脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

文化や言語はひとつではない

2015-09-06 | Weblog

、交差点のど真ん中に「家庭教師のトライ」と言うサインが、トライって韓国語で放送禁止用語である。その前に犬をあらわすケをつけるととんでもないののしり言葉になるそういう人たちが家庭教師なんて、トライと言うのはチャレンジをより英語的に表現したものだと思うのだが、トライと言うのがトライだけに笑ってしまった。話は野球の話になるが私は日本を応援していない。じゃあ韓国を応援するのかというとそうでもなくどちらかと言えば台湾あたりが頑張って優勝してくれという気持ちがあるがこういうとたぶん日本人はかわっていると言うだろう。しかしなぜかわっているのか?おそらくそれは後にふれるが日本人の多くがひとつの言語しか話せない、文化をひとつしか持たないからである。

「ハーフはなぜ才能を発揮するのか」と言う本がある。これはいわゆるバイレイシャルの話を聞き、取り上げることで日本には日本人とは考え方が違う立場が存在するのだと言うことを伝えている本で、こういう存在が現代の日本に多く存在しているのだが、オリンピックが開催されようとするこれからの日本は彼ら彼女らの価値観や世界観をどう考え融合させていくかと言うことが課題であると思う。私はよく日本人からアイロニーをこめてユニークだと言われる。もともとユニークとはそういう意味で使われることはないのだが、しかし人と考え方が違うのだろうそういう私は日本人から見たらかなりユニークな存在である。しかし外国人や外国に長くいた人などは見解が違う。どちらかと言えば評価が高く、久しぶりにボクシングクラブの監督にあった時に君はよく戦術を理解していて非常にスマートであったとほめていただいたが、彼の評価は協調性や和を重んじる日本人の監督とは違う。ひとつの言語や文化しか知らないというのは非常に狭い考え方を生み出すのだが、日本人が閉鎖的で固まるのは一つの言葉しか話せない人間が多く、自分たちの文化以外は共有できないからだと思っている。少し翻った意見であるが、固まることは別にわるいことではない時にはそれがアドバンテージでもある。しかし程度のひくい人間ともなると別、私はこういう輩が固まることをつるむと言っているが協力するとつるむのは全く別の次元だが、勉強しない本を読まない語学もダメというのは当たり前だが考え方が狭くなるので客観的な考え方んどできない、できないから仲間を求めてつるむのだが、スポーツにはこういうたぐいの集団が存在するから残念である。ユニークであると言うことはただ南米のサルのように目立った恰好をしたり、何もわからないのにただ勢いで滑稽なことを言うことではない。人に認められるような個性と言うのはある程度知性も磨かなくてはならない。ホモサピエンスと言うのはラテン語で知性を持つものでこの知性こそが人間に与えられたものだ。そう考えるとその知性をフルに磨くことが人間の個性をみがきユニークな存在になれるのではないか。もしオリンピックで国際的なコメントを求められたら何というのか?ロンドンオリンピックでロンドンはどこと聞かれて全く見当違いの場所を指さしていたアスリートがいたらしいが、きちんと勉強していなければ滑稽なことを言って恥をかく、日本のバラエティ番組ならばワハハと言ってそれはそれでおいしいのだろうが、しかし外国のメディアにカメラを向けられたら何というのか?そういうことも踏まえて、自分たちの行動や意見と言うのは本当に世界で通用するのかと言うことを考えなければならないと思う。

 

 

 


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