このブログではしょっちゅう語学を学ぶことは今の時代には大事なことで、それは不可欠なことだということを主張しているが、それは語学を勉強することはコミニケーション能力を広げると同時に、もうひとつ大きなアドヴァンテージがあるからだ。
たぶん語学を勉強した人は理解できると思うが、ある程度言葉に慣れて相手の言葉が理解できたら、相手の会話についていくために、ある程度何を言っているのかと言うことをguessするのだが、ある程度言葉になれてくるといちいち相手の言ったことを聞き返していたら、話がすすまない、そこで相手が一体何を言っているのかguess(推測)するのだが、その時相手の表情やしぐさだけではなく、いろいろなことをたぐりよせて何を言っているのかと言うことを推測して会話についていくわけだが、こういう相手の心を読む力と言うか、そういう力が養われる。
鈍感な奴はいつまでたってもどんかんだが、しかし往々にして言えることだが、語学ができる特に女性は相手のことを見抜く力が普通の人と比べてするどいように思える。
それを口にするのかしないのかというのは、その人の倫理観やバランス感覚があると思うが、日本女性は往々にしてこの倫理観とバランスがしっかりしているので、えげつないことにはならないが、しかし私は日本人で言葉が流暢な女性がルール無用のディスカッションになって何かを言えば、非常に恐ろしいことになるのではないかと思っているが、以前雑誌か何かのアンケートで嫌いな女性のタイプに「英語を話す女」というのがなぜか堂々の2位につけていたが、それはおそらく多くの男性が、本能的にそういう女性と言うのを恐れている結果だと思う。
さらにこの語学的な能力を養わないと、問題解決力がこの多様性の時代において、乏しいと言えるであろう。
よく「筋を通す」と言う言葉をつかう奴がいる。
この言葉は往々にして運動系の奴が使うというか好むやり方であるが、しかし筋を通すというのはどういうことか?まあこれはケースバイケースで時にはそういうことも必要であるが、しかし往々にしてこの言葉が使われる時は、何か自分たちの立場を正当化する時にのみつかわれることで、相手のあるいところを指摘し、そして自分たちのことは正当化して相手がまちがっていると決めつけることだ。
しかしこの21世紀にこういう話し合いや議論だとかなり程度が低い、こういうことは小中学生の終わりの会ぐらいにしていてくれよと思うのだが、そういう考え方しかできない一方的な人間が結構多いように思えるが、これでは問題解決の仕方が小学生なみだ。
問題解決と言うのは二つのことを同時に考えて考えていかなくては、本当の解決にはつながらない、
外国人は物事を解決する時、弁証法的であるのだが、この考え方が日本人にはかけている。
最近言われてきたディベーティングというのももともとは弁証法的であって、単に相手を言葉でねじ伏せることではない。弁証法の目的はそのセオリーがもつ矛盾をうけとめて、分析しさらにそのセオリーが一段と高められることで、それは相手をやっつけることではなく、あくまで目的は問題を解決させることである(ディベーティングの本来の目的もそれである)。
以前学校にいじめの問題でアドヴァイスに言ってきたということを述べたが、この時もそのいじめというのが悪質で、たくみに人の心を抹殺するいじめというものもあるということを指摘しつつ、それでも本能的に「vulinerabilty」という、いじめを誘発するような条件を持っている人間も確かなことで、いじめというのはだめだということを感情的に伝えるだけでは解決にならない、必要なことならばそれを克服して立ち直ることで成長させることが本人にとっていいかたちで解決されていくと言ったが、そうすることで、その子がそのことを通して成長すると信じているからだ。
そのことを考えることが最も大事なことだと言ったが、こういうものの考え方が弁証法的な考え方で、それは決して日本語の言葉だけでは生まれてこない発想だと思っている。
英語の論文、特にドイツ人が書いたり、ドイツ語から訳された論文を読むと、こういう考え方ができなければその書かれていることがよく理解できないことがしばしばあるが、それは彼ら彼女らの議論の目的に至るまでの方法が、弁証法的であるということが多いからである。
あれこれ言っているが一体何を言っているのだろうか?否定しているのか肯定しているのか、しかしそれは二つのことを通して見るから見えてくる目的があって、この考え方は21世紀には大事なことで、その考え方を学ぶためには語学を勉強する必要があるのだ。
私は自分の言いたいことをはっきりと言う性格だ。
それはどこに行っても態度を変えることなく絶対に屈しない性格で、時にはまわりから勘違いされてこの人と話したらめちゃめちゃにけなされて、話がごちゃごちゃになるのではないかと勘違いされることもある。
しかし気づいたことや、思ったことを分析したうえではっきり言うので、問題の解決が見えてくるという人も少なくはないのだが、それは自分がただ筋を通して自分の考え方を言うぞというような低レヴェルな姿勢ではなく、毀誉褒貶ではあるが、きついことを言ったり、つっこんだりするのは問題を解決させようと思っているからだ。
よくボクシングの危険性について挙げているのも、実はそうである。
衝撃を脳に与えると将来的にわるい影響が出てくる可能性が高いということは、医学的にも決定的なこととして挙げられている。
だから子供にボクシングをさせるのは言語道断だということを強く非難しているが、こういうことをうけてもし大丈夫だということだけを必死で説明して抵抗するだけでは、筋を通すという一方的な考え方の限界で、とどのつまりケガと言うのはどのスポーツにもつきものだ、そんな細かいことをいちいち言うお前たちが間違っているという何とも言えない、一方的な答えで終わってしまうのである。
よく言っている危険性についても十分に責任者は知る必要があると思うのだが、こういうことも英語で検索して調べることができれば、医師会や大学の見解など、かなりしっかりした内容の記事を見ることができる。何が危険なのか、そしてそれはなぜかと言うことをしっかりと学習することは、21世紀の近代スポーツにおいて管理者に与えられた義務であり、このことについてははっきり答えを持っておくことが大事なことで、私がよく言っているように危ないのが分かっているのに、聞かれて中学生の不良のような答えで抵抗するのではなく、それを十分に認めて、説明するということから始めたほうが、少なくともこの問題は、スポーツさせる側だけの問題ではなく、競技者への自己管理と自己責任と言うものを促すことができる結果となるであろう。
以前匿名でボクシングは危険かと言うことを聞いてきた親がいたということを書いた。
その時責任者に聞いてくれと言ったら。
責任者はそんな難しいことははっきりわからないということを言ったが、これだけ(英語だが)危険性がうったえられている時代に、そんなことはよくわからないでは無責任だ。
この前うちの会員のお母さんが翻訳の仕事をしていることがわかったが、こういう人がこの記事を読んで質問して来たら何と答えるのだろうか。小学生でも多少のあいさつぐらいは知っている時代に「俺は英語がまったくわからない」と答えるのだろうか?
おそらく語学ができないとその答えはあいまいで、最終的には結託して、数で強引に納得させるのではないかと思っているが、これだけ巷で英語、英語と騒がれている時代、スポーツクラブもこのことを無視できない時代になってきている。
たぶん語学を勉強した人は理解できると思うが、ある程度言葉に慣れて相手の言葉が理解できたら、相手の会話についていくために、ある程度何を言っているのかと言うことをguessするのだが、ある程度言葉になれてくるといちいち相手の言ったことを聞き返していたら、話がすすまない、そこで相手が一体何を言っているのかguess(推測)するのだが、その時相手の表情やしぐさだけではなく、いろいろなことをたぐりよせて何を言っているのかと言うことを推測して会話についていくわけだが、こういう相手の心を読む力と言うか、そういう力が養われる。
鈍感な奴はいつまでたってもどんかんだが、しかし往々にして言えることだが、語学ができる特に女性は相手のことを見抜く力が普通の人と比べてするどいように思える。
それを口にするのかしないのかというのは、その人の倫理観やバランス感覚があると思うが、日本女性は往々にしてこの倫理観とバランスがしっかりしているので、えげつないことにはならないが、しかし私は日本人で言葉が流暢な女性がルール無用のディスカッションになって何かを言えば、非常に恐ろしいことになるのではないかと思っているが、以前雑誌か何かのアンケートで嫌いな女性のタイプに「英語を話す女」というのがなぜか堂々の2位につけていたが、それはおそらく多くの男性が、本能的にそういう女性と言うのを恐れている結果だと思う。
さらにこの語学的な能力を養わないと、問題解決力がこの多様性の時代において、乏しいと言えるであろう。
よく「筋を通す」と言う言葉をつかう奴がいる。
この言葉は往々にして運動系の奴が使うというか好むやり方であるが、しかし筋を通すというのはどういうことか?まあこれはケースバイケースで時にはそういうことも必要であるが、しかし往々にしてこの言葉が使われる時は、何か自分たちの立場を正当化する時にのみつかわれることで、相手のあるいところを指摘し、そして自分たちのことは正当化して相手がまちがっていると決めつけることだ。
しかしこの21世紀にこういう話し合いや議論だとかなり程度が低い、こういうことは小中学生の終わりの会ぐらいにしていてくれよと思うのだが、そういう考え方しかできない一方的な人間が結構多いように思えるが、これでは問題解決の仕方が小学生なみだ。
問題解決と言うのは二つのことを同時に考えて考えていかなくては、本当の解決にはつながらない、
外国人は物事を解決する時、弁証法的であるのだが、この考え方が日本人にはかけている。
最近言われてきたディベーティングというのももともとは弁証法的であって、単に相手を言葉でねじ伏せることではない。弁証法の目的はそのセオリーがもつ矛盾をうけとめて、分析しさらにそのセオリーが一段と高められることで、それは相手をやっつけることではなく、あくまで目的は問題を解決させることである(ディベーティングの本来の目的もそれである)。
以前学校にいじめの問題でアドヴァイスに言ってきたということを述べたが、この時もそのいじめというのが悪質で、たくみに人の心を抹殺するいじめというものもあるということを指摘しつつ、それでも本能的に「vulinerabilty」という、いじめを誘発するような条件を持っている人間も確かなことで、いじめというのはだめだということを感情的に伝えるだけでは解決にならない、必要なことならばそれを克服して立ち直ることで成長させることが本人にとっていいかたちで解決されていくと言ったが、そうすることで、その子がそのことを通して成長すると信じているからだ。
そのことを考えることが最も大事なことだと言ったが、こういうものの考え方が弁証法的な考え方で、それは決して日本語の言葉だけでは生まれてこない発想だと思っている。
英語の論文、特にドイツ人が書いたり、ドイツ語から訳された論文を読むと、こういう考え方ができなければその書かれていることがよく理解できないことがしばしばあるが、それは彼ら彼女らの議論の目的に至るまでの方法が、弁証法的であるということが多いからである。
あれこれ言っているが一体何を言っているのだろうか?否定しているのか肯定しているのか、しかしそれは二つのことを通して見るから見えてくる目的があって、この考え方は21世紀には大事なことで、その考え方を学ぶためには語学を勉強する必要があるのだ。
私は自分の言いたいことをはっきりと言う性格だ。
それはどこに行っても態度を変えることなく絶対に屈しない性格で、時にはまわりから勘違いされてこの人と話したらめちゃめちゃにけなされて、話がごちゃごちゃになるのではないかと勘違いされることもある。
しかし気づいたことや、思ったことを分析したうえではっきり言うので、問題の解決が見えてくるという人も少なくはないのだが、それは自分がただ筋を通して自分の考え方を言うぞというような低レヴェルな姿勢ではなく、毀誉褒貶ではあるが、きついことを言ったり、つっこんだりするのは問題を解決させようと思っているからだ。
よくボクシングの危険性について挙げているのも、実はそうである。
衝撃を脳に与えると将来的にわるい影響が出てくる可能性が高いということは、医学的にも決定的なこととして挙げられている。
だから子供にボクシングをさせるのは言語道断だということを強く非難しているが、こういうことをうけてもし大丈夫だということだけを必死で説明して抵抗するだけでは、筋を通すという一方的な考え方の限界で、とどのつまりケガと言うのはどのスポーツにもつきものだ、そんな細かいことをいちいち言うお前たちが間違っているという何とも言えない、一方的な答えで終わってしまうのである。
よく言っている危険性についても十分に責任者は知る必要があると思うのだが、こういうことも英語で検索して調べることができれば、医師会や大学の見解など、かなりしっかりした内容の記事を見ることができる。何が危険なのか、そしてそれはなぜかと言うことをしっかりと学習することは、21世紀の近代スポーツにおいて管理者に与えられた義務であり、このことについてははっきり答えを持っておくことが大事なことで、私がよく言っているように危ないのが分かっているのに、聞かれて中学生の不良のような答えで抵抗するのではなく、それを十分に認めて、説明するということから始めたほうが、少なくともこの問題は、スポーツさせる側だけの問題ではなく、競技者への自己管理と自己責任と言うものを促すことができる結果となるであろう。
以前匿名でボクシングは危険かと言うことを聞いてきた親がいたということを書いた。
その時責任者に聞いてくれと言ったら。
責任者はそんな難しいことははっきりわからないということを言ったが、これだけ(英語だが)危険性がうったえられている時代に、そんなことはよくわからないでは無責任だ。
この前うちの会員のお母さんが翻訳の仕事をしていることがわかったが、こういう人がこの記事を読んで質問して来たら何と答えるのだろうか。小学生でも多少のあいさつぐらいは知っている時代に「俺は英語がまったくわからない」と答えるのだろうか?
おそらく語学ができないとその答えはあいまいで、最終的には結託して、数で強引に納得させるのではないかと思っているが、これだけ巷で英語、英語と騒がれている時代、スポーツクラブもこのことを無視できない時代になってきている。