宗教学者の島田氏の書いた本で「葬式はいらない」という本がある。
以前彼の短いコメントを聞いただけではっきりとした内容についてはわからないのだが、おそらく私の意見も踏まえて言うならば、今の葬式は形式的なもので本来の仏教的な意味はなく、世俗化されているだけで、そういう葬儀をしても無駄で、単に宗教ビジネスをもうけさせるだけである。
私自身の感想として思うのは、日本の葬式、特に仏式と言われている葬式はよく理解できない、趣旨がはっきりしないのである。
何がはっきりしないかというのは何のためにやっているのかと言うことである。
仰々しく、われわれには理解できない、その儀式においても戒名や装飾品がいろいろと用いられるが、しかし宗教儀式と言う場において、オプションというものが存在するから驚きであるが、これらのものは本来の宗教的な趣旨を正しく理解してのことなのか意味があるのだろうかわからない。
さらに葬式では経文が読まれるが、もともと経文というのは釈迦の教えがまとめられたもので、おそらくそのなくなった人に読まれるものではないと理解しているが、日本では忌引きといって死人がでた家は、学校や会社などの人のいる場に来てはならないと言う風習があるが、これは今では喪に服すという意味で言われているが、しかし忌と言う言葉が使われていることから、死そのものを穢れであるとみなしているのだが、その死者に対して読まれる経はその史をいたむというよりも穢れを清めると言うような意味合いがあるのではないかと思っている。
しかしこれに対して西洋の特にキリスト教の葬式は目的や趣旨がはっきりしている。
私自身宗教学を勉強しているので何度かむこうの葬式に参列したことがあるのだが、向こうの葬式は多少の世俗化と言うのは見られるが、しかし、その趣旨は、なくなった個人が今神のもとにめされていく、そしてその神をたたえることであって、彼ら彼女らにとってその死は忌まわしいものではないということが、葬式の構成の仕方、その趣旨を通して理解される。
よく葬式ではヨブ記の次の言葉が朗読されるが、この言葉に彼ら彼女らの死生観と言うものが、はっきりとあらわれている。
それは「Naked I come from my mothers womb and naked I will depart. The LORD gave and The LORD has taken away, may the name of the LORD be prised.」「私は裸で母の胎から来た。そして裸で主のもとに旅立とうとしている。主が与え、それを取り去るのだから、主の名はたたえられるだろう。」であるが、私は実際これが朗読された時、その場にいて深い感動をおぼえたのだが、この言葉を聞く限りでは、死と言うのは必ずしも彼ら彼女らにとって忌まわしいものではないということが理解できるであろう。
話しはかわるが10月22日にここでの親睦会がある。
特に親睦会をもとうと計画したわけではなく、その親睦会をもつにいたっては経緯がある。
最初はここのメンバー3人ぐらいで食事をしようと言うことであったが、よくわからないが話しているうちに次第に参加者が増え、結局その3人の食事会がひろがって大人数になってしまい、親睦会というかたちになったのだが、私はこういう傾向を非常にいいことだととらえている。
たぶんこういうかたちで参加者をふやしていくことができるのは、ひとりびとり仕事ができる有能な人物だからと思っているが、ここには海外に長くいた人やキャリアウーマンが存在する。
そういう人たちは公平で仲間をつくらず、人間としても魅力があるので、そこに引き寄せられて集まるのだと思うのだが、まさにこういう人たちは規制概念にとらわれず、いい意味で自由であるが、こういう人たちが増えてくると、今までの無駄な既成概念をこわしていく、まさに葬式はいらないというのは、その時代の傾向を示しているのだと思う。
以前彼の短いコメントを聞いただけではっきりとした内容についてはわからないのだが、おそらく私の意見も踏まえて言うならば、今の葬式は形式的なもので本来の仏教的な意味はなく、世俗化されているだけで、そういう葬儀をしても無駄で、単に宗教ビジネスをもうけさせるだけである。
私自身の感想として思うのは、日本の葬式、特に仏式と言われている葬式はよく理解できない、趣旨がはっきりしないのである。
何がはっきりしないかというのは何のためにやっているのかと言うことである。
仰々しく、われわれには理解できない、その儀式においても戒名や装飾品がいろいろと用いられるが、しかし宗教儀式と言う場において、オプションというものが存在するから驚きであるが、これらのものは本来の宗教的な趣旨を正しく理解してのことなのか意味があるのだろうかわからない。
さらに葬式では経文が読まれるが、もともと経文というのは釈迦の教えがまとめられたもので、おそらくそのなくなった人に読まれるものではないと理解しているが、日本では忌引きといって死人がでた家は、学校や会社などの人のいる場に来てはならないと言う風習があるが、これは今では喪に服すという意味で言われているが、しかし忌と言う言葉が使われていることから、死そのものを穢れであるとみなしているのだが、その死者に対して読まれる経はその史をいたむというよりも穢れを清めると言うような意味合いがあるのではないかと思っている。
しかしこれに対して西洋の特にキリスト教の葬式は目的や趣旨がはっきりしている。
私自身宗教学を勉強しているので何度かむこうの葬式に参列したことがあるのだが、向こうの葬式は多少の世俗化と言うのは見られるが、しかし、その趣旨は、なくなった個人が今神のもとにめされていく、そしてその神をたたえることであって、彼ら彼女らにとってその死は忌まわしいものではないということが、葬式の構成の仕方、その趣旨を通して理解される。
よく葬式ではヨブ記の次の言葉が朗読されるが、この言葉に彼ら彼女らの死生観と言うものが、はっきりとあらわれている。
それは「Naked I come from my mothers womb and naked I will depart. The LORD gave and The LORD has taken away, may the name of the LORD be prised.」「私は裸で母の胎から来た。そして裸で主のもとに旅立とうとしている。主が与え、それを取り去るのだから、主の名はたたえられるだろう。」であるが、私は実際これが朗読された時、その場にいて深い感動をおぼえたのだが、この言葉を聞く限りでは、死と言うのは必ずしも彼ら彼女らにとって忌まわしいものではないということが理解できるであろう。
話しはかわるが10月22日にここでの親睦会がある。
特に親睦会をもとうと計画したわけではなく、その親睦会をもつにいたっては経緯がある。
最初はここのメンバー3人ぐらいで食事をしようと言うことであったが、よくわからないが話しているうちに次第に参加者が増え、結局その3人の食事会がひろがって大人数になってしまい、親睦会というかたちになったのだが、私はこういう傾向を非常にいいことだととらえている。
たぶんこういうかたちで参加者をふやしていくことができるのは、ひとりびとり仕事ができる有能な人物だからと思っているが、ここには海外に長くいた人やキャリアウーマンが存在する。
そういう人たちは公平で仲間をつくらず、人間としても魅力があるので、そこに引き寄せられて集まるのだと思うのだが、まさにこういう人たちは規制概念にとらわれず、いい意味で自由であるが、こういう人たちが増えてくると、今までの無駄な既成概念をこわしていく、まさに葬式はいらないというのは、その時代の傾向を示しているのだと思う。