脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Pax Japan

2018-08-11 | Weblog

2年後に東京オリンピックが開催される。ボクシングは参加できるかどうかと言うことが問題になっているが、私が毎回オリンピックが開催されるたびに思うことは日本は競技者が高年齢化していることである。テレビなどでも40にも近いおっさんやおばさんたちがそれに打ち込んでオリンピックに出ている姿をよく見るのだが、飽きたということを通りこしてみっともない。まあ人それぞれと言ってしまえばそれまでだが、2回も3回もオリンピックに出てくる人間を見たらもういいだろう他の人間にゆずってやれよとさえ思う。日本は平和で好きなことができるのだから本当に幸せだ。しかしそれは自分たちがたまたま日本人に生まれてきたからで、オリンピック出場国には余裕がない貧困にあえいでいる国は少なくはない。何が言いたいかと言うとオリンピックと言うのは世界各国からいろいろな国が集まってくるのだから、もう少し全体から個というものをとらえてまわりのことも考える必要はあるということだ。記録がどうとか経済効果がどうとかいうのも大事であるが、しかしその多くの国が集まるからこそ自分たちを他者とのかかわりの中で考えるべきことがあると思っている。

「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」というオリンピズムは、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿である。競技者はただ好きなことだけをやっていたらいいというわけではない。今やコスモポリタンで人とのつながりを考えなくてはいけない時代だ。特に自分たちよりもめぐまれない国や人身売買などのえげつないことが起こっている現実に目をむけて思いやりを示す必要がある。スポーツは国境をこえるというがまさに競技者は代表であってそういう義務をおっていると思う。しかし日本の競技者は社会や世界の問題などに関心がない。テレビに出てきてバカ話をうれしそうに話すアスリート、そういう人間が物事の善悪をしっかりとらえて正しい倫理的基準に従って生きているなんて思えない。よく何とか部の顧問とかスポーツ指導者は日本一になれとか世界を目指せと言うが、しかし教育がかけた記録さえのばせばいいという考え方は思いっきり間違っている。今自分が競技している国がどこにあるのさえもわからない人間、テレビに出てきても部室で話す程度のことしか話せないような人間がはたして本当に代表としてふさわしいのだろうか。最近ましになってきたと言うが、しかしまだまだアスリートの教育レベルがひくい。朝練とかトレーニングの拘束時間が長いのだから勉強できるはずはない。まずはきちんと勉強する時間を与えて知識を与えて「知る」と言うことを教える必要があるだろう。そしてもし可能ならば海外遠征の時にそこの国でおこっている現実をきちんと学習させたらいいだろう。私の考え方ではまともに物を考える人間の育成ができなければ、組織論と言う言葉など存在しない。組織とと言うのは上があってということではない。日本人はよく上が上がと組織の上層部のことを言うが、しかし組織と言うのはみんなでつくっていくもの、それは民主主義が成立していった歴史を見ればわかること。だから教育が必要だ。

 

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