言葉と言うのはその共同体を形成していくには重要なカギであり、この言葉に従って人間形成がなされ、共同体が形成されていくと言っても過言ではない。
昔HIの韓国人のGFに教会のクリスマスパーティに誘われた時に、そこにいた人の多くが立派な職業についていて、学歴が高く、子供たちも成績がいい子が多い、彼ら彼女らがそうなるのは、そこのミニスターが洗練された言葉をつかっていて、そのまわりの人間も同じようにハイレベルな言葉を使っている、そういう中でまわりの人間、特に子供たちが影響されて、やがて彼ら彼女らもそうなっていくからだと言うことを書いた。
オリーヴが言葉を選ぶ言うのも共同体の質をあげて、社会人が入ってきやすい共同体にするためである、言葉と共同体の関連性と言うのは社会学においても重要視されているが、そこの指導者が言葉を学ぶということは共同体の質とも深くかかわっていると思う。
しかし一方親玉がバカだと共同体の質がわるくなる、クラブなどでの暴力や置き引きなどのちよっとした犯罪が起こるのは、その共同体の親玉の言葉の質がわるいから、そういう輩を引き寄せるのだと思っているが、実際そうではないだろうか。
私は宗教学と哲学の勉強をかなり専門的にやってきたので、そこからの考察であるが、宗教を学ぶというのはたとえ我々のように無神論者であってもためになることだ、宗教と言うのは哲学よりも前に存在し、中世ではスコラ哲学と言って、神の存在を求めることが哲学の意味となり、そこから有名な哲学者が出て、今日も影響を与えているが、それだけ重要な学問である。
宗教学は、哲学だけではなく、心理学、社会学、行動学などの学問も含んでいるが、宗教学は学問の王道であると思っている。
私は英語の塾とスポーツクラブと言うふたつの仕事をしているが、どちらも人間を扱う仕事であるが、今人と会話しコミニケーションをはかる上では、この自分が勉強してきたことがかなり生きている。
笑い話だが私がこれは絶対に成功すると自信のあることがある。
それは占い師と新興宗教の幹部、いずれもうさんくさいが、しかし宗教的な書物や哲学書を勉強して、ディスカッションしてきたので相手の考え方や行動と言うものがわかり、先読みすることができるし、おおまかに言って人間はこういう時こういう行動をとりやすいのだということを心理的に理解できるので、場合によっては人の心をコントロールできるからである(しかし絶対にそういうことはしない)。
例えば宗教やこういう共同体の人数を増やすことは簡単なことだ、ここでいうと利用されたらいけないので書かないが、ある新興宗教は意図的にそうしたかどうかはわからないが、この方法と教理を結びつけることによって、信徒数をかなり増やした。
今では一大勢力ともなっているが、その一大勢力にまでのぼりつめたのは、人間のある心理的な事柄を教理にむすびつけたからだと思っている。
少し話はずれるが聖書と言うのも、人間を知ると言う意味では非常にすぐれた書物である。
特に原書で読むとその奥深さがわかるのだが、私はこの聖書を知ることで大体の世界の人の考え方がわかると思っている。
私の考察では西洋人と東洋人の聖書の読み方が違う、どう違うかとというとおおまかにいってまず西洋人はドウアリズム(二元論)で物事を考え、その感覚でとらえた神が、正義の神である。よく彼ら彼女らは神の正義と言う言葉を口にする、イラク戦争でもそうであったが、教会が神にむかって勝利を祈る、アメリカに勝利をと、そういう祈りは多くの教会で祈られていたが、日本人はそういう光景を見ると、戦争のために祈るなんてと思うかもしれない、しかしこの祈りは、彼ら彼女らが神は正義だととらえているからで、その正義の神が自分たちとともにいるから正義なんだ、だから自分たちは正しいんだという結論にいたるからである。
しかし一方日本人はその考え方をもたない、どちらかと言うと事柄を神がただしいかどうかと言う基準ではなく、心情的あるいは内面的なとらえ方でみるからだ。
だから彼ら彼女らはしばしば神を愛としてとらえることが多く(もちろん欧米でもそういうが)、日本人の言う神は、愛の神で自分を愛してくれているということが彼ら彼女らの根本的な考え方で、それが彼ら彼女らが信仰をもつことの意味である。
(日本人が西洋人のように二元論的な考え方にいたらないということは、裁判制度の限界点であり、またこのことは死刑制度や尊厳死に対する大きな見解の相違であると思う。)
私は聖書の見方としては、欧米人よりも日本人のほうがただしいとらえ方ができると思っている。確かにある書物はギリシャ哲学の光と闇という二元論的な影響がみられるが、しかしそれでも人間の心と言うものを通して理解しなければ見えてこないものも多く、それは原書を読めば理解できることでもある。
聖書の中に義と言う言葉がある。これはしばしば出てくる言葉で重要な言葉だ。
この言葉は原書ではδικαιοσυνηs英語ではjusticeとかrightnessと訳されているが、英語の意味はいずれも正義である。
日本語でも義と言うのはもちろん正しさであるが、しかしこの言葉のまず第一に上がっている意味は「道理、条理、物事の理にかなったこと、人間の行うべき筋道」すなわちこれはイエスの代償行為を意味するのであって、おそらくイエスの十字架の代償行為が神の行うべき道理であり、人間はそのことによって救われたと考える、その概念が原書の義を知る意味でも的を射た考え方であろう。
だいぶ前にユダヤ人の部族が日本にのがれてきて、そこで大きな影響を与えた、イエスも然り、彼の墓は東北にあるというようなことを特集で組んでテレビでやっていた。
まあはっきり言って、そのことを結びつける資料がないので何とも言い難いが、しかし彼ら彼女らの経典である、聖書を見ると日本人との関係を強ち違うとは否定できないものがある。
スポーツの世界は封建的なので時々えげつないこと、甘い汁をすって、よわいものいじめをするようくず、下品な親玉がいる、こいつは自分では王様だと思っているが、しかし正体はベゼバブルだ、ベゼバブルと言うのは聖書に出てくるハエの王、うじむしの親玉でもある、こういう奴のまわりに集まるイエスマンはハエかうじむしかはわからないが、なさけない、そろそろ年末粗大ごみと一緒に駆除する必要はあるのではないだろうか。
昔HIの韓国人のGFに教会のクリスマスパーティに誘われた時に、そこにいた人の多くが立派な職業についていて、学歴が高く、子供たちも成績がいい子が多い、彼ら彼女らがそうなるのは、そこのミニスターが洗練された言葉をつかっていて、そのまわりの人間も同じようにハイレベルな言葉を使っている、そういう中でまわりの人間、特に子供たちが影響されて、やがて彼ら彼女らもそうなっていくからだと言うことを書いた。
オリーヴが言葉を選ぶ言うのも共同体の質をあげて、社会人が入ってきやすい共同体にするためである、言葉と共同体の関連性と言うのは社会学においても重要視されているが、そこの指導者が言葉を学ぶということは共同体の質とも深くかかわっていると思う。
しかし一方親玉がバカだと共同体の質がわるくなる、クラブなどでの暴力や置き引きなどのちよっとした犯罪が起こるのは、その共同体の親玉の言葉の質がわるいから、そういう輩を引き寄せるのだと思っているが、実際そうではないだろうか。
私は宗教学と哲学の勉強をかなり専門的にやってきたので、そこからの考察であるが、宗教を学ぶというのはたとえ我々のように無神論者であってもためになることだ、宗教と言うのは哲学よりも前に存在し、中世ではスコラ哲学と言って、神の存在を求めることが哲学の意味となり、そこから有名な哲学者が出て、今日も影響を与えているが、それだけ重要な学問である。
宗教学は、哲学だけではなく、心理学、社会学、行動学などの学問も含んでいるが、宗教学は学問の王道であると思っている。
私は英語の塾とスポーツクラブと言うふたつの仕事をしているが、どちらも人間を扱う仕事であるが、今人と会話しコミニケーションをはかる上では、この自分が勉強してきたことがかなり生きている。
笑い話だが私がこれは絶対に成功すると自信のあることがある。
それは占い師と新興宗教の幹部、いずれもうさんくさいが、しかし宗教的な書物や哲学書を勉強して、ディスカッションしてきたので相手の考え方や行動と言うものがわかり、先読みすることができるし、おおまかに言って人間はこういう時こういう行動をとりやすいのだということを心理的に理解できるので、場合によっては人の心をコントロールできるからである(しかし絶対にそういうことはしない)。
例えば宗教やこういう共同体の人数を増やすことは簡単なことだ、ここでいうと利用されたらいけないので書かないが、ある新興宗教は意図的にそうしたかどうかはわからないが、この方法と教理を結びつけることによって、信徒数をかなり増やした。
今では一大勢力ともなっているが、その一大勢力にまでのぼりつめたのは、人間のある心理的な事柄を教理にむすびつけたからだと思っている。
少し話はずれるが聖書と言うのも、人間を知ると言う意味では非常にすぐれた書物である。
特に原書で読むとその奥深さがわかるのだが、私はこの聖書を知ることで大体の世界の人の考え方がわかると思っている。
私の考察では西洋人と東洋人の聖書の読み方が違う、どう違うかとというとおおまかにいってまず西洋人はドウアリズム(二元論)で物事を考え、その感覚でとらえた神が、正義の神である。よく彼ら彼女らは神の正義と言う言葉を口にする、イラク戦争でもそうであったが、教会が神にむかって勝利を祈る、アメリカに勝利をと、そういう祈りは多くの教会で祈られていたが、日本人はそういう光景を見ると、戦争のために祈るなんてと思うかもしれない、しかしこの祈りは、彼ら彼女らが神は正義だととらえているからで、その正義の神が自分たちとともにいるから正義なんだ、だから自分たちは正しいんだという結論にいたるからである。
しかし一方日本人はその考え方をもたない、どちらかと言うと事柄を神がただしいかどうかと言う基準ではなく、心情的あるいは内面的なとらえ方でみるからだ。
だから彼ら彼女らはしばしば神を愛としてとらえることが多く(もちろん欧米でもそういうが)、日本人の言う神は、愛の神で自分を愛してくれているということが彼ら彼女らの根本的な考え方で、それが彼ら彼女らが信仰をもつことの意味である。
(日本人が西洋人のように二元論的な考え方にいたらないということは、裁判制度の限界点であり、またこのことは死刑制度や尊厳死に対する大きな見解の相違であると思う。)
私は聖書の見方としては、欧米人よりも日本人のほうがただしいとらえ方ができると思っている。確かにある書物はギリシャ哲学の光と闇という二元論的な影響がみられるが、しかしそれでも人間の心と言うものを通して理解しなければ見えてこないものも多く、それは原書を読めば理解できることでもある。
聖書の中に義と言う言葉がある。これはしばしば出てくる言葉で重要な言葉だ。
この言葉は原書ではδικαιοσυνηs英語ではjusticeとかrightnessと訳されているが、英語の意味はいずれも正義である。
日本語でも義と言うのはもちろん正しさであるが、しかしこの言葉のまず第一に上がっている意味は「道理、条理、物事の理にかなったこと、人間の行うべき筋道」すなわちこれはイエスの代償行為を意味するのであって、おそらくイエスの十字架の代償行為が神の行うべき道理であり、人間はそのことによって救われたと考える、その概念が原書の義を知る意味でも的を射た考え方であろう。
だいぶ前にユダヤ人の部族が日本にのがれてきて、そこで大きな影響を与えた、イエスも然り、彼の墓は東北にあるというようなことを特集で組んでテレビでやっていた。
まあはっきり言って、そのことを結びつける資料がないので何とも言い難いが、しかし彼ら彼女らの経典である、聖書を見ると日本人との関係を強ち違うとは否定できないものがある。
スポーツの世界は封建的なので時々えげつないこと、甘い汁をすって、よわいものいじめをするようくず、下品な親玉がいる、こいつは自分では王様だと思っているが、しかし正体はベゼバブルだ、ベゼバブルと言うのは聖書に出てくるハエの王、うじむしの親玉でもある、こういう奴のまわりに集まるイエスマンはハエかうじむしかはわからないが、なさけない、そろそろ年末粗大ごみと一緒に駆除する必要はあるのではないだろうか。