以前英会話教室の女子中学生が、夏休みにカリフォルニアにホームステイに行ったという話をしたが、たいへんいい経験になったらしく来年もまたいくつもりでいる。
彼女とは電話であるが30分ほど話したのだが、とにかくむこうの様子を話しっぱなしで、苦労したことや楽しかったこと、正直最初の1週間はホームシックになってしまいかえりかったそうで、つらいことや楽しいことを経験したが、話の様子からも本当にいい体験をしたようだ。
その話の中で彼女がこういうことを言っていた。
それは「日本を出発する時とかえってくる景色がちがった」と言っていたのだが、たぶんその約2ヶ月間の間にいろいろと向こうでの暮らしに感じさせられることがあったのだろう。そう感じるのは、おそらく彼女がひとまわりもふたまわりも成長したからだと思っている。
サンテクジュペリの代表作「星の王子様」の中にも「大切なものは目では見えない、心で感じるんだ」というようなセリフがあるのだが、感受性を磨けば見えるものはたくさんある。
その感受性を磨き鍛えるためにも、若いうちから知らない土地に行っていろいろな体験をすることは大事なことだ。
うちのクラブにオリンピック候補にあがった選手がいるのだが、彼もまた国際試合や強化合宿などで外国に滞在したことがあるらしく、向こうに行くと練習の仕方や選手の態度など、日本とは全然違うので驚かされたらしく(特に私がよく言う、子飼い(子分))の多い体質はよくわかると言っていたのだが、彼は本当にそこで違う文化に実際肌で触れたのだが、その体験したことは、大学を卒業し社会人になった今でこそ生きてくるそうである。
よく言うが若いうちは感受性を十分に磨かなくてはならないし、貴重な体験をたくさんしなければならない。
そういう意味では違う文化に触れて、そこでいろいろな体験をするということは大事なことである。
この女子中学生ではないが、外国に行くと言葉や文化の壁がある。そこでいろいろと苦労し、体験したことはその人にとって大きいことだろうし、貴重なことである。
確かに外国に行かなくても日本でも同じ体験はできるだろうが、しかしグローバル化された現代社会において、島国である日本はもっともっと一歩前に出て行って、いろいろな言葉や文化に触れ、刺激を受け感受性を磨くことは必要だと思っているのだが、まさにそれはオリンピック候補制の言葉にもあらわれているだろう。
しかし私は最近この日本人の感受性に危機感を感じている。
それはある意味日本人が物事にたいして、敏感と言うよりも単純になりすぎているのではないかという懸念があるということだ。
それは最近よく目にするのが感動的な話と言うか番組であるが、そういう番組が最近やたら多く、視聴率がいいのである。
あるお笑いの司会者が何分間のいい話と言うような番組をよくやっているのだが、それは感動話を3分ぐらいで話すという企画であるが、しかし普通あんなダイジェスト程度のような感動話で目をうるうるさせるだろうか。
司会者もそういう単純な話に目をうるうるさせて話しているのだが、あきらかにこういう番組は人を感動させてやろうと言うことをもくろみにした番組で、感動とは少しそういうこととは違うような気がするのであるが、しかしこういう番組がやたら多く人気があるのである。
たぶんこれは私の考えではあるが、こういう傾向は感動したいと言う刺激は求めるが、考えることはしない、できないということから、こういう自分の刺激を満足させてくれる要素だけを求めた結果であると思っている。
確かに人間はすべてのことがそう複雑ではない、しかし考えてみると安価な感動が多く、多くの人がこの安価な感動を求めているだけで、そういう刺激にふりまわされているように思えて仕方がないのだ。
人間は感動すると言うことは非常に大事なことだが、しかし考えることを抜きにしては、刺激が暴走してしまい、単に感情的になるだけだと思っている。
小説にしてもそうである。今うちの留学生はヘミングウエイを読んでいるのだが、そのヘミングウエイを読んで感動できるのは単に刺激でそれを受け取っているだけではなく、先達たちの残した遺産を、しっかりと考えて読んでいるからである。
私が本を読めと言うのは実にこの点で、小説や哲学書と言うのはまさに先達たちが悩み葛藤したあかしであり、そういう文学や哲学書によって人間は深く考えさせられ、ある種の感動をおぼえるからである。
私はこういう感動は人間を豊かにするものであると信じている。
こういう感動は早送りの感動話では理解できない感動であろう。
特に指導者が知性を持たなければ、本当の意味でいい刺激を与えることはできない。
正直ヘミングウエイやドストエフスキーが、わからない人間に何かを学びたいと思うだろうか。
ある意味感動話ばかりする人間や、たいした根拠もないのに礼儀などと言う人間は、知性にかけると思っているのだが、知性がないから相手の感情にうったえかけたり、礼儀と言う型にはめようとするのだが、道徳や倫理と言うものは普遍的なものである、その倫理や道徳あるいは哲学を自分だけの理解で、矮小化してとどめるから、ステレオタイプの人間いわゆる子飼いを生み出すわけで、これが非常に単純な人間を生み出すことだと懸念している。
外国に行くとわかるが、日本の選手は直結型が多い。直結型と言うのはいい意味で素直、しかし言葉をかえれば愚直である。
それは運動馬鹿と言う言葉で片付けてしまえばそれまでだが、自分の意見をもたない、個性がないと思わされることは、むこうと比較すればよくあることで、おそらくそういう直結型思考は世の中では通用しないと思っている。
日本人は優秀である、しかし大きな欠点は従順すぎると言うことと、その体質、そういう直結型に人間を生み出すのもその指導者の学びにあると思っているのだが、指導者の刺激の与え方や、角度を変えて違う視点から物事を見ることは大事なことである。
半分冗談だがミーティングなどで、人が聞いていることをいいことに、よく俺は俺はと自分の話をする人間がいるが(よくいると思うが)、こういう話を若い人にすることはよくない、だいたいこういう輩は勉強しないから客観的な考えがもてない、だから俺は俺はとなるわけで、今はもうアスリートもアカデミックになっているのだから、せめて人にそういう話をするのなら引用文を3つぐらいは引用してほしいものである。
彼女とは電話であるが30分ほど話したのだが、とにかくむこうの様子を話しっぱなしで、苦労したことや楽しかったこと、正直最初の1週間はホームシックになってしまいかえりかったそうで、つらいことや楽しいことを経験したが、話の様子からも本当にいい体験をしたようだ。
その話の中で彼女がこういうことを言っていた。
それは「日本を出発する時とかえってくる景色がちがった」と言っていたのだが、たぶんその約2ヶ月間の間にいろいろと向こうでの暮らしに感じさせられることがあったのだろう。そう感じるのは、おそらく彼女がひとまわりもふたまわりも成長したからだと思っている。
サンテクジュペリの代表作「星の王子様」の中にも「大切なものは目では見えない、心で感じるんだ」というようなセリフがあるのだが、感受性を磨けば見えるものはたくさんある。
その感受性を磨き鍛えるためにも、若いうちから知らない土地に行っていろいろな体験をすることは大事なことだ。
うちのクラブにオリンピック候補にあがった選手がいるのだが、彼もまた国際試合や強化合宿などで外国に滞在したことがあるらしく、向こうに行くと練習の仕方や選手の態度など、日本とは全然違うので驚かされたらしく(特に私がよく言う、子飼い(子分))の多い体質はよくわかると言っていたのだが、彼は本当にそこで違う文化に実際肌で触れたのだが、その体験したことは、大学を卒業し社会人になった今でこそ生きてくるそうである。
よく言うが若いうちは感受性を十分に磨かなくてはならないし、貴重な体験をたくさんしなければならない。
そういう意味では違う文化に触れて、そこでいろいろな体験をするということは大事なことである。
この女子中学生ではないが、外国に行くと言葉や文化の壁がある。そこでいろいろと苦労し、体験したことはその人にとって大きいことだろうし、貴重なことである。
確かに外国に行かなくても日本でも同じ体験はできるだろうが、しかしグローバル化された現代社会において、島国である日本はもっともっと一歩前に出て行って、いろいろな言葉や文化に触れ、刺激を受け感受性を磨くことは必要だと思っているのだが、まさにそれはオリンピック候補制の言葉にもあらわれているだろう。
しかし私は最近この日本人の感受性に危機感を感じている。
それはある意味日本人が物事にたいして、敏感と言うよりも単純になりすぎているのではないかという懸念があるということだ。
それは最近よく目にするのが感動的な話と言うか番組であるが、そういう番組が最近やたら多く、視聴率がいいのである。
あるお笑いの司会者が何分間のいい話と言うような番組をよくやっているのだが、それは感動話を3分ぐらいで話すという企画であるが、しかし普通あんなダイジェスト程度のような感動話で目をうるうるさせるだろうか。
司会者もそういう単純な話に目をうるうるさせて話しているのだが、あきらかにこういう番組は人を感動させてやろうと言うことをもくろみにした番組で、感動とは少しそういうこととは違うような気がするのであるが、しかしこういう番組がやたら多く人気があるのである。
たぶんこれは私の考えではあるが、こういう傾向は感動したいと言う刺激は求めるが、考えることはしない、できないということから、こういう自分の刺激を満足させてくれる要素だけを求めた結果であると思っている。
確かに人間はすべてのことがそう複雑ではない、しかし考えてみると安価な感動が多く、多くの人がこの安価な感動を求めているだけで、そういう刺激にふりまわされているように思えて仕方がないのだ。
人間は感動すると言うことは非常に大事なことだが、しかし考えることを抜きにしては、刺激が暴走してしまい、単に感情的になるだけだと思っている。
小説にしてもそうである。今うちの留学生はヘミングウエイを読んでいるのだが、そのヘミングウエイを読んで感動できるのは単に刺激でそれを受け取っているだけではなく、先達たちの残した遺産を、しっかりと考えて読んでいるからである。
私が本を読めと言うのは実にこの点で、小説や哲学書と言うのはまさに先達たちが悩み葛藤したあかしであり、そういう文学や哲学書によって人間は深く考えさせられ、ある種の感動をおぼえるからである。
私はこういう感動は人間を豊かにするものであると信じている。
こういう感動は早送りの感動話では理解できない感動であろう。
特に指導者が知性を持たなければ、本当の意味でいい刺激を与えることはできない。
正直ヘミングウエイやドストエフスキーが、わからない人間に何かを学びたいと思うだろうか。
ある意味感動話ばかりする人間や、たいした根拠もないのに礼儀などと言う人間は、知性にかけると思っているのだが、知性がないから相手の感情にうったえかけたり、礼儀と言う型にはめようとするのだが、道徳や倫理と言うものは普遍的なものである、その倫理や道徳あるいは哲学を自分だけの理解で、矮小化してとどめるから、ステレオタイプの人間いわゆる子飼いを生み出すわけで、これが非常に単純な人間を生み出すことだと懸念している。
外国に行くとわかるが、日本の選手は直結型が多い。直結型と言うのはいい意味で素直、しかし言葉をかえれば愚直である。
それは運動馬鹿と言う言葉で片付けてしまえばそれまでだが、自分の意見をもたない、個性がないと思わされることは、むこうと比較すればよくあることで、おそらくそういう直結型思考は世の中では通用しないと思っている。
日本人は優秀である、しかし大きな欠点は従順すぎると言うことと、その体質、そういう直結型に人間を生み出すのもその指導者の学びにあると思っているのだが、指導者の刺激の与え方や、角度を変えて違う視点から物事を見ることは大事なことである。
半分冗談だがミーティングなどで、人が聞いていることをいいことに、よく俺は俺はと自分の話をする人間がいるが(よくいると思うが)、こういう話を若い人にすることはよくない、だいたいこういう輩は勉強しないから客観的な考えがもてない、だから俺は俺はとなるわけで、今はもうアスリートもアカデミックになっているのだから、せめて人にそういう話をするのなら引用文を3つぐらいは引用してほしいものである。