よく大人はやりたいことを見つけろと言う。がしかしやりたいことなどそんなにすぐに見つかるものでもない。小学生だったらまだしも高校生ぐらいの人間に夢をもてとかやりたいことを見つけろと言うのはあまりにも抽象的で、逆にそういうことを言われてもこまってしまうのではないかと思っている。夢を持てとか言うよりもまず自分に何ができるかということが問題だ。今自分に何ができるかと言うことを考えたら自分の足りなさが見えてくる。その足りなさが見えた時に何が必要かということが見えてきてそこから何かをやろうとするのではないだろうか。そしてそのためには環境が必要である。ある程度教養があって社会できちんとやっている人たちの存在は大きいだろう。私の子供の話で恐縮であるが彼もそういった人たちの影響を受けてきたと思う。今特に何になりたいとかそういうものはないが、しかし勉強しなくてはいけないということがわかっている。まあ要領はいいとは言えないがしかしやるべき時に学習はしているので、やはりそれはまわりの大人を見てこうならなくてはいけないとかここままじゃだめだと自分のたりなさに気づいているからだと思う。ジムでもそうだが人間関係と言うのは人間を成長させる上で重要である。自分のまわりがそれなりの人間ではその人間の成長もたかだか知れている。少ないボキャブラリーで自分たちが知っていることだけを自慢げに話すようなDQNの集団にいても反面教師以外何も学ぶことはないだろう。むしろそういう集団の仲間になってはだめだ。最近子供の犯罪や子供が犯罪に巻き込まれるニュースが後をたたないが、ああいう犯罪の背景には必ずその子供たちを取り囲む環境にズレた大人の存在があるのだが、やはりこういうスポーツクラブはスポーツを教えるだけではなく、教育的にも道徳的にも子供が見本となる大人たちが存在する必要はあると思う。おそらくある程度の年齢になればその人間から刺激をうけてああこの人教養があるなあともっともっと自分も何か学ばなければとか、魅力的な職業であればああいう風になるにはと自分のたりなさに気づき、今ある自分よりももっと上の自分を目指すのではないか。話一つにしても教養があるかないかではまったく違う、私はスポーツ指導者はそこそこインテリの話しについていけなくてはだめだと思っている。若い人がそういう話を聞いて自分もあれぐらい知識を身に着けてああいう会話ができるようになりたいと言う刺激を与えることも大事であり、そういう大人の存在と言うのはそのコミュニティにおいて非常に貴重で大きい存在だと思っている。
事実そういう大人たちに囲まれたら自分はちっぽけで何もできない存在であることがわかる。でもしかし彼彼女には若さがある。若いと言うことは多くに時間と強いエネルギーがある。その若さと言う時間の中で自分のたりなさをみがくことは最も価値あることであり、人間はそう言うことを繰り返して成長していくのだと思う。私の中学時代は本当に何も持っていなかった。本当にちっぽけな存在であった。今でもそこまで自慢できるわけではないが、しかし自分にはなかったたりなかったと気づくことができたから、小さな世界や価値観からぬけだすことができて今や人並みではあるが折る程度のステータスを得ることができたと思っている。しかしはっきり言って自分はまだまだたりないと思っているのだが、一番みっともない人間は持ってないのに持っているふりをする人間だ。同じような仲間を集めて自分たちの通用することしか話をしない、そういう狭い世界で生きてる集団は往々にしてズレた感覚を持っている。アドラーは選択する心理学において集団のかかわりについて述べていたと思うが、本当によい選択をしたかったら付き合う相手と集団を選ぶこと、自分には何ができるかと言うことを知るためにはまずそういう集団の中で自分の存在を知りたりなさに気づくことである。