脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

クラブの集団性を問う

2011-04-27 | Weblog
私の友人の親戚の大学生が今年就職するのだが、その就職先がDQN企業ではないかと心配しているらしい。
以前彼には電話だが、言葉をうまくつかいたかったら、毎日本を3冊そして辞書を持ち歩けというアドヴァイスをしたことがある。あえて面接などで、日ごろ使い慣れたいない難しい言葉をとってつけたように選んで答えても、相手にはわかるし、そういうことに気を遣いすぎたら自分の思っていることが十分に言えない。
的確に言葉を使い表現しようとしたら、日ごろから辞書を持ち歩き、わからない言葉をひくこと、そうして辞書を何回もひいているうちに、自然と言葉に広がりがもてて表現力が豊かになってくる。スポーツでもなんでもそうだが、本当に自分がうまくなりたかったら練習しなくてはだめだ、基本的に辞書を引くと言うのは言葉の練習で、この言葉の練習をすることで表現力が養われると言ったのだが、彼はそのことを実践していたらしいが、それでそういう企業にひっかかったので多少責任を感じる。

話はDQN企業の話になるが、DQNとは粗暴で知性や知識に乏しく常識がない人間のことを言うそうで、DQN企業と言うのは所謂ブラック企業のようなものらしいが、彼が言うにはDQN企業の特徴は、HPや広告などで「茶髪の社員が肩を組んで写真をうつっている」「バカ写真満載」「明るく楽しい職場」「アットホーム」「やる気次第女性も活躍」というようなことをよくうたい文句にしているらしい。

特に私がよくあることで信じられないと言うか、ついていけないことは、自分たちはこんなに仲がいいんだと言うことを強調する集団である。
まあ肩をくんだりふざけあって写真に映ったり、アットホームという言葉は、まさにそういうことであると思うのだが、ともすればスポーツクラブは目的が同じなので、そういう関係を気づきやすいのだが、こういう世界はある意味、非常に閉鎖的で独特の価値観を生み出すと思っている。

よく私が挙げるのは、女性にちゃんづけすることである。仲良しとかアットホームと言うようなことをうたっている軍団にはありがちなことだ。
まあ個人的にはどう呼ぼうが勝手であるが、しかしこういう公共の場ではそういう呼び方をすべきではなく、子供でもないのだからいい大人に「ちゃん」なんて言うのは、明らかに女性蔑視である。
最近は企業なんかでも「ちゃん」づけや「女の子」なんていうのは、セクハラの定義に当てはまるらしいが、おどろいたのは子供の通う小学校でも男性女性は関係なく「さん」づけしていたことだが、こういう時代にいい大人をつかまえて、公共の場でちゃんづけで呼ぶのは、小学生以下、非社会的であり、まさに知識や知恵が乏しいDQNと言われてもしかたがないだろう。
正直スポーツの世界は封建的である。
はっきりいって監督中心の家父長制のようなシステムができあがっているので、本当の意味での自分の意見や権利と言うものがもてないとさえ思っている。
確かに最近女性は意見を言える時代になってきたのだが、しかし何か分からないがその意見をする時や文句を言う時でも自分の立場と言うものを越えないようにしているように思えるのだが、これは自然にそうなるのだろうか。
私が感じるには、明らかに欧米の女性と日本の女性特にアスリートの意見の質は違う。
うまく言えないが、欧米の場合は個人と個人の意見のぶつかり合いだが、しかし日本人の場合は個人的な意見を他人に言っているような感じではなく、お父さんに意見を言っているような感じで、ひどいのになると痴話げんか的である。
人間と言うのは基本的には集団的生き物である。少したとえは違うがナポレオンが「人はその制服にあった帽子を着る」と言ったが、人間と言うのはその構造にはまると、その構造から抜け出すことはできない、少なくともそこから越えることはできないのだ。
このナポレオンの時代のフランスは王政でであったので、おそらく封建的な意味で「制服にあった帽子」と言ったのだと思うが、私は人間の本当の意見は、まず最初に権利ありきで、この権利と言うものを十分に認めるからこそ、自分のアイデンティティが持て、本当の意見が言えるのではないかと思っている。
だから女性の自立なんて言っていて○○ちゃんなんて、子供のように呼ぶのは女性の権利を認めていない証拠である。
よく親しみを込めてちゃんづけするという奴がいるが、こういうことを言う奴は程度を疑うし、まず仲良くすると言うことが問題ではない。
こういう言葉が出てくること自体、アットホームとか、自分たちはこんなに仲がいいのというような軍団の限界であると思うが、大事なのは個人の権利を認めること、そして個人の権利を認めるためには単なる情ではなく、客観的な意見と言うか考えが必要だということだ。

今の世の中、語学に疎いと言うことも含めて、知識が乏しいのはかなりのディスアドヴァンテージである。
そもそもこの情報化の時代に英語に興味がなかったり、本を読まないと言うこと自体愚かなことだと思うのだが、スポーツや特にダイエットと言う新しい方法論などが入ってくるのは海外だし、生活様式だけではなく、最近ではコモンセンスもグローバル化しつつあり、こういうことにアンテナをはっていなければ、時代に取り残されて行くであろうと見ている。
しかし封建的な枠にはまっていては、こういう現実が見えてこない。
スチュアーデスやビジネスマンがなぜ問題になるのか、なぜちゃんづけはいけないのか、平気で「女のくせに」という奴がいるが、その是非を論ずることは別にして、こういうことをひっくるめて、われわれの置かれている構造の中で、権利と言うものを考えていかなければ、21世紀のスポーツクラブのあり方ではないと考えている。

さっき挙げたDQN企業であるが、人間知恵や知性が乏しければ同じような仲間を求めて集まるのだが、アットホームとか仲間が集まるというような言葉に単純な人間は集まりやすいのではないだろうか。


私が運動部を批判しているのは、監督と生徒の間が教室と先生以上に不透明で、そこでは往々にして専制政治のようなヒエラルキーができているからだ。
いい指導者もいるが、しかし一方不透明な世界なので、横暴なことを要求されたり、暴言をあびせられたり、いやみをいわれたりして、クラブをやめることを余儀なくされたり、いやな思いをしたという話をよく聞くが、かなり問題がある。
中には少し誇張しているなと思うこともあるが、しかし経験上と言うか「ああそういうことをしたり、言ったりするだろうなあ」とマッチする事のほうが多いように思える。
ただ多少口がわるくても立派な人間はいる。しかし問題なのはその言葉で人を傷つけてやろう、とういうような暴言や意地悪な考え方である。












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