脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

流れ流れて

2012-05-10 | Weblog
時々クラブに子供に自信をつけせるためというようなことで、ボクシングをさせたいという人たちが来る。しかしただ単にスポーツをさせたから自信がつくと言うのは短絡的である。
おそらく自信をつけるたいと言っているお母さんやお父さんは、その子の性格的なものの改善を望んでいると思うのだが、しかしそうなるとスポーツをさせればいいのかという問題だけではなく、もう少しその子の性格などを考えて、スポーツをさせるにも慎重に考えて行かなくてはならない問題であるのだが、私なんかはそのディスアドヴァンテージを改善しなくてはいけないと考えるよりは、もし気が弱いことをディスアドヴァンテージに考えているのなら、気が弱いと言うのは性格なのだから、そのことを積極的に受け取っていく方がいいのではないかと思っている。

しかし自信なんて誰でももてるものではない、ましてやスポーツをやったからと言って持てるものでもないだろうと思う。
現にボクシングをしている人間のすべてが自信があるのかと言えばそうではない。私なんかはむしろ勉強やその他のいやなことから逃げて来て流れ着いたみたいな感じで、そこにへばりついていると言った奴のほうが目立つように思える。
確かに非常に立派な人もいるのだが、しかし正直そういう人たちの方が目立つことは確かだ。
現にそういう集団は単にボクシングが好きと言うよりも、それしかできないから固まっているのだが、仲間意識が強く、そこではおのずと先輩後輩の関係ができ、ボクシングの肩書が幅をきかす世界で、それが健全かどうかと言うとそうではないと思う。
時々言うボクシングは殺し合いだなんて言う奴なんかもそうだ、こういう言葉がでてくるのは勢いで話そうとするからである。普通に話せば、こういう大人が聞いたら勘違いされるような言葉が出てくるはずはないのだが、しかしコンプレックスが強いと人に見下されるのがこわくて、つい勢い余ってこういう言葉が出てくるのだと思っているが、こういうことは私があえて書かなくても周りから見たらよくわかることだが、人前でまともに話ができたらこんなバカなことはいわないだろう。勉強もしないで、好きなことしかしないとこういう限界が出てくるのだ。

スポーツに望めるとしたら、それは運動をさせることでホルモンのバランスがよくなって、積極性が出てくると言うことである。
これはうちのクラブの話であるが。うちのクラブには海外勤務を希望したり、留学を志した人たちがいるし、かつていた。これは少し笑える話であるが、ある小学生はお母さんが言うに「俺は高校になったら日本にいるかどうかわからん」と言ったそうだが、これらは練習中に私が語学の話や英語の話をしたことで興味を持ったからであり、こういうアドヴァンテージを仕事や勉強面のモティヴェーションに結びつけてやることが大事なことだと考えているが、我々がもしスポーツに望める何かがあるとしたら、そういうアドヴァンテージを考えて、何かその子が必要な目的につなげてあげることではないかと思っているが、これはある意味生理学的なメカニズムをよく考え理解することも必要であり、スポーツを競技する中でほめたりすることや、人とのコミニケーションなどにおいても、そういう将来のアドヴァンテージに結び付けるようなかたちをつくることも大事なことで、これからのスポーツ心理学などで取り組んでいってもいい課題であると思う。

私の意見としてはスポーツと言うのは性格を改善するためのものではない。
しいて言えばそこで人間関係などを通して成長する場であると思うのだが、子供にとって性格を改善させることよりも成長することが大事なことで、しかしたいていの親は成長よりも改善を願っているのではないだろうか。
成長するには時間がかかる。体育会であいさつや礼儀と称する言葉をつかわせて服従させることで、その子を成長させたと勘違いするが、しかしそんなものは成長でもなんでもない、ただそういうやくざまがいのヒエラルキーに一時的に順応させられただけであるが、一時的な改善を願うならばやくざの組に入れたほうが徹底してやってくれるのでその方がいいと思うのだが、こういう服従は軍隊に入るならまだしも一般社会では必要はない。
成長は栄養と同じで、同じものしか食べないと偏りが出てきて体のバランスをうしなう。それとおなじように、体を動かすだけでは偏りがある。成長するためには勉強することも大事であるが、そういうかかわりの中でスポーツをとらえる必要がある。
スポーツは何か賞を目指して、ただそれにむけてがむしゃらに競技するだけのものではない。
スポーツと言うのは公平で誰でも競技する権利があるのだから、これを競技することで彼彼女らの将来に役に立つような仕方でも競技することを考える必要があるだろう。

体育会が健全ではないと思うのは、今言った人間関係を通して成長できる場ではないこと、単純なヒエラルキーが出来上がっているので、個人レヴェルでの人間関係を考えることができないので、ある意味成長がない。

最後にひとつ私の意見はうっとうしいと思っているのに、ぱくれるものはすべてぱくってつかう奴らがいるから笑える。
親が子供に自信をつけたいんですけどと言って「性格を改善させるのではなく、ここでは成長させることを考えている」なんて言ったら、間違いなくここに書いてあることの引用であるが、教育レヴェルや文化レヴェルがひくいと人のアイデアや意見などを平気でぱくるから始末におけない。









  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

口がしびれる

2012-05-09 | Weblog
うちは3人家族である。
日曜日は外食が多いのだが、時々近所の回転ずしに行く。
いつも食べた後に気付くのだが料金が回転ずしにしては高いのだ。ひょっとしてぼったくんのと違うんかと思って、この前行った時にチェックしたところ、なななんとうちのせがれの注文しているすしが、赤い皿や金の皿で高いネタのすしではないか、子どもだったらウインナー巻とかあるやろと思ったが、何も考えずにそういう皿を注文し積み上げていく、だいだい色や青の皿ばかりねらって食べている俺の苦労はどうなるんじゃと思ったが、どうやらこれが理由を表すwhyであったようだ。
この話を同じ年頃の子供を持つ会員の人に話したところ、笑って「それはいけませんな、赤い皿を食べたら口がしびれるとか言うのはどうですか、うちは家族が多いからそんなことをしたら大事ですよ」と半分冗談交じりに言っていたが、ひょっとしてこの人、子供の前で「口がしびれたー」なんて芸をしたのかなあと思いつつ、しかしうちの子は今5年なので、そんなことを言ってもわかるので、もっと小さい頃に口がしびれるぞと言っておくべきだった。

巷では子育ての会と言うのがあるらしい。
これはおもに子育てに悩むお母さんたちのためのものであるが、そこは核家族化して子供と一人で向き合うお母さんたちが、集まって自分の悩みをうちあけたり、子育ての方法などを研修する場である。
オリーヴも30代半ばから40代の人たちが多く在籍しているので、そういう人たちが集まれば自然と子供の話になる。子供が野球チーム入った話や思春期になって少しとまどっているなどという話をするのであるが、私はこういう機会が生まれることはたいへんいいことだと思っている。
そういう話ができれば雰囲気もそういう世代の人たちが来やすくなるし、ひょっとしてもしそういうことで悩みをかかえている人が、そこで何かヒントを得て助けられる機会も出てくることもあると思っているからだ。

ここは社会人が集うボクシングクラブである。
だから誰も将来何とかチャンピオンになるなんていうような目標などもっていないし、むしろここではこれをすることでボクシングと言う趣味が、その人たちの生活や仕事に生かされると言うことを目標にしている。
ここに来る高校生のほとんどは受験を控えている子供である。
私は入会にあたって高校生あるいはお母さんに、まずパンチが与える脳の危険性を説明してから、ボクシングを受験に生かすこと、よく勉強とスポーツの両立と言うことを言うが、しかしここではボクシングをすることで、勉強の効率を上げていくような仕方で、競技すればいいということを言っている。
ボクシングと言うのは所詮スポーツである。そしてスポーツは楽しむことが目的であって、その楽しむと言うことができれば、勉強などの息抜きや受験のための体力づくりができる、そういう意味でボクシングをすることで勉強の効率をあげるようにと言っているのだが、それは社会人と仕事そして家庭の関係についても言えることである。

しかし楽しむと言ってもそれで強くなって、俺は何とかチャンピオンだとか、何とか何位だと言うようなくだらない肩書を振りかざして、小さな優越感にひたることではない。
まずこういう競技人口が少ない種目で偉そうなことを言っても意味がない、だいたいそういうことを自慢する奴に限ってコンプレックスのかたまりだと思うが、楽しむと言うのはあくまでそれが趣味だと言うことを徹底させることであるが、そのことを徹底させるためには、しょうむない価値観でかたまって、これが一番などと言う考え方を持たない、雰囲気を出さないことが必要だと思っている。
私から見て、日本のボクシングは武道に近い。厳しい減量して試合に挑むと言うような考え方はまさにそういう武道的なストイックな考え方から来ていると思うのだが、体をしぼるならまだしも体重をへらすことで、競技それ自体が有利になるなどと言う考えはどこから来たのだろうか?
おそらく科学的には何の根拠もない事であろうと思われるが、逆にこういうことを成長期にすることは無謀なことだとわかってやっているのだろうか?ひどい奴は高校生にきつい減量を強いらせるらしいが、こういうことは文部科学省的に大問題だが、わかっているのかわからないが、たいした根拠もないのに成長期に減量などを強いるのは、まさに意味のない精神論を振りかざしているだけで、もし高校生など成長期の子供が1か月で5キロ以上の減量をすると言うならば、それをさせないようにするのが適切であり教育的配慮であると思うのだが、それでも減量もひとつの戦いだとバカなことを言うのだろうか?
おそらくこういう雰囲気と言うか、間違った考え方が支配している限りは、ボクシングは純粋にスポーツとして楽しめない。以前そういう輩たちに対して、教育レヴェルがひくいと言っていた人がいるが、これは全くうなづける、子供のボクシングや無理な減量なんかは常識で考えたらわかることで、こういう奴らに教育的配慮なんていくことは考えられない、そこにあるのは監督や先輩がそういっているからそうだというような師弟関係やへんに結びつきの強い仲間意識であって、一般的な考え方ではない。
おそらく医療関係者はもちろんのこと、子供にボクシングさせるのはあぶないやろと思っている人はたくさんいるし、なぜ減量することが有利になるのかと言う疑問を持った人もたくさんいると思う。
普通一般的にはそういう考え方が多いので、そういう人たちは競技目的でボクシングをしないさせないのであるが、しかしもう少しこのスポーツが一般的に認められたかったら、そういう一般的な常識と言うものをよく理解しなくてはいけないと思うが、こういうことも含めてこちらが常識的な配慮をすることも社会人にとってボクシングを楽しめるひとつの条件だと思う。

合衆国憲法にこういう法がある。
「neither slavely nor involuntary servitude .....shall exist whitin the United state, or any place subject to their jurisdiction.」
奴隷制や自発的な隷属はアメリカ合衆国内およびその法がおよぶいかなる場所も存在してはならない。
特に注目したいのはinvoluntary servitudeという単語で、これは自発的な隷属と訳されているが、しかしこの言葉、強制的あるいは無意識の隷属とも訳せる。
oxfordの辞書でも「without you intending it or being able to control it」とまず出てくるので、この言葉は本人が意識しているかいないかにかかわらずということであるが、私はこういう言葉をつかうということから、奴隷制と言うのは本人がどう思っているのかにかかわらず、それは悪であり、なくすべきものであると言う徹底した態度があらわれているように思えるが、おそらくスポーツの世界でヒエラルキーの中で支配されている人たちもそうだ、はい、はい、はいととにかく返事をしているクラブでは、無意識に隷属させられていないのだろうか?その世界に一度入ってしまえば当たり前かもしれないが、しかし学問的な考え方や常識と言うものに照らし合わせて、こういう考え方や世界は狭いとかこういうことはおかしいと考える必要はあるのではないかと思っている。
















  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Inside Korea 2

2012-05-06 | Weblog
ゴールデンウイーク中うちの子供が塾か学校の宿題かはわからないが、社会のプリントを解いていた。
見てみると日本列島の周辺にある、日本の一番北にある島とか我々がわからないような島などを漢字で記入していたのだが、しかし彼はその近くにある隣の国を記入した時、なんと彼は「韓国」と書いていたのだ。
私は彼に「韓国」はテストではどうかわからないが、正式名は違う。
韓国は正式には大韓民国で韓国と言うのはその略だから、テストなどで書く時には「大韓民国」と書いた方がいい、そうでないと失礼にあたるだろと言ったのだが「じゃあ「竹島」は「独島」と書くのか」と聞くので「いやそれは違う。独島ではなく竹島だ」と言ったが、小学校の地理的な問題でもこういう問題にぶつかるのだから、日韓の歴史や領土問題を教えることは非常に難しいことである。
韓国の正式名は「大韓民国」だと言うことは知られている。
ワールドカップが日韓の共催で行われた時、彼ら彼女らがを応援するときに「テーハンミングク」とでかい声で叫んでいたのは記憶に新しいが、このテーハンミングクこそが韓国の正式名大韓民国である。
大韓民国は朝鮮半島にあるが、独立したひとつの国である。
よく彼ら彼女らのことをひとくくりにして朝鮮人と言う言葉を使う人がいるが、しかしこの言葉は特に韓国人にたいして使われる言葉としては正確ではない。朝鮮民族というのなら正しいが、しかし何人かと言えば彼ら彼女らは韓国と言う国に住んでいるので、朝鮮人ではない韓国人だ。韓国語と朝鮮語も厳密に言えば違うし、彼ら彼女らはそういうアイデンティティを持っていると思う。
韓国語でも自分たちのことを何人だと言う時は、ハングクイン(韓国人)と言う言葉を使っているので、隣の国の彼ら彼女らを尊重する意味でも、これぐらいの常識は知っておいた方がいいだろう。

前回inside koreaで韓国もかわってきたと言うことを書いたが、私自身の目から見て特に若い人たちの考え方が変わってきたことは確かなことで、おそらく今なら昔言えなかったことも、時と場所を選べば言える、議論できる土壌が育ちつつあるように思える。
今韓流ブームで日本人で韓国の人と付き合いたいとか、結婚したいという人が増えてきているらしいが、実際に私自身も誰か紹介してくれと言われたことがあるのだが、この前テレビを見ていたら20代後半ぐらいの女性が韓国人と結婚して韓国人になりたいと言っていたのには驚かされたが、日本人で韓国人になりたがっている人は結構いるらしいが、韓流ブーム恐るべしである。
まあこういうことは、今から20年ぐらい前だとこういうことは決してなかったのだと思うが、しかしこれと同じようなことが韓国の若い人たちの間で日本ほどではないが見られる。
現に私の知り合いも、日本に住みたいとか、日本人と結婚したいとか言っている人たちがいるのだが、これはテレビやニュースなどで流される反日とはまったく逆の部分である。
反日教育では日本人はわるい民族だと教えられている一方で、大好きだと言う部分も隠し切れない、つまり教育とは別に規制がなくなりつつあり、言論や報道の自由が認められているので、自分なりに日本と言う国を理解できるようになったと言うことで、実際に日本に来てから少し考えが変わったと言う人も少なくはない。
確かにむこうの芸能人のすべてと言っていいほど、日本に対して反日感情をあおるような歌を歌ったり、行為を繰り広げているように、日本人が好きだなんていうことは我々の時代にはあり得ないことだ。
20年前にカリフォルニアの大学で教鞭をとっておられる申と言う先生がいたのだが、この先生とお会いした時に「君のような立場の人間は日本にいたらろくなことがないから大学を卒業したら、自分のところに来なさい」とまじめに言われたことがあるが、彼ら彼女らは日本人に対してかなり偏りのある教育を受けてきたことは確かで、こういう偏見が長い間韓国の教育界を支配してきたのだと思う。
しかしその一方では、そういう行動を冷ややかに見ていることも事実である。
最近ではソウル大学の教授が従軍慰安婦のことで、かなり日本寄りの発言をしたことが物議を醸し出したが、実際に違う意見もこういう教育会の中にしばしば見られることも確かである。
中国と韓国は反日の強い国であるが、しかし一つだけ決定的な違いがある。それは韓国はようやく言論の自由が認められるようになったことで、自由に自分で選択して考えることができることだが、このことはお互いの国のことを理解しあう上では非常に大きいことである。
今日本と韓国が歩み寄っていく上で大事なことは、お互い仲良くしましょうと言うようなことではない。
そういうレヴェルでの歩み寄りは、むしろ商業に利用されるだけで、そろそろ日本人も自分たちの持っている歴史観に基づいて、自分たちの考えを主張することではないだろうかと思うのだが、これからの世代は、そういう議論ややりとりができるのではないかと信じている。
これからの時代は英語をおぼえて主張していくことが大事であるが、しかしまずこの隣の国の一番近い人たちに対して主張できなければだめだと思っている。
私は隣の国の人に何も言えないということが日本人を主張することから遠ざけているトラウマのようなものだと理解しているが、おそらく日本人が国際社会に対して主張できる。意見を持つと言うのは、ここから始まるのだろう。
半分血が混ざった私にとって、それを独島と呼ぶのか竹島とよぶのかは非常に大きな問題である。
もし彼ら彼女らと話す機会があって、その固有名詞を言わなければならないとしたら、何と言うか?
独島か竹島か?liancourt rocksと言う呼び方もできるのだが、しかし私はあえて竹島と呼んでいる。











  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Inside Korea

2012-05-03 | Weblog
クリスマスの日、韓国のあるテレビ番組を見ていた。
それはクリスマススペシャルとか何とか言って、少女時代のメンバーが陸軍の駐屯地に突然慰問にいくのだがが、その慰問の中で番組はあるサプライズを用意していた。
まずそこでひとりの青年が突然前に出てきてくれと呼び出されたのであるが、実はそのサプライズは、この青年に対して仕掛けられたサプライズであった。
言われるままに青年が舞台に出てきたのだが、メンバーの一人が青年に話しかける。
「あなたはなぜここに呼び出されたか知っていますか」
青年は驚いた様子で「いいえわかりません」と言う。
さらに「実は彼は徴兵の義務がないのにあえて自分から徴兵を志願しました。そうですよね。なぜですか」と問う。
青年は「私のお母さんは日本人で、お父さんがなくなりました。本当だったら弟や妹がいるので、家族を助けるためにはたらかなくてはならないのですが、ハジマン(でも)韓国の男として必要だと思ったから自分はあえて徴兵を志願しました。」
この後、彼のお母さんと兄弟が出てきて久しぶりの再会をはたすのであるが、その時兄弟が久しぶりに会ったにもかかわらず「老けた」と言いそれに対して青年が「男らしくなったんだ」と返したのが日本的で、たぶん韓国のヒョンとトンセン、あるいはヨドンセンなら号泣しあっての再会であろうが、彼がどこで生まれたかはわからないが、お母さんを通して日本の習慣や文化が伝わっていることは確かである。
韓国と言うのは目に見えない身分制度が残っている。だから少し生活が苦労している人はなんとなくわかるのだが、お母さんや兄弟たちの姿を見れば、決して裕福そうには見えなかったが、苦労したのだろう、私にはわかるがここで韓国人が生きるのと、向こうで日本人が生きるのでは天と地ほどの差がある。
しかしそういう中にあっても誇り高く生きてきたと言うことは、息子が行く義務のない徴兵制をあえて志願したと言うことからわかるのだが、再開しても兵士の母として涙を見せることなく、感謝を述べ、息子に国の貢献することを願っていると言う、このお母さんの、誇り高く生きようとする日本人の姿に私は非常に感銘を受けた。

こういう姿を見ると、誇り高く生きると言うことはどういうことかということを考えさせられる。
よくスポーツでもプライドがどうだとか言うが、しかしたいていはわかっていないし、偉そうなことを言っているような奴に限って、メンツにこだわり実際人にぶらさがって生きていることが多い。
人間が誇り高く生きると言うのは、言わせてもらえるから偉そうに言えるような程度のひくい武勇伝を交えての持論を語ることではなく、それは漫画のような言葉をつかってただ感情的にうったえるようなことでもない。
それは地道で教育的であり、その人の生きざまを見て感じることだと思うが、おそらくこの子供はお母さんのそういう姿を見て育ったのだと思うが、誇りと言うのは何も持たない時にこそ持つことができる確かさであると思う。

私は基本的に韓流よりも日本流を応援してるのだが、しかし今回の彼女らがこういう青年にスポットをあててくれたことに対して、かなり彼女らに好感を持っているが、驚いたのは大勢の人の前で自分の親が日本人だと言ったことで、我々の時代にはこういうことは言えない、韓国もかわったと感じた。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曲がった

2012-05-02 | Weblog
おとついユリゲラーがテレビに出ていた。
彼は超能力者で、彼のスプーン曲げは有名であるが、正直私は何かトリックがあると思っていた。
まあこれはそうだと断定できることではないが、テレヴィを見た後何気なくスプーンを取り出して「ほんまにこんなもん曲がるんかよ」となにげなくふっているとなななんとまがっているではないか。
「えっ俺って超能力者」ともう一度今度はうーーんと念を込めてふったが曲がらず、あれは一体なんだったのだろうか。

むかしムーダンにこの子は念が強いみたいなことを言われたことがある。
ムーダンと言うのは確かトンイというテレビ番組にも出てきたと思うのだが、その歴史は古く、日本のイタコやユタのような存在であるが、ムーダンと言うのは先祖供養や病を治したり、悪霊を追い払うと言うような儀式をする人のことである。
大都会の習慣にどっぷりとつかった人間には、こういう存在はにわかに信じがたい。
私自身もそんなはずはない絶対トリックがあるはずだなんて疑ってしまうのだが、しかし実際に彼女らが病気を治したり、ご先祖様本人以外には知りえない情報を語ったなどという話を聞くと、彼女らの存在を否定することは難しく、現にいまだにそういう力を頼って相談に行く人はたくさんいることも確かなことである。

韓国語にヌンチと言う言葉がある。これは日常でもよくつかわれる言葉で、次に来る動詞によって意味が少しかわってくるのだが、しかしこのヌンチと言う言葉を独立して考えればかなり意味のある言葉である。
このヌンチは少々日本語に訳すことは難しいのだが、しいて言えば第六感とも訳すのだろうか。
機転がきくとか、感がするどい、のみこみがはやい、そしてずるいという意味にも使われるのだが、おそらくこの言葉のコアになっているのは「感をはたらかせる」ことではないかと思う。
韓国人と生活を共にした人ならわかると思うが、彼ら彼女らの生活の中ではこのヌンチ(第六感)を働かせることが多く、特に目上の者に対してはこういう機転を利かすことが要求されることはよくあることだ。
これは私の意見ではあるが、コレアの女性には絶対嘘はつけない、おそらく嘘を見抜く力は世界で一番するどい民族で、鈍い人も中にはいるが、それは生まれ持ってなのかはたして習慣や生活によって養われるものかはわからないが、そういう見抜く力はおそろしいほどするどく、たいていはその感があたっているからおそろしいものであるが、まさにこれらは彼女らのヌンチであるが、ムーダンを生み出してきたことはこういった土壌があるからだと思う。 
さて話は私のスプーン曲げの話になるが、スプーンが曲がったのは、それがたまたま何かの拍子でまがったのか、あるいは念で曲がったのかはわからないが、しかしどうでもいいことである。
なぜならこれができたからといって、何かができるはずでもないし、人の役に立つこともない、さらに言えばもう一度できるという確信はない。プラグマティズム的に言えば、こういうことがもしできてもそれが実用性を伴わなかったら無駄に等しいことであるからだ。

プラグマティズムというのはおもにアメリカから始まった哲学で、簡単に言えばそれがつかえるかつかえないかという実用性を重視して物事を判断していくと言う考え方である。
まあこの要約は少々雑で、哲学を専攻した人の中には説明が足らんと思う人もいるが、しかしこの解釈は説明が足りなくても的を射た要約であると思っている。
たぶん運動系の中にはプラグマティズムという言葉自体わからない奴もいると思うが、運動系の習慣にパボな習慣が残っているのは、こういうプラグマティズム的な考え方ができないからだと思っている。
日本のボクシングはいまだ師匠と弟子の関係が色濃くのこっている。
私は21世紀の社会に、未だこういう特別な関係を人間が結ぶことに疑問を感じているが、それはをサルと猿回しの関係のようにも見えるが、この師弟関係の基本的な事柄は自分たちが昔から教えられてきた技を伝授することである。
しかしただ師弟関係のようなものを結んで垂直に自分の教え方を教えるのは、ボクシングは身体的にも個性と言うものを重要視するのでかなり無理があると思っているが、おそらく封建的なシステムな中では服従することに喜びを感じる奴もいるのであろう。
以前こういう世界を「かわいがる、かわいがられる」の世界だと言ったが、合理性よりも人間関係やメンツにこだわるような世界に使えるか使えないかと言うプラグマティズム的な考え方ができるはずはない。
日本人はよく基本、基本と言うが、しかし何が基本なのかと言うことは定義させずただ昔からやってきたこと、監督やコーチの言うことが基本となっていることが多く、それが基本だと言われるとただ納得してしまうだけである。

しかし向こうはそれがつかえるか、つかえないかということをまず考えて行動する。
例えばパンチの打ち方も日本では、その方法論を基本だと言って徹底的にそれをやらせて、だめだとまた最初の基本に徹底して立ちかえさせる傾向がある。
この方法は他のスポーツではいい場合もあるのだが、しかしボクシングは別、体格や特長、さらに向こうではいろいろなスポーツをやっているので、そういう個性もでてくるので、むしろそういう型にはめられたら本人の個性どころか身体的な特長さえもいかせないことさえある。
私の経験では向こうでは、ある程度型を教えたら方法よりも結果にこだわる。こうてということよりも強くうてというように結果どうしろということを明確に伝えられるのだが、その時試行錯誤いろいろなことを繰り返して、最後にこれだといううちかたができればいい、まさにプラグマティズム的な発想だと思うが、この試行錯誤繰り返すということを考えさせる雰囲気が非常に大事なことで、それが封建的な社会だと育たない。
もう答えが決まっているし、さらに何を言っても監督やコーチの権威が強くすべてそのことがフィルターになるので、斬新な意見など育つはずがない。

なぜこういうことを言うかと言うと実際にはじめて3か月4か月ぐらいの人でも、4年以上やっていて試合数も多い、私よりも時々素晴らしいコツや気付いたことを教えてくれるからで、特に英語が読める人間が、英語で専門書を読むと10年以上やっている人間以上に知りえることも多々あることだと思う。
この前もクラブでみんな面白がって戦術や戦略的なことを語っていたが、賢い人は孫子の兵法とかマキャベリなどを読んでいて、話を聞いていたらあそうかと気づかされることが多いのだが、こういう会話は権威を無視してフラットな関係だからできるのであって、このフラットな関係を築いていくことが必要なことだと信じている。
もう何とかチャンピオンとか何とか何位が幅をきかせる時代ではない、そういう奴も勉強ができない、英語ができないでは時代の流れについていくことができず、進歩がないからバカの一つ覚えのように一生懸命やれとか、悔いを残すなと言って練習を厳しくかせるのだと思っている。
前にも言ったが私が思うに今は何とか何位とかチャンピオンと言うよりも、英語が話せるかということの方がかなり重要だと思っている。
英語が話せないと情報がひろえない、コミニケーションがとれない、これらのことは今の情報社会ではかなりのディスアドヴァンテージであるが、もし英語が読める人間で学力の高い人間が本気でボクシングについて研究したら、かなりそれは高度なものとなり、実際に使えるものになる、こういう頭でっかちが育つ雰囲気をつくるべきだと思っているが、何も持たないからそういう実績に頼るような雰囲気では権威主義はあってもとうていそれは不可能に近いだろう。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする