脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ものさし

2011-08-05 | Weblog
11月の23日韓国のヨンピョンドが北朝鮮によって砲撃され民間人が巻き込まれたことは、記憶に新しいことである。
この直後そのインシデントは評論家によって取り上げられ様々な意見が交わされた。
多くの評論家がこのことに関して威嚇であるとか、権力の誇示だと言うようなことをコメントしている中、重村さんという評論家だけが彼の著書で違う意見を言っていたのだが、私はその記事にはかなりの説得力を感じたのだが、こうである。
本文を直接引用するとかなりの量があるので、どういうことが書かれてあったかと言うことを説明するが、重村さんによると北朝鮮が砲撃したのは威嚇や自分たちを誇示するためではなく、実は北朝鮮の石油の輸入量は日本で一番消費量の少ない県よりもかなり少ないらしく、もしアメリカと韓国が合同訓練を行えば、自分たちもこれに対抗して軍事訓練を行わなくてはならない、ただでさえ少ない量の石油をこんなかたちでつかうことは不本意なことで、自分たちの石油が枯渇しないように、軍事訓練を阻止するために砲撃したのだと言うが、この解説と言うか評論は非常に説得力があると思う。

重村さんだが、彼は大学で教える前は石油が専門で、あちこちを飛び回っていたそうだが、この石油の輸入量と言うところに着目したのは、まさに彼がそういう世界で仕事をしていたから、その時に培われた経験と知識が役に立ったわけである。
私はいろいろな書物やテレビなどで外国のも含めて討論や評論と言うものをよく見たり、聞いたりするが、やはりその時その人がどういうことをやってきたか、どういうスペシャリティーをもってそのことを見るかによって、物事を見る目が違い、興味深い意見が言えると思うのだが、時には重村さんのようにその専門性が真実に近いことを導き出す可能性もあるのだと思う。

私はその専門性と言うか物事を見る時に必要な大切なものの見方を「ものさし」と言っているが、やはりこの「ものさし」がしっかりしているかいないかということは、物事を考え、意見を述べる上では、たいへん重要なことである。
「ものさし」を確かでつかえるものにするためには本を読んだり、たくさんのことを学んで客観的なものの見方をしなければだめだ。自分の意見を恣意的な意見と勘違いし、俺は俺は自分の言いたいことを言うだけでは、まともな答えは導き出せない、第一俺は俺はと言うような意見を言うこと物事を客観視できていない証拠である。

「ものさし」というのは、自分が一生懸命勉強したことや体験したことである。
その体験したことや学んできたことが、物事を見たり考えたりする上で、事柄を導き出す上では重要である。
例えば語学ができるだけでも違う。
「八方美人」という言葉があるが、これは日本ではあまりいい意味で使われない言葉である。
しかし韓国や中国では誰とでもうまくやっていける能力のある人と、むしろいい意味で使われるのだが、こういうことひとつを考えても、日本と大陸の人間関係のバランスと言うものが見えてくるのであるが、物事と言うのはあらゆる角度から見ていくことが必要なわけで、私もよく英語の辞書などをひいて比較したり、引用したりするが、それだけでも物事を考えていく上ではかなりのアドヴァンテージになると信じているが、自分たちが若いうちに本を読んだり勉強したりするのは、「ものさし」を持つためであり、この「ものさし」が将来何かを考えたり、していく上で役に立つのだ。

少し前に違うところで格闘技をしていた人が言っていたが、時々こういう世界には変なというか不快な人物がいるらしい、格闘技をやっている人間は自分を大きく見せたがっているので、たいしたことも知らないのに、自分を大きく見せようとして、偉そうに言うのだが、中には話したくない奴もいるそうである。
正直自分を大きく見せる世界だから、彼が言うように非常に滑稽なことを言う奴もいる。
以前減量することがかっこいいことだと思っている人間がいて、よく若い人間で減量している人に、お前ら減量してるっていいたいだろうと言っていた。
何のことかわからないが、これは減量がかっこいいから、そのことをしているかっこいい自分を見てくれと言うことを公言したいだろと言うことらしいのだが、しかしこういう考え方は、どう考えても滑稽で、正直説明するだけでも恥ずかしいぐらい支離滅裂であるように思える。
まあ正直学問の世界ならば、こういう意見を言うと相手にされないが、しかし上下関係のあるような世界では当たり前なのか、言わせてもらえるのかわからないが、言えるのだが、しかし今や多くの人間が専門学校や大学に進学する時代、もう何も言わずともわかるだろうが、おそらくこういうことを言うと、ある人たちから見れば、話したくもない奴と見限られるのであろう。

私は思う。人に何かを教えると言う立場にある場合、本を読んだり、何かを学んだりしない人間の意見は、時には滑稽に聞こえる。黙っていたらいいのだが、しかし偉そうなことを言う奴に限って5分以上話せば、ぼろが出てくるのだが、自分の意見や考えを人に公言する時は、特に何かを教えると言う人間は、たくさんのことを学びしっかりとこの「ものさし」をもっていなけれは、話したくもない奴と見限られることもあるだろう。

今個性と言うのが重視され、自分の意見をはっきりと言える時代になってきているが、しかしその意見も滑稽であるか、確かであるということはその「ものさし」がどれだけしっかりしているかと言うことである。
ここでひとつ言っておくが「間違い」と「滑稽」というのは違う。だから何も間違ったことを言うなと言うことではなく、人間は時には間違った意見を言うこともある。
間違いは情報とインテレクチャルの相違から生じるが、しかし滑稽な意見と言うのは。もともと何も知らないに自分の体験や少ない情報だけでこうだと決めつけて、述べることである。
よく言う英語は文法じゃないとか、社会で賢いのと勉強で賢いのとは違うなんて言うのも、根拠がないどちらかと言えば滑稽な意見であるが、こういうことが根拠がないとか、どうとかいうことは、学んで客観的に見なければ、わからない。
そのものさしも確かなものになっていくためには多くのことを学び、知ること、そして時には間違いも必要である。
おそらくこれからの多様性が求められる時代は、自分の意見を言う時にしっかりとした「ものさし」が必要だ。
何も学んでいないのに目立とうと言う気持ちで意見をいうのは滑稽であるだけであって、しっかりとした意見を持つためにはいろいろな角度から物事を見る必要があり、そのためいろいろなことを学ぶ必要がある。
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