前回のブログで子供にコンタクト有りでボクシングをさせることが危険であり、問い合わせや質問があるので、このことは医師やその他の専門家と共同し声明文にしてある機関にとりあげてもらうことにすることを真剣に考えているが、子供の脳に直接打撃をくわえつづけて、豆腐のようにやわらかい脳が何の影響もないということはとうてい考えられないことであるからだ。
先日このことをあるボクシング経験者に話したらこういうことを言っていた。
彼はボクシングを7年ぐらいしていた経験者であるが、話しをしているといきなりこう言った「自分言語障害ですよ」「えっでもそうとは言い切れないでしょ」と言うと、時々ろれつがまわらなくなったり、物忘れがひどくなったりするそうで、言語障害と言うことに対してはいささか問題があるが、しかしろれつがまわらないとか物忘れがはげしいというのは、ボクシングを競技していたことと何か関係していると思う。
さらに彼はこういうことを言っていた。
そこの学校のクラブで時々同窓会みたいなことをするのだが、OBの言っていることがわからないらしい。何が分からないのかと聞くと、とにかくおこっているのはわかるのだが、言葉が分からない。特に年配の人になればなるほど何を言っているのか分からないそうで、話しをあわせるのに非常に苦労するようなことを言っていたが、その話しをそばで何人かで聞いていたのだが、彼が淡々と当たり前のように何の抵抗もなく、話す様子に一同目が点になった。
私自身米国でボクシングを経験して思うことは、日本のボクシングは危険度が米国に比べて高いと言うことである。
これは意外かも知れないが、それは練習の仕方にあると理解している。
特に練習のスパーリングだが、日本ではスパーリングと言うと実際にガチンコでうちあうスパーリングである。
がしかしこれに対してむこうではガチンコで思いきりうちあうスパーリングはご法度で、スパーリングでもみんなかげんしあって60パーセント70パーセントの力でうちあうのが私たちがやっていたスパーリングである。
しかし60パーセント70パーセントと言っても人間はあつくなったら思いきりうちこんでしまうのではないかと思うのだが、確かにあつくなって思いきりうちあうこともあるが、それはまれでそういう時はコーチが間にわって入るので、それ以上あつくなることはない。
じゃあなぜかげんしてうちあえるのかというと、それは彼ら彼女らと日本人の考え方の違いであると理解している。
基本的にむこうの人間はまずけがをすることをおそれる。だからスパーリングのような実践的な練習であってもそこでけがをしてしまったらもともこもないということで、お互いブレーキがかかるのである。
この方式は社会人の多いオリーヴに当てはまるのだが、それに対して日本の練習はやたら競技者を煽り過ぎであると感じる。本人たちはモティヴェーションを上げるためにやっているつもりだがこのモティヴェーションがくせものだ。
よくよくモティヴェーションを上げるのに、声だしと言ってでかい声をだして士気を上げようとする。しかしこれは私から見ればある種の集団ヒステリーのようにさえ見えるのだが、こういう状況で力を抜けと言っても抜けるはずはないのであるが、日本人は本番であがりやすい、大舞台によわいというのは、士気ばかり高めて、力を抜くことを知らないからではないだろうか?
よくファイトという奴がいるが、ファイトって一体何なんだ、まず英語をよく理解したほうがいい。
ファイトは日本語で戦えだと言うことを理解しているのだろうか?まずこういう殺伐とした言葉を煽るようにして使うべきではないと私は理解しているが、今はわれわれの時代にように和製英語が通用する時代ではない。実際帰国子女や英語を習っている子供たちもいるのだから、当然英語の表現にも気をつかうべきであり、時には間違った和製英語が不快にもなりうるということをこのグローバルな時代では考えていかなくてはならないのだ。
まずアマチュアであるならファイトじゃなくBOXだ(まあまわりを囲んでそんなことを言う必要はないが)。
ちなみにBOXと言うのはこぶしでたたくと言うことで、ボクシングはこのBOXの動名詞である。
言葉の伝達は大事だ。特に言葉と言うのは子供が成長していく上で大事なことであるから、子供や青少年を指導するのであれば、後に「それはどういう意味か」と言うことを突っ込まれたときにきちんと答えることができるように、適切な言葉をつかうと言うことは大事なことではないだろうか。
言葉と言うのは物事を伝える道具である。だからこそ、その意味をきちんと理解し、伝えていくことは何かを教えたりする人には要求されることである。
それを何も考えずに勢いやのりで煽るように用いることは、少なくとも青少年を指導すると言うことにおいては危険である。
先日このことをあるボクシング経験者に話したらこういうことを言っていた。
彼はボクシングを7年ぐらいしていた経験者であるが、話しをしているといきなりこう言った「自分言語障害ですよ」「えっでもそうとは言い切れないでしょ」と言うと、時々ろれつがまわらなくなったり、物忘れがひどくなったりするそうで、言語障害と言うことに対してはいささか問題があるが、しかしろれつがまわらないとか物忘れがはげしいというのは、ボクシングを競技していたことと何か関係していると思う。
さらに彼はこういうことを言っていた。
そこの学校のクラブで時々同窓会みたいなことをするのだが、OBの言っていることがわからないらしい。何が分からないのかと聞くと、とにかくおこっているのはわかるのだが、言葉が分からない。特に年配の人になればなるほど何を言っているのか分からないそうで、話しをあわせるのに非常に苦労するようなことを言っていたが、その話しをそばで何人かで聞いていたのだが、彼が淡々と当たり前のように何の抵抗もなく、話す様子に一同目が点になった。
私自身米国でボクシングを経験して思うことは、日本のボクシングは危険度が米国に比べて高いと言うことである。
これは意外かも知れないが、それは練習の仕方にあると理解している。
特に練習のスパーリングだが、日本ではスパーリングと言うと実際にガチンコでうちあうスパーリングである。
がしかしこれに対してむこうではガチンコで思いきりうちあうスパーリングはご法度で、スパーリングでもみんなかげんしあって60パーセント70パーセントの力でうちあうのが私たちがやっていたスパーリングである。
しかし60パーセント70パーセントと言っても人間はあつくなったら思いきりうちこんでしまうのではないかと思うのだが、確かにあつくなって思いきりうちあうこともあるが、それはまれでそういう時はコーチが間にわって入るので、それ以上あつくなることはない。
じゃあなぜかげんしてうちあえるのかというと、それは彼ら彼女らと日本人の考え方の違いであると理解している。
基本的にむこうの人間はまずけがをすることをおそれる。だからスパーリングのような実践的な練習であってもそこでけがをしてしまったらもともこもないということで、お互いブレーキがかかるのである。
この方式は社会人の多いオリーヴに当てはまるのだが、それに対して日本の練習はやたら競技者を煽り過ぎであると感じる。本人たちはモティヴェーションを上げるためにやっているつもりだがこのモティヴェーションがくせものだ。
よくよくモティヴェーションを上げるのに、声だしと言ってでかい声をだして士気を上げようとする。しかしこれは私から見ればある種の集団ヒステリーのようにさえ見えるのだが、こういう状況で力を抜けと言っても抜けるはずはないのであるが、日本人は本番であがりやすい、大舞台によわいというのは、士気ばかり高めて、力を抜くことを知らないからではないだろうか?
よくファイトという奴がいるが、ファイトって一体何なんだ、まず英語をよく理解したほうがいい。
ファイトは日本語で戦えだと言うことを理解しているのだろうか?まずこういう殺伐とした言葉を煽るようにして使うべきではないと私は理解しているが、今はわれわれの時代にように和製英語が通用する時代ではない。実際帰国子女や英語を習っている子供たちもいるのだから、当然英語の表現にも気をつかうべきであり、時には間違った和製英語が不快にもなりうるということをこのグローバルな時代では考えていかなくてはならないのだ。
まずアマチュアであるならファイトじゃなくBOXだ(まあまわりを囲んでそんなことを言う必要はないが)。
ちなみにBOXと言うのはこぶしでたたくと言うことで、ボクシングはこのBOXの動名詞である。
言葉の伝達は大事だ。特に言葉と言うのは子供が成長していく上で大事なことであるから、子供や青少年を指導するのであれば、後に「それはどういう意味か」と言うことを突っ込まれたときにきちんと答えることができるように、適切な言葉をつかうと言うことは大事なことではないだろうか。
言葉と言うのは物事を伝える道具である。だからこそ、その意味をきちんと理解し、伝えていくことは何かを教えたりする人には要求されることである。
それを何も考えずに勢いやのりで煽るように用いることは、少なくとも青少年を指導すると言うことにおいては危険である。