脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

日本人の善と悪

2009-03-18 | Weblog
これは自分の善と悪に関する一考察であるが、文学などで述べられる西洋の善悪は、日本の文学で述べられる善悪よりも単純である。
おそらくこれは一神教、あるいはキリスト教に見られる光と闇というドゥアリズム的な影響があるからだと思うが、それに比べて日本の文学における善悪は、その人間の心のありかたとして捉えていて、複雑極まりないように思う。
おそらく東洋人と西洋人の善と悪の区別や考え方は違うであろう。
西洋人の頭の中には常にこの善と悪の区別と言うのが存在し、それが彼ら彼女らの判断基準となっていると言っても過言ではない。
昔試合前、自分を挑発する奴がいた。
何と言ってきたかと言うと「俺たちは神の国の人間だ、お前にまけることは神がゆるさない」」と。
その時思わず「地獄をみしたる」と言いそうになったが、嘘のような話であるが、以外にもこういうことをいう奴はいる。
アメリカでは湾岸戦争やイラク戦争などで教会が勝利を祈ったと言うが、戦争が殺戮行為と考える日本人からすればとんでもない話であるが、彼ら彼女らの中には構造的な善悪が存在していて、その善悪によってものごとを判断するのである。
恐らくこれは一神教の影響が大きいと思うが、日本人が心のながれや感情で善悪を捉えるのに対して、西洋は善悪は神が決めることであると考える。
簡単に言えば日本人が結論として善悪をもってくるのではなく、西洋人はその善悪というものがはじめから存在していて、それを基準に判断し、裁くのである。
もうすぐ裁判人制度がはじまるが、こういうメカニズムを持ち合わせていない日本人が、人を判断し裁くことができるだろうか?
あきらかに西洋の裁判制度は宗教観がある。
最近その宗教観をださない動きも多少あるが、しかし国民のほとんどが神の存在を認めているのであるから、その考え方や価値基準、判断、裁きの中にその影響が大きくあることは否めないであろう。
逆に言えばそういう価値基準があるからこそ、人を裁けるのである。
しかし日本人にはこういうメカニズムがない。
漱石の「こころ」などは、恋愛する中に人間の善悪、特に悪という部分を描いたのであろうが、それらはたいへんまどろっこしく、それを悪と感じるか感じないかは、それを受ける側の感じ方、それをどう受け取るかということであるが、自分はこの小説を読んで思ったことは、日本人の善悪の価値判断は感情のあらわれと切り離せないということである。
陪審員制度は日本人にはあわないように思う。そしてその宗教観の根本的な違いに於いて、感情が支配せず、人をどう裁くかということが課題であり、何よりもその裁判委員制において、プロフェッショナル的な知識や見解を持たないわれわれが、その裁きに於いて、彼ら彼女らの神に代わるはっきりとした基準と言うものもたなくてはならないだろう。







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