脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Jerusalem Boxing Clib Brings Togeter Jew And Arabs

2011-08-03 | Weblog
おとつい英字新聞を読んでいたら「Jerusalem boxing club brings together jew arabs」という記事があった。
記事を読んでみるとどうやらイスラエル人とアラブ人が住んでいる地域にイスラエルで唯一のプロボクシングクラブがあるらしく、そこではユダヤ人とアラブ人がそのスポーツを通して共存していると言うのである。
おそらく単純に考えたらこの記事は美談として受け取られることだと思う。
宗教や人種が違う中東の火薬庫こ言われているイスラエルにボクシングクラブと言うスポーツクラブがあって、そこにユダヤ人とアラブ人が共存しているのであるから、素晴らしいことである。

しかしなぜこのことが記事になったかと言うことを考えてみたら、それは単なる美談では終わらない。
イスラエルと言う国は実際土地をめぐって中東戦争を3回も繰り返し、最終的には6日間戦争で圧勝し、領土を4倍に広げるのであるが、しかしその戦争によって難民や人種問題が大きく浮上したのだが、そのクラブのある場所も問題が多い、ユダヤ人とアラブ人が共存する場所である。
日本人にとってこの中東の歴史と言うのは非常に複雑でわかりにくい、なぜなら我々にはなじみのない宗教や人種の対立がその背景にあるからだ。
実際にその対立の歴史はすさまじいものである。聖書の記事を見ると分かるが、その歴史は戦争であり、その戦争を繰り返してイスラエルは強くなっていく、そして彼ら彼女らはダビデ王からソロモン王時代に栄華を極めるわけであるが、しかしこれらの土地は神が与えたとはいうけれども侵略した土地である。
その記述に「へレムの掟」という掟がある。これは一般には皆殺しの掟として知られているが、この掟は自分たちが侵略し攻めて行った土地は徹底して滅ぼさなくてはならないと言う掟である。
皆殺しと聞いて少しぞっとするかもしれないが、しかしこの掟は何もヒトラーによるホロコーストのような意味もない、ただにくしみだけで殺戮を繰り返す殺人とは少し意味が違う。
一体どう違うかと言うと、この掟自体の目的はその土地にある土着の宗教を根ぜつたやせと言うことで、当時はこの宗教によって道徳的な腐敗やその他の弊害がもたらせることもあり、そのことをおそれたイスラエル人がその土着の宗教を徹底的につぶすためにそのような掟を定めたと考えられるのである。
そう考えるとその宗教や人種が違う人間がこのイスラエルと言う国において、共存していくことは難しく、おそらく一般的には不可能と思える。
こういう記事を見るとボクシングはすごい、だから素晴らしいというようなことを感じる人間もいるが、しかしこれは裏をかえせばこういうかたちでしかお互いを認め合うことができないという現実でもある。
私はおそらくこのイスラエルのクラブに属する人間たちは、少し貧しいぶるいに属するのではないかと思っているのだが、おそらく特にユダヤ人の場合は自分たちのアイデンティティが教育を通して行われるのだから、アラブ人やパレスティナ人と同じ場所で助け合って共存するとは考えられない、だからひょっとしたらそういう教育を十分に受けていない人がと考えるのである。

ボクシングはハングリースポーツと言われ、どちらかというとプアーな人たちに希望を与えて来たスポーツだあるが、正直全体を通して見るとボクシングのスポーツとしてのステータスはひくいと考えている。
確かにアリやパッキャオのように世界的に有名になり、尊敬されうこともあるだろうが、しかし一般論としては教育レヴェルがひくく不良のやるスポーツと言うような感じで見られているのではないだろうか?

実はHIは意外と日系人がボクシングをやっていた。そして彼らはかなり強かったらしい。私の時代には日系人でボクシングなどする人間はほとんでいなかったが、私のコーチのジョージの世代の人間はボクシングをやったことのある人が多く、しかも結構強かったそうである。
そのジョージが私に言っていた「ボクシングをやる人間は色がくろい、そして俺もお前もイエローだ」今でいえば日系人はHIでのステータスは高いが、昔は差別されていたらしく、当時は白人が圧倒的に力をもっていたので、ボクシングのような殴り合いをしなければならないのは、俺たちのような有色人種だということをアイロニーを込めて言ったのだ。
さらにジョージは言っていた。「ボクシングはコロッセウムで戦うような見世物に近いが、しかし勝てば有名になれる」だからそういう時代に多くの人が、ハングリースポーツであるボクシングにひかれて多くの日系人が競技したのだと言うのだ。
ボクシングにはもう一つの顔がある、それは人種差別そして、自分は何ものかと言う自分のアイデンティティにかかわる戦いである。おそらくこういう人種的なことを言っても単一民族である日本人で理解する人は少ないが、しかし彼ら彼女らの戦いはただはいあがっていくということだけではない、自分は何ものなのかと言うアイデンティティを求めている戦いでもあり、それがボクシングと言う競技のもう一つの顔かもしれない。








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