「本当に強い心と言うのは何かに向かって言って強くなって得る優越感やプライドから生まれてくるものではない。それは水のように生きる力で物事を柔軟にうけとめ変えていく力である。
水は雨や雪のようにあらゆるかたちに変えて存在するが、しかしそれは水であることに変わりない。そういう心を持つことが今の時代を強く生きていくことができる。」
これは私が最も信頼したヌナの言葉である。
彼女は日本人であるのに、韓国語がペラペラで、頭の回転が速く私が唯一この人絶対頭がいいなあと思ったうちの一人である。
韓国語がペラペラなのは学生の時に朝鮮文化史をとっていたからだと思うが、おそらく彼女が本気で朝鮮史を勉強したら、重村さんに匹敵するぐらいの学者になれると思っている。
現にこの人と話をしたときは、私が一方的に彼女の意見に耳を傾けると言ったような感じだったが、それだけ頭の回転が速くて、洞察力がするどい人であった。
今であればこういう考え方はひろく受け入れられるが、しかしこの言葉が語られたのはバブル前の日本の最盛期である。その最盛期に誰もが勢いづいている時代に、このような言葉が出てくるのは、どのような時代でも変わらないしっかりした自分の考え方を持っていると言える。
よく小中学生がここに来る理由として自信をつけたいということを言う。
確かにこういうスポーツを通して達成感や充実感を得ることは可能だが、しかしそういう達成感と言うのは花火のようで、すぐに消滅してしまうであろう。
よく強くなったら自信がつくという奴がいるがはたしてそうだろうか。
チャンピオンの誇りとかボクサーの誇りと言う奴がいるが、正直言って今の時代はそういうことはつうようしない。いかにこの複雑でケオスの時代に自分たちはどうやって生きていくかということが必要だと思うが、力をつけて優越感を持つことが自信だと思っている奴が多いが、しかしそういうものに固執してしまってはしんどいだけだ。
今中高年の自殺が増えているが、私は自殺をした人を弱いとは思わない。
むしろ責任感があって強く生きようとしたからこそ、死を選ぶしかなかったのではないかと思っている。
我々の時代は男は強く生きろと言われてきた時代である。
特に韓国系の人間はそのように親から教えられ、きたえられて来たが、そういうメンツに関しては日本人の比ではないが、こういう時代を生きてきた人間たちの世代に自殺者が多いことは皮肉なことで、同世代の自分としては本当に悲しいことであるが、混沌として先の見えない時代の中で、自分なりに強く生きようとしたからこそ、疲れ果ててしまったのだろうと思っている。
今自信をつけると言ってつっぱるよりも、大事なことは、自分はどう物事を受け止めていくかであり、この混沌とした時代の中で物事を受け入れて対応していく力が必要ではないかと思っているが、その力を養う一つのヒントとして水のような心ではないかと思っている。
水のような心は自信とか信念というような言葉からは生まれない。
今はどうかわからないが、少なくとも戦後我々が受けた教育では養われないと思っているが、今必要なのは創造性と柔軟性が必要であり、この創造性や柔軟性を養う教育がこの時代には大事だと思っている。
創造性や柔軟性を養うということは、まず個性を認めることが大事なことである。
個性と言っても奇妙な格好をしたり、滑稽なことをいうのを認めろということではない、まあこういうことを言って個性を限定的にとらえるのも日本人的であるが、しかし個性と言うのは自分が思っているから個性ではなくて、人が認めてこそ個性になるわけで、そのいいと思った個性を見つけて、受け止めることが、その子の個性を伸ばすということにつながってくるのだと思う。
以前ここの会員がある高校生と話をしていた。
その時自分は気が小さくて人前では何も言えない、弱いからだめだみたいなことを言っていたのだが、それにたいして彼はこう答えていた。
「そんなこと気にするな。個性だ、それは逆に考えたら君がやさしいからだ」
単純な言葉で、彼がどういう意味で言ったのかはわからないが、この時大事なことに気付かされたと思う。
その子はここに来るのが自信をつけたいということで来ていた。
しかしそういう個性を持っている子供に、それが弱さだから克服しろと言うよりも、むしろ彼の言うようにそれをこっちが認めていいほうに解釈してやるのが、正しいことではないかと思えたのだが、たぶんそういうことを積み重ねて体験させていくことが、本当の自信につながり、この混沌とした時代を生きていく力になるのではないかと思っているが、いわゆるボクシングなどで達成した業績を認めることよりも、その性格的なことがらを認めて受け止めるということが、何があってもそうあり続けることができるという存在価値への可能性につながっていくのであって、そのことが心理学的にも有効な指導の仕方ではないかと信じている。
水は雨や雪のようにあらゆるかたちに変えて存在するが、しかしそれは水であることに変わりない。そういう心を持つことが今の時代を強く生きていくことができる。」
これは私が最も信頼したヌナの言葉である。
彼女は日本人であるのに、韓国語がペラペラで、頭の回転が速く私が唯一この人絶対頭がいいなあと思ったうちの一人である。
韓国語がペラペラなのは学生の時に朝鮮文化史をとっていたからだと思うが、おそらく彼女が本気で朝鮮史を勉強したら、重村さんに匹敵するぐらいの学者になれると思っている。
現にこの人と話をしたときは、私が一方的に彼女の意見に耳を傾けると言ったような感じだったが、それだけ頭の回転が速くて、洞察力がするどい人であった。
今であればこういう考え方はひろく受け入れられるが、しかしこの言葉が語られたのはバブル前の日本の最盛期である。その最盛期に誰もが勢いづいている時代に、このような言葉が出てくるのは、どのような時代でも変わらないしっかりした自分の考え方を持っていると言える。
よく小中学生がここに来る理由として自信をつけたいということを言う。
確かにこういうスポーツを通して達成感や充実感を得ることは可能だが、しかしそういう達成感と言うのは花火のようで、すぐに消滅してしまうであろう。
よく強くなったら自信がつくという奴がいるがはたしてそうだろうか。
チャンピオンの誇りとかボクサーの誇りと言う奴がいるが、正直言って今の時代はそういうことはつうようしない。いかにこの複雑でケオスの時代に自分たちはどうやって生きていくかということが必要だと思うが、力をつけて優越感を持つことが自信だと思っている奴が多いが、しかしそういうものに固執してしまってはしんどいだけだ。
今中高年の自殺が増えているが、私は自殺をした人を弱いとは思わない。
むしろ責任感があって強く生きようとしたからこそ、死を選ぶしかなかったのではないかと思っている。
我々の時代は男は強く生きろと言われてきた時代である。
特に韓国系の人間はそのように親から教えられ、きたえられて来たが、そういうメンツに関しては日本人の比ではないが、こういう時代を生きてきた人間たちの世代に自殺者が多いことは皮肉なことで、同世代の自分としては本当に悲しいことであるが、混沌として先の見えない時代の中で、自分なりに強く生きようとしたからこそ、疲れ果ててしまったのだろうと思っている。
今自信をつけると言ってつっぱるよりも、大事なことは、自分はどう物事を受け止めていくかであり、この混沌とした時代の中で物事を受け入れて対応していく力が必要ではないかと思っているが、その力を養う一つのヒントとして水のような心ではないかと思っている。
水のような心は自信とか信念というような言葉からは生まれない。
今はどうかわからないが、少なくとも戦後我々が受けた教育では養われないと思っているが、今必要なのは創造性と柔軟性が必要であり、この創造性や柔軟性を養う教育がこの時代には大事だと思っている。
創造性や柔軟性を養うということは、まず個性を認めることが大事なことである。
個性と言っても奇妙な格好をしたり、滑稽なことをいうのを認めろということではない、まあこういうことを言って個性を限定的にとらえるのも日本人的であるが、しかし個性と言うのは自分が思っているから個性ではなくて、人が認めてこそ個性になるわけで、そのいいと思った個性を見つけて、受け止めることが、その子の個性を伸ばすということにつながってくるのだと思う。
以前ここの会員がある高校生と話をしていた。
その時自分は気が小さくて人前では何も言えない、弱いからだめだみたいなことを言っていたのだが、それにたいして彼はこう答えていた。
「そんなこと気にするな。個性だ、それは逆に考えたら君がやさしいからだ」
単純な言葉で、彼がどういう意味で言ったのかはわからないが、この時大事なことに気付かされたと思う。
その子はここに来るのが自信をつけたいということで来ていた。
しかしそういう個性を持っている子供に、それが弱さだから克服しろと言うよりも、むしろ彼の言うようにそれをこっちが認めていいほうに解釈してやるのが、正しいことではないかと思えたのだが、たぶんそういうことを積み重ねて体験させていくことが、本当の自信につながり、この混沌とした時代を生きていく力になるのではないかと思っているが、いわゆるボクシングなどで達成した業績を認めることよりも、その性格的なことがらを認めて受け止めるということが、何があってもそうあり続けることができるという存在価値への可能性につながっていくのであって、そのことが心理学的にも有効な指導の仕方ではないかと信じている。