脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ナエ ヌンムリ ポイナヨ

2012-03-07 | Weblog
少し前に紹介したメンタリストと言うアメリカのテレビドラマはおもしろい。
少しずつレンタルして見ているのだが、今日見たストーリーは中国系の捜査官の話である。
物語はあるギャングが銃殺され、その知らせが、事件をしらべていたキンブルチョウという中国系のCBIの刑事の携帯電話に入ることからはじまる。
理由は着信履歴に彼の名前があったからで、実は彼は刑事をする前はギャングに入っていて、その同じギャングのメンバーが殺された被害者であったからだ。
結局その事件はギャング同士の抗争としてかたずけられることになりつつあったのだが、しかし後に被害者の母親がチョウのもとに来て、あれは抗争ではなく殺人で容疑をはらしてほしいという。
それでもチョウは抗争に巻き込まれたから、彼の死は自業自得であると決めつけるのだが、しかし捜査を進めていくうちに実は彼がギャングから足を洗い、そのことがきっかけで事件に巻き込まれてしまい殺されてしまったことがわかり、実は彼の着信履歴に入ったナンバーはその足ぬけのために彼がチョウに救いを求めてきたためのものであるということがわかったのだ。
そして事件が解決しチョウは彼の母親のところに出向いて行く。
チョウは自分に助けを求めてきたのにそれを助けることができなかったこと、それどころか彼を信じることができず、電話に応じなかったことを非常に後悔し詫びるのであるが、ラストにその母親と抱き合って涙を見せるシーンがとても印象的であった。

実は私も同じような経験がある。
私はそういう悪い軍団に入ったことこそないし、悪をおこなってきたわけではないが 、しかし環境が悪かったので、まわりは結構悪い奴ばかりで、そういう奴らとかかわって生きてきたことは確かなことだ。
私がそういう人間を警戒し、ボクシングクラブを健全にしたいという気持ちは、そういう世界が、いかにくだらない世界で人に悪い影響を与えることを知っているからである。
しかし中には、そういう世界がいやになって、真面目に教育を受けた私に連絡を取ろうとしたものがいたことも事実で、たぶん今考えたら真面目になるきっかけがほしいけど、どうしたらいいのかわからない、その立ち直るきっかけとして私に連絡をとろうとしたのだと思うのだが、しかし当時は私自身も余裕がなかったのか、その連絡を取ろうとした人間たちをお前たちとは違うとほとんど相手にしなかったのだが、そのことに関しては多少の後悔はある。

人間環境が違えば悪い世界に導かれていくこともある。しかしそこから立ち直ることは容易なことではなく、自分の生き方や価値観を180度変えることは、よっぽどの強い意志がない限り、ひとりではできない必ず誰か助けてくれる人間がいなくてはだめだ。
私はこういう世界から足を洗うのにはコペルニクス的変換(180度変わること)が必要だと思うが、私が言うコペルニクス的変換と言うのは、すべてを否定して、また新たなスタートに立つということではない。
私が言うコペルニクス的変換と言うのは、ただ自分の足りなさに気付くことで、その足りなさが自分のコンプレックスになっていたり、弱点になっているからで、不良少年と呼ばれている人の多くは学ぶことをあきらめていたり、軽んじているのだが、私はただ情や同調だけではなく、こういう足りなさに気付かせることが、必要ではないかと思っている。

私が根本的に合わないのは、昔悪をやっていたということをアドヴァンテージに見せようとする奴である。
自分は悪をやってきたことを、恰も違う世界で生きてきたので、人の気持ちがわかるなどとにおわせる勘違い野郎とは根本的に合わないのだが、そういう奴は振る舞いを見ていたらすぐにわかる。
情で集まった仲間に囲まれて、あの人は昔悪だったから人の気持ちがわかるというような滑稽なことを言われて慕われてことに満足しているのだろうが、それは決して立派なことではなく、たかだか社会のルールを多少守れるようになったぐらいだろうが、そういう奴はただうじ虫がハエになったぐらいで、自分の本当の足りなさに気づかなければ、根本的にはかわらないと思っている。

私が思うに人間にとって大事なことは学問をレスペクトすることである。
パスカルによれば人間と植物や他の動物との違いは、人間は知性を持ち考えることができるということだ。
この人間にしかない知性を磨き重んじることが、人間を豊かにするということではないかと思うのだが、おそらく何も持っていない人間が自分の足りなさに気づき、その知性を求めるところに人間の生まれ変わろうとする姿と可能性があるのだと信じている。

事実私も学問を学ぶことで、何が正しくて何が悪いかということを「感覚」や「損得」や「情」を越えて真剣に考えるようになったのだが、そういうことを求めることができたのは、こういう環境を見てきたからだと思っているが、そういう環境からぬけだすためには、暴力や悪知恵よりも本当に正しいことを見極めて生きることが大事なことだと感じたことは確かである。
私の知り合いの暴走族の親玉もしかり、弁護士になるために足に針をさして勉強して、大学に行ったし、もう一人の親玉も真面目に勉強して何が本質的に正しいかを学び、今はそういう非行少年と言われる子供たちにかかわっているが、彼らがそうなれたのは自分の足りなさに気づき、知性を求めたからだと信じている。
こういう人たちは俺は昔悪だったということをアドヴァンテージにしないし、まわりもそういうことは言わない。しょうむない奴はそれでもプライドだけは保とうと同じような人間ばかり相手にしようとするが、しかし彼らはむしろそういうことがアドヴァンテージになるような世界ではなく、自分たちが通用しない世界で努力したと思うが、そういう世界で通用するようになって初めて自信が持てるのだと思う。

この物語のラストシーンはキンブルチョウがそのお母さんにわびるのだが、最後に詫びる時の2フレーズぐらいが英語ではないほかの国の言葉を使っていたのだが、彼は中国系と言う役にもかかわらず、使った言葉が韓国語、一応彼は中国語らしく聞こえるように話していたが、しかしそこで私は彼が実際は中国系ではなく、韓国系で出身はカリフォルニアと言うことがわかってしまった。











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