脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

心の知能指数

2011-04-15 | Weblog
オリーヴには現在8名の小中学生がいる。
一応全員平和主義で、乱暴なことは大きらい、そう言っても王様のマスなどは目をかがやかせてするのだが、彼らはみんな個性的であるが、特に彼ら彼女らの自慢できることはコミニケーション能力の高さである。
以前外国人と英会話を20分間ワンバイワン(マンツーマン)でさせたのだが、20分と言うと普通大人でも話せなければきつい、しかし彼らはその20分を講師から英語を学ぶと言うかたちではあったが、まったく日本語が話せない先生を相手に20分何も楽しくレッスンしたのであるが、これには驚かされた。

最近EQという言葉がにわかに注目をあびてきているが、EQとは「Emotional Intelligence」のことで、日本語で言うところの「心の知能指数」のことで、分かりやすく言うと「社会的知性」のことで、ある研究によればこのEQが高い人はIQの高い人よりも社会で成功する確率が高いそうである。
手前みそな言い方であるが、たぶんここにいたらそのEQは間違いなく育つ、なぜならここにいる大人の人たち自体がEQの高い人たちが多く、そういう人たちが関わってくれるからである。
ある親御さんなどはここに来てから子供が明るくなって、勉強するようになったと言っていたが、子供と言うのは好奇心が強い分影響もされやすい。
そういう人たちがかかわりを持ってくれ、一緒に何かをしてくれると言うことは少なからずとも子供がその人たちから影響を受ける機会である。ここには教育的にも社会的にもきちんとした人が多く、そういう人たちが彼ら彼女らの生きた教科書となっている。そういう刺激を彼ら彼女らは受けているのである。

私は過去にいろいろな問題にかかわって来たのだが、さっきも言ったが子供と言うのは好奇心が強く、影響もうけやすいので、どういう人間にかかわり、またどういう集団に属するのかということは、子供が影響を受ける上では重要である。
私の経験上、堕落した人間の言うのは、物事を自分の都合のいいようにしか解釈せず、また相手に伝える時も都合のいいようにしか言わないものである。
非行少年が自分のやったことを棚に上げて、警察や教師を目の敵にし、悪い奴と決めつけているのが典型的な例であるが、暴走族などが警察を目の敵にして警察を襲撃したり挑発したりするのは、目立ちたいからということだけではなく、そういう都合のいい話を共有しあって同情するから、あいつらは悪だやってしまえと警察や教師がそのフラストレーションの矛先になると思っている。
スポーツの世界は兄貴的存在がいる。
これはいい場合もあるが、しかし程度が低い集団だと少し勝手が違う、こういう存在が集団によっては厄介な存在ともなりうるのだ。
さっきも言ったが堕落した人間と言うのは、自分に都合のいいことしか言わず、相談をするにしても彼ら彼女らは客観的な意見よりもまず同情を求める傾向がある。
あにきというのはそういう人間に対しては同情してくれるのでいい奴である。
よくその人間を慕っているのか「あの人の言うことはさからえない」とか、その人間以外の言うことは絶対聞かないなんて言うような人間がいるが、こういうことは絆が深いとかと言う問題ではなく、ある意味反社会的な行為である。
いわゆるあにきというのは自分の話を聞いてくれる、同情してくれるいい奴である。時にはおこってくれるが、しかしその叱責もはじめに同情ありきなので、ここちよい叱責で所謂お涙ちょうだいのごっこが繰り返されていく、それが仲間意識で集まる集団でそこにはかならずあにきのような人物が存在し、そういう輩を慕って少し問題のある人間が集まって独特の強い絆のようなものができる、そういう仲間を求めることは愚かなことで、我々のコミュニティーが単なる仲間か、社会的集団かというのは、それを管理する責任者のEQと教育のレヴェルにかかわっていると思う。少なくとも指導者はあにきにはならない、クラブを仲間の集まりにしないことが賢明である。
本当に何が正しいのかとか社会的秩序を学ばせたければ、教育は不可欠であり、特に集団性においては公共性とか公平性とかいうのが問題になってくるが、これを仲間意識でとらえるのと社会的にとらえるのでは全く違うと思うのだが、やはりそこには何が正しいかと言うことを学ぶための教育が必要になってくるのではないかと思っている。

よく言うがもう礼儀なんて言う形骸化された儀式のようなものは必要ない。
型にはまった礼儀やあいさつなんていうのは従順性を学ぶだけで、本当に子供の知性やEQが育つかどうかは疑問だし、今のこの時代にそういうものを求めているかどうかと言えば、体育会の言う礼儀は時代錯誤ではないだろうか。
もしそういうことを言うのなら、それを指導している人間がその礼儀の概念を学ぶ必要があるだろう。今はインターナショナルな時代だから、マナーやエチケットと比較してなぜ礼儀なのかということ、また自分は謙譲語と尊敬語を正しく使い分けることができるか、そういうことを問題にしなければ礼儀なんて言うのはどんどん形骸化されていくだけである。
指導者の語彙力や言葉の正確さと言うのは電話や対応でもわかるであろう。子供たちに礼儀と言う前にまず自らがそれができるか実践する必要があると思う。礼儀などと偉そうに言ってはいるが、そういう奴に限って、意外に言葉を知らないものである。

うちの子供たちはまず中3以外は全員ためぐち、でかい声であいさつしたり、むやみやたらにハイハイとは言わないが、しかし対話能力はあると思う。
所謂おとなに気にいられるような意見や受け答えではなく、きちんと自分の考えや意見を伝えようとしていると信じているが、少なくともそう教えているのがここの方針である。

ひつこくいうがこういう指導をする人間は本を読んだり、言葉を学べというのは、物事の本質を見抜く力がなければならないからでそのことを養うためだ。
物事の本質を見抜くと言うのはカンのようなものではなく、対話力である。
時々思い込みだが、自分はカンがするどいというのを自負して勝手なことをいう奴がいるが、しかしそういう奴は往々にして知識が乏しく、本や新聞など読まないから無知である。無知であるからカンにたよろうとするのである。
しかし対話することは大事なことだ、対話すればその本質は見えてくる。その本質を見抜くために学び言葉を磨き対話するのである。
本当に人間が立ち直り、生きていく力を得るためには教育は不可欠である。
そしてそういう知識をもって対話することは非常に大きな発見があると思っている。
しかし私は今のこういうクラブは単なる居場所程度にしかすぎないような気がしている。
もっとそこから一歩前進するためには、形骸化した礼儀や煽るような指導ではだめだ。
もっと学んで教育の力、言葉の力を信じ、重んじなくてはならないと思う。

以前非行少年(一応元にしたほうがいいかもしれないが)をあることで呼びだした時に、ある子供が彼が私に呼ばれたことに、かなりあせっていたというようなことを笑いながら言っていた。しかし彼があせっていたのは。なぐられるからということではない、たぶん腕力だったら向こうのほうが私よりも数段上である。
彼がおそれていたのは、対話すること。対話して物事の本質を見抜こうとされることがこわかったのではないかと思っている。
で呼びだした理由はオートバイの名義変更、友達からゆずりうけたオートバイを名義変更せずに乗っていたので、保護観察中だった彼に変更しろと直接伝えるために呼んだのである。

最近小中学生がかわってきたように思える。
実は小学生から中学生に、私がむこうでしていた筋トレを組み合わせたサーキットトレーニングをしているのだが、これが結構功を奏し、肥満だった子供がやせたので、ダイエットにも取り入れているのだが、このサーキットはひとととおりすると全身を鍛えることになるのだが、これがかなりきつい。
もちろんその程度にあわせてサーキットのメニューを組むが、一応全身を鍛えることができるようなメニューを組むのでサーキットが終わるとみんなへとへとである。
しかしこのことによってかなり体力がついてきたので、練習の意欲が多少かわってきている。
以前はシャドウやミットマスなどをしても散漫でマス以外は集中できるような状態ではなかったが、最近はシャドウなども集中してできるようになり、体力をつけることの重要性がわかってきた。
ボクシングの練習と言うのは我々が考えている以上に体力を要するものである、シャドウボクシングなど単純でたやすく見えるがしかし3分間手をだしつづけるということは至難の技で、それを運動経験のない子供たちにいきなりさせることは無理だとようやく気づき体力づくりをさせることにしたのである。





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