昨日結構学識のある人と日本とアメリカの就職面接のことで話をした。この方の話はいつも感心させられることが多く、話をしていて非常にためになるのでよく話をするのだが、日本と欧米ではインタヴューで求められることが違うと言うようなことを話しをしたのだが、アメリカではインタヴューの時、自分が持っているスキルやアビリティについて聞かれる。
自分はどういう学位を持っているのか、そしてボランティア活動で実際自分はこういうことを活動したというような即実践として使えそうなことを強調して話すのだが、しかしこれに対して日本の面接は、日本は自分は何ができるのかと言うスキルやアビリティが求められることがないと思う。
おそらく日本の企業は即戦力になる人材よりも、会社組織に順応できるかどうかということが大事だと思うが、これは圧迫面接を行ったり、社員を新人から徹底して教育するということからも言えると思う。
日本の企業では仕事のことは入社したら教育されるので、むしろそういったスキルをもとめるよりも、組織に順応できることが第一条件で、社員教育の前の段階として英語のアビリティが求められるそうである。
話しはうちのマネージャーの話になるが、彼女は欧米での生活が長いのではっきりと意見を言うタイプで私は非常に彼女を信頼しているのだが、いわゆる自己主張が強いタイプである。
しかし彼女の自己主張は自己表現力をともなった自己主張で、いろいろと考えて主張しているし、言ったことに対してきちんと責任をとる姿勢はあると思う。
よく言いたいことだけを自分の話を聞いてくれる人間の前だけで主張することが自己主張と勘違いしている奴がいるが、しかしこれは自己主張ではない。
私に言わせれば自己主張と言うのは、バカではできない。きちんとした分析力と自己表現力が伴ってこそ自己主張である。
面接にしても自分はどういう人間で、自分には何ができるかということをこたえることは非常に難しいことで、自己分析ができなければ、ただの言いたいことである。自分はこういう人間であると言うことを主張したいならば、自分のアドヴァンテージとディスアドヴァンテージを分析し、そこから自分には何ができるのかということを考えることが自己主張につながると思う。
もともと西洋人の考え方にはこういう考え方が根底にある。
こういう考え方をアウフヘーヴェンと言うのだが、欧米の人間が東洋人に比べて合理的であると言うのはこういう考え方の違いであると分析しているが、しかしこういう考え方は日本人にはない。
時々学生の話では面接で短所や長所を聞かれると言うようなことを聞いたが、そもそも短所が長所にもなりうるのであって、そういうことを聞いて何の意味があるのか?小学生の劇団の面接でもあるまいし、長所はと気かれて小学生のように気の長いところなんてこたえるのだろうか不思議で、ビジネスの場で長所と短所はなんて聞くのは馬鹿げている。もし問うのであれば、アドヴァンテージとディスアドヴァンテージは何かで、そのことを真剣に問うことが、自己分析と表現力につながるのではないかと思っているが、最近面接も外国人を採用するところが増えてきたらしいが、そういう場ではこういう考え方をもって面接に臨む方がアドヴァンテージになると思う。
さらに付け加えて言うならば、昔スポーツをやっていることがアドヴァンテージになった時代があったが、それは表現力が乏しく、自己分析して自分のことをしっかり主張できなかったから、せめて何かとりえはないのかということで、スポーツをやっていることが有利になったのだと思う。そもそもビジネスの場で、自分はスポーツをどれだけ一生懸命やってきたかということがアドヴァンテージになると思っている奴は、勘違いも甚だしい。ボクサーなどのスポーツ選手になるならまだしも、スポーツなんて言うのはビジネスの場では関係ない事であって、求められるのはその場で自分がどういう生かされ方をするかということだ。
スポーツでねばりとか協調性を学んだと言うようなことを言う奴がいるが、しかしこういうことはスポーツでしか学べないことはないことはない、私が面接官で、もしボクシングを10年やってきたなんていうことを堂々という奴がいたら、まず君が10年間してきたことはそれだけか、さらにそれだけうたれて脳へのダメージはないのかと疑うが、いくらそれが好きで没頭しようが、むしろ学業をほったらかしにしてそれだけに没頭すると言うことの方が問題だと思うが「自分はは何々を一生懸命やってきました」と言うような、こういう独りよがりの言葉はもはや通用しない時代だと思っている。
前にソヒョンが学校で自分が納得のいかないルールがあって、それを先生に直談判に言ったらしい。
そのルールかきまりはここで言わないが、ただ先生がこちらの文化をわかっていなかった結果、少し不快な思いをしたそうである。
私は相談された時、彼女に「文化の違いと言うのはどの国に行っても感じることだが、しかしここで外国人である君がそれをどう解決するかが、今後の君の在り方を左右すると思う」とよく考えて言うようにということを言ったのだが、実際彼女の偉いところは、ただその時の感情にまかせてそれがおかしいといったのではなく、その文化を受け入れるべきかということをよく考えた上で、自分はそれを受け入れることはできない理由をきちんと説明したらしい。
彼女は小学6年生、おやじの話では、彼女が私と話すようになってからだいぶ成長したということを言ってくれているが、正直こういう女性を見たらむこうも女性大統領が出てもおかしくないと思ってしまう。
自分はどういう学位を持っているのか、そしてボランティア活動で実際自分はこういうことを活動したというような即実践として使えそうなことを強調して話すのだが、しかしこれに対して日本の面接は、日本は自分は何ができるのかと言うスキルやアビリティが求められることがないと思う。
おそらく日本の企業は即戦力になる人材よりも、会社組織に順応できるかどうかということが大事だと思うが、これは圧迫面接を行ったり、社員を新人から徹底して教育するということからも言えると思う。
日本の企業では仕事のことは入社したら教育されるので、むしろそういったスキルをもとめるよりも、組織に順応できることが第一条件で、社員教育の前の段階として英語のアビリティが求められるそうである。
話しはうちのマネージャーの話になるが、彼女は欧米での生活が長いのではっきりと意見を言うタイプで私は非常に彼女を信頼しているのだが、いわゆる自己主張が強いタイプである。
しかし彼女の自己主張は自己表現力をともなった自己主張で、いろいろと考えて主張しているし、言ったことに対してきちんと責任をとる姿勢はあると思う。
よく言いたいことだけを自分の話を聞いてくれる人間の前だけで主張することが自己主張と勘違いしている奴がいるが、しかしこれは自己主張ではない。
私に言わせれば自己主張と言うのは、バカではできない。きちんとした分析力と自己表現力が伴ってこそ自己主張である。
面接にしても自分はどういう人間で、自分には何ができるかということをこたえることは非常に難しいことで、自己分析ができなければ、ただの言いたいことである。自分はこういう人間であると言うことを主張したいならば、自分のアドヴァンテージとディスアドヴァンテージを分析し、そこから自分には何ができるのかということを考えることが自己主張につながると思う。
もともと西洋人の考え方にはこういう考え方が根底にある。
こういう考え方をアウフヘーヴェンと言うのだが、欧米の人間が東洋人に比べて合理的であると言うのはこういう考え方の違いであると分析しているが、しかしこういう考え方は日本人にはない。
時々学生の話では面接で短所や長所を聞かれると言うようなことを聞いたが、そもそも短所が長所にもなりうるのであって、そういうことを聞いて何の意味があるのか?小学生の劇団の面接でもあるまいし、長所はと気かれて小学生のように気の長いところなんてこたえるのだろうか不思議で、ビジネスの場で長所と短所はなんて聞くのは馬鹿げている。もし問うのであれば、アドヴァンテージとディスアドヴァンテージは何かで、そのことを真剣に問うことが、自己分析と表現力につながるのではないかと思っているが、最近面接も外国人を採用するところが増えてきたらしいが、そういう場ではこういう考え方をもって面接に臨む方がアドヴァンテージになると思う。
さらに付け加えて言うならば、昔スポーツをやっていることがアドヴァンテージになった時代があったが、それは表現力が乏しく、自己分析して自分のことをしっかり主張できなかったから、せめて何かとりえはないのかということで、スポーツをやっていることが有利になったのだと思う。そもそもビジネスの場で、自分はスポーツをどれだけ一生懸命やってきたかということがアドヴァンテージになると思っている奴は、勘違いも甚だしい。ボクサーなどのスポーツ選手になるならまだしも、スポーツなんて言うのはビジネスの場では関係ない事であって、求められるのはその場で自分がどういう生かされ方をするかということだ。
スポーツでねばりとか協調性を学んだと言うようなことを言う奴がいるが、しかしこういうことはスポーツでしか学べないことはないことはない、私が面接官で、もしボクシングを10年やってきたなんていうことを堂々という奴がいたら、まず君が10年間してきたことはそれだけか、さらにそれだけうたれて脳へのダメージはないのかと疑うが、いくらそれが好きで没頭しようが、むしろ学業をほったらかしにしてそれだけに没頭すると言うことの方が問題だと思うが「自分はは何々を一生懸命やってきました」と言うような、こういう独りよがりの言葉はもはや通用しない時代だと思っている。
前にソヒョンが学校で自分が納得のいかないルールがあって、それを先生に直談判に言ったらしい。
そのルールかきまりはここで言わないが、ただ先生がこちらの文化をわかっていなかった結果、少し不快な思いをしたそうである。
私は相談された時、彼女に「文化の違いと言うのはどの国に行っても感じることだが、しかしここで外国人である君がそれをどう解決するかが、今後の君の在り方を左右すると思う」とよく考えて言うようにということを言ったのだが、実際彼女の偉いところは、ただその時の感情にまかせてそれがおかしいといったのではなく、その文化を受け入れるべきかということをよく考えた上で、自分はそれを受け入れることはできない理由をきちんと説明したらしい。
彼女は小学6年生、おやじの話では、彼女が私と話すようになってからだいぶ成長したということを言ってくれているが、正直こういう女性を見たらむこうも女性大統領が出てもおかしくないと思ってしまう。