脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

イニシアティヴをとれ

2012-04-20 | Weblog
前に子供にはサッカーをさせるのがいいというようなことをブログで書いたが、しかし私はサッカーをあまりみないしファンではない、ただサッカー選手の言葉やそういう関連の本を読んで、知性を育てるには最も適したスポーツだということに至ったのである。
少し前にイビチャ.オシムが書いた「考えよ」という本は非常に面白かった、彼は日本語ができないし、それほど長い期間いたわけでもないので、これは少し勘違いがあるというようなところもあったが、しかしその短い期間で日本語が話せないというハンデもあるのに、これだけ日本人のことを分析して課題を挙げていることに、彼の分析力と洞察力の深さを感じたが、こういうタイプの監督はまず今のボクシング界にはいないと思う。

話は変わるが最近私は試合に出場する人たちに対してあるが、ある取り組みをしている。
それはリーダーを決めて、マスボクシングをしきらせたり、ミットを相手に合わせて交代でもたせているのだが、これが功を奏している。
実際にマスなどをやると相手のアドヴァンテージやディスアドヴァンテージが見えてくるので、お互いそういうことをアドヴァイスしながらミットなどを持ってやると、それが事実いいかたちで結果としてあらわれるが、今日もいいおっさんたちが、夜の9時過ぎにマスをしながらあれかこれかと議論していたが、その姿は非常に楽しそうであった。
私はこの人たちに関しては個人的に聞きに来ること以外は、アドヴァイスすることはないが、しかし彼らはマスやミットなどで試行錯誤いろいろなことを繰り返し、熱心に研究しているが、そうすることで実際にリングにあがって試合をするのは自分だということを強く実感することができるし、ミーティングの効果も出て、さらに楽しみながら練習するので練習の効率もあがると信じている。

しかしこの時重要なのはリーダー的存在に誰を選ぶかと言うことである。
私がこの場合のリーダーに選ぶ条件は2つ、それは研究熱心でイニシアティヴのとれる人間であるが、そういう人間に仕切らせたら、そのコミュニティーはうまく機能するからだ。
日本だと学校のクラブで選ばれるのは、監督のイエスマンや調整型である。
しかしこういう社会人の集団で、自分たちの知らない新しいことにチャレンジしていくのだから、クリエイティヴで研究熱心、かつ発言のできる人間を選ばなくてはならないが、そういうシステムをつくっておけばそのコミュニティーは自然に楽しみながら育つと思っている。

私はリーダーの条件としてこのイニシアティヴがとれるということが,非常に大事な条件だと思うが、しかし日本のクラブのようなシステムにおいて、このイニシアティヴがとれる人間がいないというか育ちにくい。まず問題として挙げるのは学力不足、これだけひとつのことを何も考えさせないで競技させるのはおそらく先進国ではここぐらいだと思っているが、これだと戦略や戦術を練る力が養われないどころか、少々難しい戦略や戦術を語られてもそれについていくことができない。
ミーティングなどでもたいていはハイハイと従うぐらいで、いいとこ多少の反抗はするけれども、しかし自分の意見が言えない、おそらくほとんどのクラブが監督主体で、あとはその意向に従うだけと言うようなシステムが多いのではないかと思っている。
しかしここで監督主体でということが必ずしもわるいことではない、問題なのははっきりと発言できる人間がいないというか育たないということで、そういうシステムに問題があるのではないかと思っているが、スポーツにおいて戦略や戦術は大事であり、当たり前だが物事を考える手段として学力を伸ばさなくては、戦略や戦術を磨くことはできないからで、これができなくてはスポーツにおいてはイニシアティヴがとれないからだ。
現にヨーロッパなどではそういう学部や学校が存在するらしいし、日本のサッカーなどでも本田や中田なんかはそのイニシアティヴをとれる選手だと思うが、彼らは非常に研究してるし、語学に堪能である。
こういうことからもスポーツは頭をつかわなくてはいけない、勉強しなくてはだめだということが言えるのではないだろうか。

だいぶ前にマスボクシングをした後、ミーティングと称して円陣を組ませて、今からひとりづつ何々選手ののいいところとわるいところを言いましょうなんて、小学生の終わりの会のようなことをやっていた奴がいたが、ミーティングか何だかわからないが、こんなことをヨーロッパのサッカーのミーティングでやったら間違いなく失笑を買う、それどころかいい大人がこんなことをすれば、バカだと言われても仕方がない、所詮学力不足の世界だから通用することで、これからはサッカーのように、戦略や戦術を練り、スポーツを近代化させたかったらもうちょっと勉強させた方がいい、学力を伸ばして高い理解力を求めることも大事ではないかと思っているが、そういう高い理解力を持った人間がひとりでもいてイニシアティヴをとれば多少はそのあり方も変わってくるのだと思う。

しかし学力というとそれだけで拒否反応をおこすような人間もいると思う。
ミーティングと称して、何々さんのいいとこわるいとこなんていうようなことをやっているような奴らは特にそうだと思うが、しかし物事を考えていく上では、経験だけでは限界がある。
物事を刷新して進歩していくためには、自分の考えていることを比較して分析し、さらに新しい考えを生み出していくのだから、独りよがりの研究ではなく、学問的な判断が必要で、そのためにもある程度の学力が必要になってくるのだと思う。
そしてさらに言えば、サッカーの監督は語学に堪能な人が多い、オシムなどの著書を読んだら相手チームを徹底的に分析することが、戦略においては必須条件であるということをうかがい知ることができるが、語学というのは諜報において必須条件だ。これによって相手のチームにさぐりをいれて幾分か情報を得ることができると思うのだが、今の時代最低でも英語が読めるということは、指導者の基本であるが、人をひよっこあつかいして、偉そうに基本基本と言うのであるならば、このことを理解しておいたほうがいいだろう。
ボクシングなんてここではマイナースポーツだ。
自分たちの狭い世界では偉そうにできるが、しかしいざ黒船が来た時に言葉は理解できない、情報も取れないのでは通用しないと思っている。
しかしその対策として子供のうちから鍛えて予備軍をつくるというやり方は、今の時代は人権蹂躙に等しいことだが、もしボクシングを子供に禁じている先進国で、自分たちは子供のうちから鍛えているなんて言ったら失笑を買うが、こういう感覚も英語が読めなければ理解できない。
英語ができないと通用しないというのは、単なる私の意見ではない。おそらく今のスポーツ界における一般論であると思う。
さらに言うならば、この英語が話せないと国際社会ではイニシアティヴをとれない。
ボクシングも将来に向けて、英語や語学の習得に力を入れる必要があるのではないかと思っているが、これからのスポーツ選手や指導者には高い学力が要求されるだろう。










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