脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

洗濯物を煮る

2011-10-31 | Weblog
来年から韓国語の教室を開こうと計画していて、今実験的に何人かの生徒に教えている。
そのレッスン中、動詞の活用の練習で講師が例を出したのだが、その例で「洗濯物を煮る」と言う表現をしたら生徒にひかれたらしい。
講師は一瞬なんのことかと思ったのだが、ある生徒が「先生その表現間違っています。洗濯物は煮るじゃなくて洗うですよ」と笑ってこたえたらしいが、しかし洗濯物を煮ると言うのは習慣の違いであって、実は向こうには洗濯物を煮る習慣があるのだ。
実際その洗濯物を煮るかまのセットのようなものが今でも売られているのだが、この習慣はキムチ冷蔵庫ほど知られている情報ではないが、知る人ぞ知る私たちにはない韓国の文化である。
で一体どういうものを煮るのかと言うと、煮ることは煮沸を目的とするのだから、おむつやくつしたのような白を連想させるものである。
私も実際煮ることはできないが、熱湯でYシャツなどをつけて洗っているのだが、Yシャツが熱湯につけて洗った後、新しいシャツのようになるのでお勧めする。

文化の違いと言うのはたいへんおもしろいものである。
私はいろいろな国(おもにアジア人)に友達がいるのだが、その国によって特徴がある。
私自身コリアン、ジャパニーズ、チャイニーズを見分けることができるが、チャイニーズも香港人や台湾人と文化も違うし、性格も違う、それぞれ特徴があるのだが、しかし文化交流のない人は、どうしてもその違いと言うものを意識できない。
なぜ私が宗教学の勉強をしたかと言うと理由は簡単、その宗教と言うものがわかると、おのずと彼ら彼女らの文化背景が見えてくるわけであって、彼ら彼女らとつきあっていく上ではアドヴァンテージになると考えたからであるが、実際にこの知識はかなり役に立っている。

もうすぐクリスマスだが、クリスマスの日にメリークリスマスとあいさつが交わされるが、しかしこのクリスマスと言うのはキリスト教徒のためのお祭りで、厳密に言えば仏教徒やユダヤ教、そしてイスラム圏には関係がなく、この時期に送られるクリスマスカードもキリスト教徒とかかわりがなければ、メリークリスマスではなくシーズンオブグリーティングと書いたカードを贈るのが適切であるのだが、ユダヤ教徒やムスリムにクリスマスカードを贈ることはふさわしいことではなく、場合によっては不快にもなるのだが、事実こういう間違いもその文化の多様性を認めなければ起こりうるのであるが、こういった宗教的背景と言うのはすべてそうではないが、時には人付き合いをする上では重要なカギとなる場合もある。

この前コーヒーショップで40過ぎぐらいの男と20代の男ふたりがでかい声で話しをしていた。
あまりにでかい声なのでいろいろと聞きたくなくても聞こえてくるのだが、どうやら額が非常に大きくなってくるので、自慢話だと思うが、ここまでくれば架空の仕事である。
そしてその話の途中若い男が、閑話休題とばかりに風俗の話をしていた。
こんなところでひょっとしたら子供もいるかもしれないのにこんな話をするのは、非常に下品でこいつらの程度をうたがったが、こいつらは間違いなくこんな話しをすると中国ではしょっぴかれて偉い目にあわされ、さらにイスラム圏では石うちの刑で場所が日本でよかったなあと思っていたのだが、しかし男性が集まればこういう話しをするのが半ば日本の習慣で、こういう手の話しはきらいな人はいないと決めてかかっているのも日本人の特にげすなおやじたちである。
しかし外国人の中には敬虔なムスリムやキリスト教徒などいて、逆にこの手の話しを相手が喜ぶだろうといってすると相手の信用をうしなうことさえもある。
私の親友のピーターと言う台湾人のお兄さんはミニスターである。
アメリカの有名大学を出て、ミニスターになったわけだが、彼は兄を非常に尊敬していて、彼も同様敬虔なキリスト教徒で、なぜ彼と私が仲良くなったかと言うのは、たぶん私自身下ネタ的なことをあまり言わなかったからであり、お互いそういう部分に安心感を感じて親しくなったのだと思うが、これが男性お得意の下ネタでつながろうとしたら逆に信用をうしなっていただろうが、日本人は杓子定規な付き合い方をするきらいがある。

よく田舎に行くと、おらが村を強調する。ビジネスでもこのグローバルと言われている時代に○○流、たとえば高知には高知のやり方があるみたいなことを言われてそれに固執するらしいが、しかしこのインターネットやケーブルテレビでいろいろな情報が入ってくる時代にそういうおらが村のやり方はもう古いし、杓子定規だ。
現に田舎と都会の区別がなくなってきた。
高知のように山に囲まれた土地にいても十分に情報がひろえるし、世の中の動きが分かる。
このインターネットやケーブルテレビなどのマスメディアで世界の情報がひろえる時代に、○○流なんて言う言葉はもう古い、○○流などというのは杓子定規な考え方から生まれるわけで、実際今までやってきたことを意味もなくやりつづけているだけであるが、おそらくもう一歩先を見た場合、今の若い人たちが求めるニーズはおらが村のしきたりに従い生きていくことではないと思っている。
おそらくこういうインターネットなどの通信が著しく進んだ現在、たくさんの情報があるのだから十分大都会と言われる都市と同じようなことができる可能性はあるわけで、現に私自身もSKYPEという通信手段をつかって仕事をしているし、実際ここにはそのSKYPEで外国での会議を英語でしている人もいるのだが、やりかた次第では都会と同じような仕事ができると信じている。

しかしその世の中の動きと言うのは、実際に一度出て体験しなくてはわからないであろう。
特に外国などに行って、文化の違いと言うのを感じることは非常に重要である。
日本人は単一民族で、この文化の違いと言うものに触れて生活していないので、物事を自分たちの観点から見るきらいがあるが、しかし世界は広い、時には考えられない習慣や違いなどを体験することもあるが、そういう体験こそ今の時代に貴重な体験だと思う。

ちなみにある友人から聞いた話だが韓国には親日罪というのがあるらしい、そう言えば聞いたことがあるようなないような、たぶん今ではあっても適用されていないと思うが、しかしこういう罪状があったとしたならば、それでも今までの関係を続けられるだろうか。



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