脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Wer nicht kampft hat verloren

2012-04-12 | Weblog
「War kanmpt kann verlieren. Wer nicht kampft hat verloren」
この言葉は「kanmt」の「a」実際はウムラウトが入るが、発音すると「ヴェア ケンプフト カン フェアリーレン。ヴェア ニヒト ケンプフト ハット フェアローレン」日本語では「戦うものは負けるかもしれない、戦わないものはすでに負けている」という言葉で、この言葉は2002年に行われたドイツ連邦議会選挙でPDSという政党が大敗北した時に、その壇上に掲げられてあった言葉である。
「負けるなとか」「かかっていけ」「戦え」というのはなんとなく、DQNボクサーの好きそうな言葉であるが、しかしこの戦いは思想の戦いであって、彼ら彼女らが言うような、単なる力の戦いではないことは明白なことである。
こういう思想上の戦いと言うのは特にそうであるが、ある種の自信と言うものがなければ、戦うことはできないし、また敗北してもそこから立ち上がってくることは難しいことである。

デカルトの言葉で「cogito ergo sum」日本語では「われ思うゆえにわれあり」と言う有名な言葉がある。
これは彼が物事の真理は何かということを導き出すために、あらゆることを疑っていく中で生まれた言葉だが、例えば今目に見えている花の存在、これはもともと目には見えているけれども本当は存在しないのではないかなどなど、あらゆることを否定していくわけであるが、しかし最終的に否定できないことがある。
それは何かと言うと自分自身を疑っている自分であって、それが自我であるとデカルトは言う。
これを読んでいる人は結構インテリの人もいるので、デカルトをここで持ち出すと、いやそうでもないという反論があるが、しかし人間の存在には確かに今ここに考えている自分がいなければ、存在しているということを証明できないわけで、スピノザは「Ego sum cogitans(我考えるゆえに我あり)」とさらにこう解釈しているが、おそらくそれが人間が考える能力や言葉を持つということの意味であると思う。

スポーツも、最近はスポーツ科学はもちろんのこと、医学や、倫理学なども必要になってきていると思うのだが、こういう時代にある程度人間の考える力を磨かなくては通用しないだろう。
今スポーツを安全にそしてよりよく競技するためには、倫理や医学に関しても専門家のアドヴァイスが必要な事柄が多くなってきている。
先日挙げた子供のボクシングも専門家の意見が必要であるし、それはアカンタビリティーの問題でもあり、そういうことはある程度哲学や倫理学とを踏まえて考えなくては答えが見えないであろう。
まわりの意見や評価と言うものを無視して、それが通用する人間だけを集めて競技するやり方もあるだろうが、しかい近代スポーツ化をはかるのであれば、もう少し情報をしっかりと集めて、それを吟味することも必要なことではないかと思っているが、それが今の情報社会におけるスポーツ選手あるいは指導者の在り方だと思っている。

この世界には本当にバカじゃないかと思うのがいるが、ボクシングはスポーツなのに「殺し合いだ」とか「つぶしあいだ」とかいうような知能を疑うようなことを言うバカがいる。
さっきも上げたがボクシングは列記としたスポーツだ、辞書を調べてもわかるように「殺し合いだ」などとはどこにも書いてはいないことは小学生でもわかることだ。もしそんなことを親に言ったらどうなるのかぐらいわかると思うが、こういうことは教育上言う必要のないことである。
勢いでこう言うことを言うのは、自分のしてきたことに自信がないからだ。
とにかく自分のしてきたことはすごいことだということを強調するために、精神論だか何かわからないがそういうもったいぶった考え方をインテリジェンスを無視して、無理にスポーツに結び付ける奴がいるからバカスポーツだと揶揄される、ブレーインが育たないのだ。 
だいたいこういうことを言う奴はコンプレックスのかたまりだ、笑えるのは殺し合いだのつぶしあいだのという言葉は、自分よりも学歴の高い人間やインテリっぽい人間と話した時に、自分には何もないからまともに会話できないことのコンプレックスの裏返しで、意地や勢いだけで話そうとするからこういう滑稽な言葉が出てくるのだが、殺し合いだというのならそれはそれで自分の思っていることを通せばいいことだが、しかしそういうことを言う奴に限って誰かに言われたり、指摘されたりしたらもう何もいえなくなってしまうからみじめだが、こういうまちがった滑稽な精神論を語るバカが未だ存在する。
今大事なのはこういう滑稽なことを言って煽ることではない、前回のブログで言ったように、科学が進み、学問のレヴェルもあがって、スポーツの事柄も定義づけされるようになった時代、特に子供の成長や、子供の心理や安全面などを考えたら「アカンタビリティー」と「レスポンスビリティー」すなわちすべてのことにおいて、責任ある回答を持てることことが責任者に求められている。
そういうことに対してきちんと対応し説明する能力と責任が必要で、そういうことができる能力を持つことが自信につながると思う。
ボクサー時代はめちゃくちゃかっこいいことを言っていた人間が、引退したらお笑いにいじられてというようなことがよくあるが、そういう姿を見て自信など微塵にも感じない、私などはいやな気持になるのだが、もう少しその専門性や平たく言えば少々難しいことを聞かれても、それにこたえることができる知識と言うのが必要であり、そのことを知るためにも考え学習し、しっかりとした知識を蓄えることは大事なことでである。

よく欧米の政府関係の人や有名人が新聞や雑誌などで、あの人は親日であるとか、反日であるということが書かれているが、実は反日と書かれている人の中には、親日派という人も少なくはなく、彼ら彼女らが嫌いなのは日本人ではなくて、官僚や日本の政治家で、日本人は非常に評価しているという。
キッシンジャーなどもその内の一人だそうだが、彼の大学時代のルームメイトは日本人だったそうで、その時日本の文化に目覚めたということをある対談で読んだ。
私もボクシングに対する思いもそうだ。ボクシングはおもしろいし、正しく競技すれば素晴らしいスポーツである。正直私がうっとうしいのは封建的な制度と偉そうにしている親玉、そしてあまり賢くないからその親玉の周りを衛星のように囲んでいる腰巾着どもである。



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