それを動かす魔法の言葉、The magic wordである。この魔法の言葉を覚えれば世界のいろいろなことを知ることができるし、見ることができる、小さい世界にとどまりたくなければ言葉を覚えることである、それしかできないバカアスリートの自慢話や安っぽい人生論なんか聞いても意味がない、言葉を覚えて自分の世界を広げていくこと、そのことが今求められている。
この前うちの子供が特待生の推薦が受けれるということで、その説明をするために塾にその広報の人が来ていたらしい、特待生というのは学費免除でその中学の新しくできた進学クラスに入学するということだが、しかし特待生と言ってもうちの子が特別優秀だからということではなく、まあまあ実績のある進学塾から、そこそこという子供を特待生で入学させて実績を上げていくという試みで、うちのパートナーの話を聞くと、そこの広報部長が直接塾に来て説明していたらしいが、かなり真剣に取り組んでいるそうである。
話を聞いてておもしろいと思ったのは、そこの広報部長が日本人は表現力がとぼしい、だからこれからグローバル社会ではその表現力を身に付ける学習をしなくてはいけないということを力説していたそうであるが、私と同じようなことを言っていたことだ。
表現力をどう養うかということに関しては違いはあるものの、私のブログを見たんじゃないのかというぐらいよく似たことを言っていたらしいが、たぶんそういうところにアンテナをはっていれば自然と同じような結論にいたるのだろう。
英語というのはこの時代には絶対必要である。なぜ必要かというと、この英語がわからなくては今の時代は情報がつかめない、そして多面的な物の考え方ができないから、考え方が小さくなっていくからである。
少し前にテレビを見ていたら、あるアスリートが自分が影響を受けた人物は誰だと聞かれた時に、真面目に戦隊もののヒーローだと答えていた、うけをねらったのかはどうかはわからないが、しかしこれでは子供のインタビューだ、私はなんかそのおちゃらけた雰囲気と部室で軽々しく語るような会話に、頭にきたのでテレビのスイッチを消したが、まあこれが個性だと言ってしまえばそれまでだが、しかしもう少しまともなことえが返せないのだろうか、こういうたぐいの人間の会話は部室の会話レベルだ、公共の電波を使って部室で交わされるようなおちゃらけた会話をさせるのは非常に不愉快だ、オリンピックでどこに行こうが自分たちのことしか関心がない、所謂自分たちの部室というわくをこえることができない。
たぶんそのことはこういった程度のひくい会話にでているのだが、言葉ができない、それしかできないというのは場合によっては罪である、いろいろな国に言っていろいろな民族と出逢えば、日本人ということがどれだけ恵まれているかということがわかるし、いろいろなことが見えてくるものだ、しかし日本のアスリートが話すことと言えば部室の会話、それを聞いて喜ぶ奴も喜ぶ奴だが、拉致問題や竹島の問題などいろいろな問題がある、アスリートにはなるべく答えさせない、答えられないからそうしているのかどうかはわからないが、諸外国に比べて日本のアスリートたちは無知すぎて話にならない、世界に出て行くならば言葉を覚えていろいろなことに関心をもつ必要がある、このあとマララユフスザイが尊敬する人物に殉職したパキスタンの女性大統領をあげていたが、このアスリートとは非常に対照的で、本当に学力不足だということを実感させられた。
さらにこれからの英語の指導者は英語の文法や会話だけではなく、ラテン語や聖書の勉強をする必要がある、なぜそうする必要があるのかというのは、英語そのものをコミュニケーションの単なる手段ではなく、その英語がもつ意味や語られる背景を知ることで、文化や考え方というものを理解することができるからだ、そういうことを知ることで、英語を話すということが単なるツール(道具)ではなく、多面的な物の捉え方ができるメジャー(ものさし)になる、おそらくこれからのグローバル社会ではそういう背景をふまえて英語教育をしていく必要があると思うのだが、そのためにはその言葉の語源となっている、ラテン語や考え方の背景となっている聖書を理解することが大事なことで、私はこれを英語を覚えるのではなくて吸収すると言っているが、これからの英語教育に必要なのはこの英語を吸収していくことだと思っている。
英語というのは魔法の言葉だ、この英語を理解するだけでたくさんの人と話すことができるし、たくさんの人の考え方や文化を吸収できるのだ、英語がわからないと、まだ見えていないことがたくさんある、オリーブではやりなおしの英語ということで何人かの人に英語を教えているが、その時私は英語を教えながら、その考え方や語源や他の言葉との違いなどを説明しているが、そのことを知ることで新しい世界が開かれ、考え方や世界を広げて行って欲しいからである。
ディズニー映画のアラジンの主題歌a whole new worldの歌詞にこういう言葉が出てくる。
Ican show the world.shining shimmring splendid.tell me princess now when did you last let your heart decide?(君に世界を見せてあげよう、光輝く広がる世界を、さあ教えてプリンセス君が最後に自分で決断したのはいつ?)この歌はアラジンが夜にこっそり宮殿にしのびこんでプリンセスを魔法のじゅうたんにのせて、世界を飛びまわった時に歌った歌詞だ。教えてプリンセス君は自分自身で決断したことがあるかい?宮殿というきらびやかではあるけども限られた狭い世界に生きてきたプリンセス、しかし魔法のじゅうたんにのることで、もっともっとさらに大きい世界を見ることができた、英語というのはまさにその魔法のじゅうたんならぬ、それを動かす魔法の言葉、The magic wordである。この魔法の言葉を覚えれば世界のいろいろなことを知ることができるし、見ることができる、小さい世界にとどまりたくなければ言葉を覚えることである、それしかできないバカアスリートの自慢話や安っぽい人生論なんか聞いても意味がない、言葉を覚えて自分の世界を広げていくこと、そのことが今求められている。