脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

同情するなら権利をくれ

2011-10-21 | Weblog
ある中学の教員から相談されたことがある。
意見を聞かせてほしいと言うことで、話しをしたのだが、それはある部活の部員のことである。
最近日本もグローバル化されて国際結婚が増えて来たらしいが、その子はお父さんが外国人で小学校3年生の時に韓国にいたらしく。そこでの経験が非常にいやな経験になり、トラウマを持っていて、自分のアイデンティティと言うものが持てなくて悩んでいるのだが、彼とかかわってきてそのことを知った彼は、何をどう言っていいのかわからないから相談したというのである。
だいたいどういうことを言われるかと言うことは察しがつくが、そういうハーフの子供にとって一方の国が他方の国に憎しみを持ったり、お前は民族が違うからと言って、排他的な発言をされると言うことは非常につらいことであり、そういうことを言われると言うことは自分のアイデンティティにもかかわってくる。
まあこれは同じ立場の人間によって立場は違うのだろうが、おそらくハーフと言うのはもし日本国籍を持っていても、国籍がそうだからということでそこに自分のアイデンティティーをもっているのではなく、その国と国の間において自分のアイデンティティーを持っていると言うか感じている。
だから実際にそういう中で自分が拒まれると言うことは、自分のアイデンティティーを否定されたようで、おそらくこのことは一般の日本人よりも深く傷つくのではないかと思っている。
おそらくその子にしてもそこに行った時は、自分は本当に受け入れられるのだろうかと言う不安の気持ちでいっぱいだったと思う。しかしいくら心を開いて友達になろうとしても、言葉がへただの日本やろうと無視され、相手にされない体験をしたらもうその国はもはやもう一つの自分の国ではない。もうこんなところに二度と来るかと思ってしまうのだが、おそらくそういう体験をしたら一体自分は何ものなのか?ということを問いかけるのだが、それはある意味自分に対する否定でもある。

以前子供のドッジボール大会で、子供がおにごっこをしている時に、一人だけ誰からもタッチされない子供の存在に気づいたことを書いたことがある。
彼はその群れの中で楽しそうに走り回っているのだが、しかし彼は誰にもタッチされない所謂透明の存在で、それでも彼はその群れにいることだけで満足なのか楽しそうに走り回っているのである。
しかしいずれ彼はかかわればかかわろうとするほど透明な存在であることが見えてくるだろう。
その時までにみんなと同じようにできればいいのだが、しかし個性のある子供や特別な存在の子供は、その特別な個性を認めない限りは透明な存在であり続けるような気がする。

しかし透明の存在は誰かがその存在に気づけばその子は透明でなくなる。
みんなが本当の意味でお互いの個性と言うものを尊重し、理解しようとすればその存在に気づくと思うのだが、しかし日本の仲良くしましょうとか言う、仲間集めレヴェルの考え方では、その透明の存在に気づくことはできない。
もし誰かがその子に気づいたとしても、しかし今の考え方では、まわりがそうだからと流されその子は気づかれることはないだろう。
これもだいぶ前のブログで「なかよくしましょう」という言葉がわからないと言ったが、人間の権利を認めると言うことは仲良くしましょうと言うレヴェルではない、よく仲良くしましょうと言うがそれは一体どういうことなのか?こういう言葉に単一民族の村社会の限界を見てとれる。

さらにこれは日本のクラブというものに、程度の低い村社会人間の考え方がよくあらわれていると思うが、日本のクラブは村社会である。
まあそうでないところもあると思うのだが、しかしこのクラブと言う場が封建的であるならば、監督中心の横一列の考え方を生み出すと思っているが、ひどいところはクラブではない、システムや人間関係はクラブではなく、組であると思っているが、ここにいるといろいろな情報が入ってくる。
まあその情報をここで書く必要はないが、しかし火のないところに煙はたたず、指導者の唖然とするような行動や痴態、時には犯罪じゃないのかと思うようなことも聞くが、おそらくこういうことをしてもクラブや軍団の親玉だからということでゆるされるのだろう、まさにやくざの組であるが、こういう組が存在すること自体滑稽なことであって、スポーツは健全だという単純な理由で見過ごされてきている事実はあるのだが、クラブと言うのは青少年にかかわる比率が高く、影響力があるのだから、もう少し生徒の声が自由に聞けるような配慮をする必要があるが、そうしなければいつまでたっても閉ざされた社会で、こういう狭い世界の専制政治がなくなることはないであろう。

私がスポーツクラブを経営した理由は「癒し」と「楽しさ」を感じてもらうためである。
実際にその役割を今担うことができていると思っているが、私自身スポーツクラブにはそういう力があると信じている。
しかしそのスポーツクラブを組化してしまっては意味がない、よくまとまっていると言われている集団ほど親分に飼いならされていて、独特の雰囲気を持ち、仲間意識が強いが、あくまでクラブは軍隊ではない公共の場である。それを親分中心のシステムにしてしまうから、村社会ができるのであって、私はこういうシステムを少しずつでも排斥していく必要があると感じている。

でその教員になんと言ったかと言うと「俺が話してやる。今やったらSKYPEがあるやろ。その代わり俺のことは一切言うな。なぜなら人間の権利をレクチャーするのに同情は必要ないからだ」
おそらく彼はまよっているだろう、よくわからない人に自分の悩みを話していいのか。しかしもしその機会があって話すことができれば、私が求めている権利のついて話し、外国に行くことをすすめるだろう。


ハワイにはハパという言葉がある。これはハワイ語で半分のことだが、ハワイには実際アジア人の混血が多く、この言葉は文字通りハーフのことであるが、おそらくこのハパと言う言葉は自分たちのアイデンティティーをあらわす言葉である。

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