脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

ヨボセヨ

2015-09-09 | Weblog

外国人の友人と英語教育の話題になった。英語をおぼえることは今の世界では必須であるが、これを早い時期から学習させると言うことはどうかということである。私はまず母国語をしっかりとおぼえさせることが先決だと思う。母国語と言うのは物を考える時の土台となり、この土台がしっかりしていないと本当に正しい意見など言うことはできない。自分が今育っている国の言葉をおぼえてアイデンティティを確立させることは他の言語をおぼえることよりも必要なことだと信じている。だいぶ前にその友人に知的な人はどういう人かと聞かれて日本語力のある人と答えたが、日本語力の強い人は思慮深くまわりの意見に流されたりしないと言うのが私の意見である。礼儀やあいさつを強調しても日本語力がひくいとある一定のラインからはバカにされるだろう。そもそも礼儀とは日本語を正しく使うことではないか?davichiのLee haeri(イヘリ)と言う歌手がいる。だいぶ前にテレビを見ていて彼女が途中で登場するシーンがあった。たぶん誰かが歌おうとしてた時に現れて一緒に歌うことになっていて、その入ってくる時に「ヨボセヨ」と声をかけて入ってきた。「ヨボセヨ」と言うのは「もしもし」と言う呼びかけであるが使い方によっては「ごめんください」みたいな感じになるのだが、彼女が「ヨボセヨ」と入ってきたのがまさにそのタイミング、この人言葉の使い方がきれいだなあと感心したのだが、言葉の使い方が正しくきれいだとその人の品格につながる。そういうことが礼儀正しさだと解釈している。その他に私が品格があると思う女性はキャスターの桜井さんイヨンエなどいるが、やはり彼女らは教養があって言葉の使い方がきれいだ。運動系のクラブではあいさつだの礼儀だの言っているが、いくら礼儀やあいさつと言ってもそのさせている人間の日本語力や語彙力がひくければ本当に礼儀正しい人間なんて育つだろうか?語彙力や表現力と言うのは特に指導する人間の質をあらわすと思っている。その群れの質がわるいと言うことはその指導者の質がわるいからだ。ある哲学者は人間は言葉によって自分の世界を広げていくと言ったが言葉を学ばなければ世界が小さくなっていく、格闘技の指導者などでも何かこの人感覚がずれているなという人がいるがこういう人は往々にして言葉や表現力がとぼしく勉強がきらいなタイプであると疑っている。一応自分との利害関係があるものにはあいさつできて、先輩や監督などに服従する。がしかし一歩外に出たら素行がわるい、未成年のくせにたばこを吸ったり酒を飲んだりケンカをしたりなんていうのは言葉が伝わっていない証拠だ。威嚇したような恰好や持ち物はその人間の性質をあらわしている。さっきも言ったがガラがわるいと言うのは人間の質でもある。私がもし高校や中学の監督をするならば部員は辞書必携にする。そしてミーティングや何かの機会に難しい言葉を使うたびに意味が分かるかとキャプテンに問いわからなければ辞書をひかせてまず彼ら彼女らの言葉から洗練する。それは日本語を正しく使うと言うことで群れが洗練されると信じているからだ。でかい声でチワーッスとか言わなくても日本語が正しく使われようとすれば礼儀正しいと感じさせる。サルの秩序を保つためのようなかたちからの礼儀よりも言葉を勉強して知性を磨くことによって洗練する礼儀を求めることが大事なことだと思う。私もまだまだ勉強中であるが特に我々のような社会人の多いクラブにとって言葉をみがくことはプライオリティである。

 

 


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