脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

お家芸

2010-10-22 | Weblog
昔ある先生に心理学のカウンセラーのような、コースを勧められたことがある。
その先生によると私は分析力がすぐれているそうで、ひょっとしたら犯罪心理学などを学べば、かなりものになるような気がしたようで、そのとっかかりとしてそういう勉強をすすめたそうだ。
時々私自身人からその分析力をかわれて相談されることがある。
だいたい相談してくるのは自立した人間が多いのだが、おそらくそれは同情されるよりも客観的な意見を求めているからであり、私は同情や情ではなく、はっきりと物事を言うので、いろいろと話してくるのだと思っている。

しかし自負して言うが、自分の分析力はもともと心理学を専攻していたからというわけではない。
これにはボクシングと深くかかわっている。
少し前に、もと野球部員だった人間に、最小の努力で最大の実力を発揮すると言うようなことが、むこうのモットーで我々のコーチはそういうことを常に考え目標にしていたというようなことを言ったら、そんなこと日本で言ったら間違いなく怒られると言うようなことを言っていたが、しかし身体能力の違いを感じたらそんなことを言ってはいられない、私が競技したところはUSAで、ボクシング一つにしても、それだけのスポーツをやっているというわけではなく、いろいろとスポーツを経験していて、たまにキャリアはかなり浅いのにすごくうまいのがいたが、その身体能力が高いことにはかなりおどろかされたのだが、みんなが同じスポーツをひとつだけやっているわけではなく、いろいろなところから集まってくるので、とにかく身体能力の高い選手が多いのだ。
とにかく体力やテクニックで勝てないならば知力で勝つしかない、そう思った私は徹底的に相手のことを分析し始めたのだが、分析力が養われたのはこういうところによる。

しかし分析するとは言っても、それは何もテクニックと言うことだけではない。
まず考えたのが相手が何を考え、どういう民族なのかということである。
意外と相手が何を考え、どういう民族かと言うことがわかれば攻略が見えてくる。
たぶん日本でこういうことを言えば、それは抽象的にしか聞こえないが、しかしむこうは日本のように同じタイプの選手は少なく、それぞれスタイルが違うので、この読みと言うのは大切である。
たとえば、失敗をおそれる民族と、楽天的な民族は違う。当然両者とも練習のやり方が違うのであるが、日本のようにほとんどが同じタイプの選手ならば一生懸命練習をすればそれなりに差が出るのだろうが、しかしそうではない。
私は勝手にそれを法則とリズムの戦いと名付けて、分析したが、日本人は何をするにもかたちを求める、しかし一方、楽天的な民族はもともとボクシングにおいては身体能力が高く、リズムを重要視して攻撃してくるのだが、これを無理にあわせていては結果的に身体能力のおとるわれわれはかなり不利である。
しかしもともと身体能力の高い選手は、攻撃パターンも決まってくる。その攻撃パターンがわかっていても、みごとに食らってしまうのが現実であるが、しかしそれでもこれにあわせていくつかのパターンを考え(たとえばスイッチしてきた時にそれにあわせて、右を合わす練習を徹底的にするというようなこと)徹底的に練習したのである。

さらに日本人であることの利点はある。
他の民族がうち方が荒いのに対して、日本人はコンパクトにパンチをうてるが、これはある意味日本人のひとつの芸のようなものだといってもいいであろう。コンパクトにうてるぶんたとえ相手のスピードが速く、パンチが強かっても相手よりも速く何発ものパンチをまとめてうつことができると考えた。
そう言えば昔K1にムサシとかいう選手がいてまさに彼はその利点を生かしていたが、しかし日本人がその身体能力の壁を乗り越えて相手に勝つためには、相手を研究し、利点を生かすしかないと思っているが、まさにそのことが求められたのである。
私はそれほど強くはなかったが、考え知力を磨くことで、これぐらいの才能と根性にしては、自分の最大限の力を発揮できたと思っている。
しかしこれらのことは結果論的ではあるが、ただボクシングだけのことを考えていたからこういう結果がでてきたことではない、いろんな書物を読み、分析したから結果としてでてきた答えであるが、特にアスリート時代に難しい本を読んで勉強することは、その戦略を練る上でも大事なことであり、特にクラウゼビッツや孫子などは読む必要はあるだろう。




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