前回意見を主張するには、客観的に物事を見る力と物事を考える上での骨子ををもたなくてはならない、そうでなければ自分の言いたいことに終わってしまうと言うことを書いたが、しかしこういうことはボクシングで練習するように訓練ができていないとできない。
前回のブログでも滑稽なことを言う奴をあげたが、まさにそういう滑稽なことを言う奴はいい例でその訓練ができていない。
おそらくそういう人間は自分が感銘を受けた本や、人に何かいい本をすすめると言うことはできないと思うのだが、こういうことは非常に大事なことで、特に子供や青少年にとって、一歩間違えれば蛮行とも思われるスポーツは、指導する人にそういう資質が求められてもおかしくはないと思っている。
私は論語をそう評価していないが、論語の言葉で「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉がある。
この意味はよく知られているので詳しくは書かないが、この言葉は孔子の中心的な哲学思想であると言ってもいい「中庸」という思想をよくあらわした言葉である。
孔子はその思想において、バランスを第一に考えていると言っても過言ではない、ただこの中庸というのは、ある意味弁証法的で、少し説明しがたい言葉なので、詳しくは述べることはできないが、おそらく彼が学問を志す理由と言うのはこの中庸を求めるところにあるのではないかと思っている。
彼は論語の中で「正義感がともなわない勇気と言うのは、ただの蛮行だ」と言うことを挙げているが、まさにこういう言葉からをわかるように、人間の行為はある種の考えや理念に基づいて行われるもので、その考えや理念がしっかりしていないと人間の行為は時には間違ったものになってしまうということ、そのために学問を学んでバランス感覚を持てと言うことを言っているのではないかと思うのだが、今のこの時代まさにこの孔子の論語から何かを学ぶと言うことは大事なことかもしれない(ただシステムは最悪であるが)。
だいぶ前にある人が今の子供は「うたれよわい」運動をやった人間のほうが、上からいろいろなことを言われているので、多少はつかえるんじゃないかと言った人がいた。
確かにスポーツをやっている人間は、先輩や監督から偉そうに言われたりおこられたりしているので、そういう免疫はついているだろう。しかしこういうことは時には、まさに過ぎたるはおよばざるがごとしで、何もも考えていない奴らがそうだと、人権を無視したり、いじめまがいのようなことも起こるが、それはうたれづよいというよりも、単にまひしているのではないか。
おそらく彼ら彼女らはうたれづよいというよりは、縦社会の群れに順応するのがうまいだけの話しで、スポーツをしたことがある人がしたことのない人間よりもうたれづよいと考えるのは少し短絡的だと思うが、今の若い人が「うたれよわい」というのは、何もスポーツなどの経験をしてたたかれることをしていないからではない、現にスポーツをやっていてもうたれよわい奴はたくさんいる。
おそらく今の子供や若い人がうたれよわいというのは、彼ら彼女らに考える力が養われていないから、そういうことを養ってこなかったからだと私は理解しているが、日本のような丸暗記式の学校制度のありかたでは、こういう考える力と言うのを十分に養うことはできないであろうと考えている。
考える力というのは今のこの時代には、非常に大事なことだと思っている。
特に若いうちはいろいろんことを学び悩み葛藤することは、その人生のこやしとなり、のちに自分を知る上では大きな力となり、そのことがある意味自信につながるのだろうと思う。
うちのアリンがここに来て孤独だった時に、難しい本を読むことで、気を紛らわせていたということを以前書いたが、私は彼女を見て何か強さを感じるのだが、おそらく彼女の強さと言うのは、何があっても考えることをやめないという、彼女の考える力にあるんじゃないかと思っているのだが、彼女は一応むこうでは優秀な人間のぶるいである。
彼女からいろいろと話を聞いていて、分かることはフランスの学校は、前回書いたアメリカの学校のように、自分の考え方や意見を主張することが多いらしい。そのせいか哲学や思想などにふれることも多く、大学の試験も日本のように暗記が勝負というような科挙システム的なものではなく、もう少しいろいろなことをはばひろく選択して大学に行けるそうであるが、彼女が日本に留学したのもその大学に入学するために有利にするためで、フランスの学校はそういう意味で余裕があるので、文学や哲学書を読む余裕があるのだろう。アリンも実際にはおとなしくひかえめだが、16歳にしてきちんとした自分の意見を持ち、言えるのだ。
こういう時期に文学や哲学書を読んで人間の生き方について考えることは、人間を豊かにする上では必要なことで、こういう時期に物事を考える上での土台と言うものをつくっていくことは大事なことではないかと思っているが、こういう土台をつくっていくことでうたれづよくなっていくのではないだろうか。
たぶん私が思うに日本の教育システムの間違いは、体育に精神のあり方を求めたところだ。
日本はまだ戦後教育からぬけだせていないところがある。それが体育信仰である。
もう会社の採用基準がTOEIC700点と言う時代にすたれつつあるが、常識で考えて体をつかうだけで精神を向上させることは不可能だ、健全な精神は健全な体に宿る。「Oradum est ut sit mens sana in copore sano」はまず精神があっての体である。これを逆転させるとおかしいことになる。
余談だがある運動クラブの話しだが、彼らはあいさつをきちんとする非常に礼儀正しい人間らしい。
しかし彼らは集団でタバコをとある場所に学生服でスパスパ吸いに行くそうだが、これって本当に礼儀正しいのだろうか。
かたちだけなら誰でもできる。もしこういうかたちだけをみとめてこういう集団が礼儀正しいと認めたら、間違った価値観を持ってしまう。
何が言いたいのかというと、以前運動部の人間になぐられた子がいる。
理由はあいさつをしなかったか、ため口をきいたかどちらかだが、これも彼らの中で価値観と言うものがすでに出来上がっていて、あいさつしなかった礼儀がなっていないから暴力をふるったのであるが、彼らの中では暴力はわるいことではなく、あいさつをしないことのほうがだめらしい。
私は思ういくら健全な体をつくっても精神が健全でなければバランスをかく。運動をしてあいさつができるのが礼儀正しいことではない。
とにかく運動ばかりさせないで、学生のうちは勉強もしっかり義務づけることは必要ではないか。
よく言うが朝は朝練ではなく、読書だ。
前回のブログでも滑稽なことを言う奴をあげたが、まさにそういう滑稽なことを言う奴はいい例でその訓練ができていない。
おそらくそういう人間は自分が感銘を受けた本や、人に何かいい本をすすめると言うことはできないと思うのだが、こういうことは非常に大事なことで、特に子供や青少年にとって、一歩間違えれば蛮行とも思われるスポーツは、指導する人にそういう資質が求められてもおかしくはないと思っている。
私は論語をそう評価していないが、論語の言葉で「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉がある。
この意味はよく知られているので詳しくは書かないが、この言葉は孔子の中心的な哲学思想であると言ってもいい「中庸」という思想をよくあらわした言葉である。
孔子はその思想において、バランスを第一に考えていると言っても過言ではない、ただこの中庸というのは、ある意味弁証法的で、少し説明しがたい言葉なので、詳しくは述べることはできないが、おそらく彼が学問を志す理由と言うのはこの中庸を求めるところにあるのではないかと思っている。
彼は論語の中で「正義感がともなわない勇気と言うのは、ただの蛮行だ」と言うことを挙げているが、まさにこういう言葉からをわかるように、人間の行為はある種の考えや理念に基づいて行われるもので、その考えや理念がしっかりしていないと人間の行為は時には間違ったものになってしまうということ、そのために学問を学んでバランス感覚を持てと言うことを言っているのではないかと思うのだが、今のこの時代まさにこの孔子の論語から何かを学ぶと言うことは大事なことかもしれない(ただシステムは最悪であるが)。
だいぶ前にある人が今の子供は「うたれよわい」運動をやった人間のほうが、上からいろいろなことを言われているので、多少はつかえるんじゃないかと言った人がいた。
確かにスポーツをやっている人間は、先輩や監督から偉そうに言われたりおこられたりしているので、そういう免疫はついているだろう。しかしこういうことは時には、まさに過ぎたるはおよばざるがごとしで、何もも考えていない奴らがそうだと、人権を無視したり、いじめまがいのようなことも起こるが、それはうたれづよいというよりも、単にまひしているのではないか。
おそらく彼ら彼女らはうたれづよいというよりは、縦社会の群れに順応するのがうまいだけの話しで、スポーツをしたことがある人がしたことのない人間よりもうたれづよいと考えるのは少し短絡的だと思うが、今の若い人が「うたれよわい」というのは、何もスポーツなどの経験をしてたたかれることをしていないからではない、現にスポーツをやっていてもうたれよわい奴はたくさんいる。
おそらく今の子供や若い人がうたれよわいというのは、彼ら彼女らに考える力が養われていないから、そういうことを養ってこなかったからだと私は理解しているが、日本のような丸暗記式の学校制度のありかたでは、こういう考える力と言うのを十分に養うことはできないであろうと考えている。
考える力というのは今のこの時代には、非常に大事なことだと思っている。
特に若いうちはいろいろんことを学び悩み葛藤することは、その人生のこやしとなり、のちに自分を知る上では大きな力となり、そのことがある意味自信につながるのだろうと思う。
うちのアリンがここに来て孤独だった時に、難しい本を読むことで、気を紛らわせていたということを以前書いたが、私は彼女を見て何か強さを感じるのだが、おそらく彼女の強さと言うのは、何があっても考えることをやめないという、彼女の考える力にあるんじゃないかと思っているのだが、彼女は一応むこうでは優秀な人間のぶるいである。
彼女からいろいろと話を聞いていて、分かることはフランスの学校は、前回書いたアメリカの学校のように、自分の考え方や意見を主張することが多いらしい。そのせいか哲学や思想などにふれることも多く、大学の試験も日本のように暗記が勝負というような科挙システム的なものではなく、もう少しいろいろなことをはばひろく選択して大学に行けるそうであるが、彼女が日本に留学したのもその大学に入学するために有利にするためで、フランスの学校はそういう意味で余裕があるので、文学や哲学書を読む余裕があるのだろう。アリンも実際にはおとなしくひかえめだが、16歳にしてきちんとした自分の意見を持ち、言えるのだ。
こういう時期に文学や哲学書を読んで人間の生き方について考えることは、人間を豊かにする上では必要なことで、こういう時期に物事を考える上での土台と言うものをつくっていくことは大事なことではないかと思っているが、こういう土台をつくっていくことでうたれづよくなっていくのではないだろうか。
たぶん私が思うに日本の教育システムの間違いは、体育に精神のあり方を求めたところだ。
日本はまだ戦後教育からぬけだせていないところがある。それが体育信仰である。
もう会社の採用基準がTOEIC700点と言う時代にすたれつつあるが、常識で考えて体をつかうだけで精神を向上させることは不可能だ、健全な精神は健全な体に宿る。「Oradum est ut sit mens sana in copore sano」はまず精神があっての体である。これを逆転させるとおかしいことになる。
余談だがある運動クラブの話しだが、彼らはあいさつをきちんとする非常に礼儀正しい人間らしい。
しかし彼らは集団でタバコをとある場所に学生服でスパスパ吸いに行くそうだが、これって本当に礼儀正しいのだろうか。
かたちだけなら誰でもできる。もしこういうかたちだけをみとめてこういう集団が礼儀正しいと認めたら、間違った価値観を持ってしまう。
何が言いたいのかというと、以前運動部の人間になぐられた子がいる。
理由はあいさつをしなかったか、ため口をきいたかどちらかだが、これも彼らの中で価値観と言うものがすでに出来上がっていて、あいさつしなかった礼儀がなっていないから暴力をふるったのであるが、彼らの中では暴力はわるいことではなく、あいさつをしないことのほうがだめらしい。
私は思ういくら健全な体をつくっても精神が健全でなければバランスをかく。運動をしてあいさつができるのが礼儀正しいことではない。
とにかく運動ばかりさせないで、学生のうちは勉強もしっかり義務づけることは必要ではないか。
よく言うが朝は朝練ではなく、読書だ。