英字新聞に面白い記事がのっていた。
桃太郎の話であるが、実はこの桃太郎にはメタファーがあると言うのだ。
もう桃太郎の話は誰もが知っていると思うのであえて書かないが、桃太郎が3匹の家来とともに鬼が島に鬼を退治にしに行くと言う勧善懲悪的なおとぎばなしである。
しかしこの物語はメタファーが含まれているそうだ、
桃は健康を象徴していて、鬼は社会の様々な障害を表し、健康である若者であるならば、その生涯を乗り越えなくてはならない。
そこでそれを乗り越えていくためには3つのことが必要で、その必要なものが3匹の動物にたとえられているのだが、まず犬は忠誠心、そしてサルは知恵のこりのキジは勇気と広い視野をそれぞれ象徴しているのだが、健康な若者であれば忠誠心と知恵と勇気と広いビジョンを持っていればどんな障害をも乗り越えて行けると言うメタファーがこの物語にはかくされているそうである。
こんな解釈もあるのかと感心していたのだが、しかし忠誠心とは今の日本ではほとんど死語になっていた言葉である。
たぶん忠誠心なんて言う言葉を求めるのは、やくざの世界か運動系のクラブぐらいだと思うが、しかしここで言う忠誠心は少し違う、英語ではroyaltyと言う言葉で、これはもともと王様などに仕えるときに使う言葉で、王は神から権威を授かった一国のあるじであるから、すなわち忠誠心とは国家に対するものとうけとってもいいと思う。
そう考えると今時忠誠心など持った人間などいるのだろうか?終身雇用がうすれてしまった世の中、独立という言葉はよく聞くが、会社に対する忠誠心でさえほとんど若い人たちの口からは聞こえないが、おそらく日本人はこの忠誠心と言う言葉を、戦争にまけていらい捨ててしまっているように思えるのだが、今時国家に忠誠心を尽くすなどという考え方は馬鹿げているようにさえ思える。
薄ら覚えで恐縮だが、私がHIにいた時ビデオかテレビか忘れたが、ある討論会を見ていた。
そこでは田原総一郎が作家を招いて討論をしていたのだが、その討論の中で田原が作家にあなたがたにとって国防とは?とたずねたシーンがある。
その時たいていは自分の自由や権利、命の保証というようなことを答えていたが、しかしある作家がこういうことを言っていたのが衝撃的であった。それは「守るべき権利と言うものは、自分の命をこえて存在することもある。自分たちの愛すべき子孫を守るためには、命をかけなくてはいけないこともあるんだ」と言うようなかなり右寄りの意見であったが、当時の私にはかなり衝撃的であった。
正直私はそこまで国家と言うか、日本人としての義務は持っていないというか持てないし、今の人間にそこまで国家に対する責任を背負わすことは無理があると思う。
がしかしこの意見は非常に大切でかつ、自分たちに必要なものは何かと言うことを伝えている。
この作家の人の考えでは国家イコール命をかけて守るべきものであるというのであるが、国家と言うものは非常に重い価値のあるものであって、今の日本人にはそれがよく理解できていないのかも知れない。
私のもう一つのルーツは祖先と言うものを非常に大事にする。
最近ではキリスト教徒が増えて、そういう儀式が簡略化してきたことは確かであるが、しかしそれでも先祖を大事にするという考え方は、自分のルーツに帰るチェサなどの行事が色濃く残っているということからもわかるが、先祖と言うものを大事にするというのが彼ら彼女らの考え方であり、それが自分たちの生き方のベースになっている。
私は昔この先祖崇拝について考えたことがある。
それは子供のころおやじに「なぜ墓参りみたいな面倒くさいことをかかさずやるのだ。」と尋ねた時に「お前のためだ」言われた言葉がきっかけで考えたことだが、それはなんで墓参りすることが俺のためなのと言う疑問からはじまった。
その夜ずーっと考えて分かったことだが、それは自分と先祖とのつながりが偶然でないことである。
自分という人間は何千年前からつながっているが、もしそこで誰かに子供ができなかったり、死んでしまえば自分は存在しない、そう考えると自分がここにいるのは偶然ではなく必然的に存在しているのだから、先祖に感謝するのは自分が今ここに存在しているというあかしで、自分が生まれてきたことは偶然ではなく必然なんだ、その時自分は生きていることに感謝できた。そう思うと逆にその先祖に感謝しなくてはいけないと思ったことは確かである。
まあ少し的を得ていない答えかもしれないが、今個人の権利と言うものが尊重される中、全体を通してみないと本当に大切なものが見えないこともある。
自分の存在がまさにそうで、自分の命が存在するためにすてられた命があるということを、この作家は言いたかったのではないかと思うが、それは自分たちが国家と言うものにつながり、その国家を守るために犠牲になった命を深く考えるときに見えてくるものではないかと思っているが、自分の存在と言うのは個人だけではなく、家族、先祖、そして国家と言うものを考えた時にこそ、その存在の確かさが見えてくるのかも知れない。
桃太郎の話であるが、実はこの桃太郎にはメタファーがあると言うのだ。
もう桃太郎の話は誰もが知っていると思うのであえて書かないが、桃太郎が3匹の家来とともに鬼が島に鬼を退治にしに行くと言う勧善懲悪的なおとぎばなしである。
しかしこの物語はメタファーが含まれているそうだ、
桃は健康を象徴していて、鬼は社会の様々な障害を表し、健康である若者であるならば、その生涯を乗り越えなくてはならない。
そこでそれを乗り越えていくためには3つのことが必要で、その必要なものが3匹の動物にたとえられているのだが、まず犬は忠誠心、そしてサルは知恵のこりのキジは勇気と広い視野をそれぞれ象徴しているのだが、健康な若者であれば忠誠心と知恵と勇気と広いビジョンを持っていればどんな障害をも乗り越えて行けると言うメタファーがこの物語にはかくされているそうである。
こんな解釈もあるのかと感心していたのだが、しかし忠誠心とは今の日本ではほとんど死語になっていた言葉である。
たぶん忠誠心なんて言う言葉を求めるのは、やくざの世界か運動系のクラブぐらいだと思うが、しかしここで言う忠誠心は少し違う、英語ではroyaltyと言う言葉で、これはもともと王様などに仕えるときに使う言葉で、王は神から権威を授かった一国のあるじであるから、すなわち忠誠心とは国家に対するものとうけとってもいいと思う。
そう考えると今時忠誠心など持った人間などいるのだろうか?終身雇用がうすれてしまった世の中、独立という言葉はよく聞くが、会社に対する忠誠心でさえほとんど若い人たちの口からは聞こえないが、おそらく日本人はこの忠誠心と言う言葉を、戦争にまけていらい捨ててしまっているように思えるのだが、今時国家に忠誠心を尽くすなどという考え方は馬鹿げているようにさえ思える。
薄ら覚えで恐縮だが、私がHIにいた時ビデオかテレビか忘れたが、ある討論会を見ていた。
そこでは田原総一郎が作家を招いて討論をしていたのだが、その討論の中で田原が作家にあなたがたにとって国防とは?とたずねたシーンがある。
その時たいていは自分の自由や権利、命の保証というようなことを答えていたが、しかしある作家がこういうことを言っていたのが衝撃的であった。それは「守るべき権利と言うものは、自分の命をこえて存在することもある。自分たちの愛すべき子孫を守るためには、命をかけなくてはいけないこともあるんだ」と言うようなかなり右寄りの意見であったが、当時の私にはかなり衝撃的であった。
正直私はそこまで国家と言うか、日本人としての義務は持っていないというか持てないし、今の人間にそこまで国家に対する責任を背負わすことは無理があると思う。
がしかしこの意見は非常に大切でかつ、自分たちに必要なものは何かと言うことを伝えている。
この作家の人の考えでは国家イコール命をかけて守るべきものであるというのであるが、国家と言うものは非常に重い価値のあるものであって、今の日本人にはそれがよく理解できていないのかも知れない。
私のもう一つのルーツは祖先と言うものを非常に大事にする。
最近ではキリスト教徒が増えて、そういう儀式が簡略化してきたことは確かであるが、しかしそれでも先祖を大事にするという考え方は、自分のルーツに帰るチェサなどの行事が色濃く残っているということからもわかるが、先祖と言うものを大事にするというのが彼ら彼女らの考え方であり、それが自分たちの生き方のベースになっている。
私は昔この先祖崇拝について考えたことがある。
それは子供のころおやじに「なぜ墓参りみたいな面倒くさいことをかかさずやるのだ。」と尋ねた時に「お前のためだ」言われた言葉がきっかけで考えたことだが、それはなんで墓参りすることが俺のためなのと言う疑問からはじまった。
その夜ずーっと考えて分かったことだが、それは自分と先祖とのつながりが偶然でないことである。
自分という人間は何千年前からつながっているが、もしそこで誰かに子供ができなかったり、死んでしまえば自分は存在しない、そう考えると自分がここにいるのは偶然ではなく必然的に存在しているのだから、先祖に感謝するのは自分が今ここに存在しているというあかしで、自分が生まれてきたことは偶然ではなく必然なんだ、その時自分は生きていることに感謝できた。そう思うと逆にその先祖に感謝しなくてはいけないと思ったことは確かである。
まあ少し的を得ていない答えかもしれないが、今個人の権利と言うものが尊重される中、全体を通してみないと本当に大切なものが見えないこともある。
自分の存在がまさにそうで、自分の命が存在するためにすてられた命があるということを、この作家は言いたかったのではないかと思うが、それは自分たちが国家と言うものにつながり、その国家を守るために犠牲になった命を深く考えるときに見えてくるものではないかと思っているが、自分の存在と言うのは個人だけではなく、家族、先祖、そして国家と言うものを考えた時にこそ、その存在の確かさが見えてくるのかも知れない。