脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

力への意志

2009-03-03 | Weblog
当時ボクシングをやっている学生たちが読んでいた本がある。
それはニーチェの「力への意志(Wille zur macht)」である。
「力」という言葉はドイツ語において「権力」と同じ言葉であり、以前は邦訳でも「権力への意志」とも訳されていたが、これは「権力」という言葉が独り歩きしてはならないので、「力」と訳された。
「力の意志」とは、新しい自分に生まれることができる可能性を信じて、生きる意志である。
そのためキリスト教や、ルサンティマン的な考え方を、現実から切り離して生きることによって、自由な意志を獲得することを目的としている。
ニーチェというのはたいへん魅力的である。
特に自分たちのように強くなりたいと願うものに対しては、こういった「力への意志」や「超人思想」で述べられる言葉は、快刀乱麻を断つようであり、魅力を感じる。
しかし自分はニーチェに対していささか批判的である。
確かに彼の言う、当時群集の心を支配していたと言ってもいい、キリスト教に対する批判と言うものは鋭いものがあり、恐れや不安から、何も考えないで付和雷同に指導者に追従する群集を「畜群」と言ってさげずんだが、それは現代に生きる自分たちにもあてはまることかも知れない。
けれども彼の考え方はしんどい。
どこがしんどいかというと、平たく言えば、超人になろうとがんばりすぎ、根本的に人を信じなさすぎである。
人間は弱い。われわれは超人になるために生まれてきたのではないし、それが人間の本当の生き方ではない。
すべてが一番になるためにボクシングをやっているのではない。
そんなことを目標にしたところで自分の限界を知るだけであり、われわれはその限界を知るためにボクシングをやっているんじゃない。
アメリカではスポーツを、人生の中でのひとつのスパンとして考えるが、これはその競技が人生のすべてではないということである。
すなわちアメリカではその競技が、自分が生きていく人生の中でどうかかわり、どういうメリットを与えるかという考えのもとに、スポーツと言うのをとらえている。
ボクシングをやる人間は真剣である。
自分も競技者であったからわかるが、この競技に自分のすべてを捧げ、何かをつかもうとしている。
時々自分はそういう人間を揶揄するかのごとく批判しているが、それは以前の自分の姿をあざ笑っているのであり、本当にどれだけ切実にそれにかけているかということが分かるのである。
だからこそそれを無駄にしてやってはならない。
知恩が言っていたボクサーの試合をVCRで見た。
結構有名な試合であるそうだが、壮絶な死であった。しかし何も残らなかった。
「自分たちは限界を知るためにボクシングをするんじゃない。生きていくための可能性をみがくためにボクシングをする」これが自分の信念である。





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