本ブログを始めて6年ほどのなるだろうが、過去のブログで比較的アクセスの多いのが、3年前に書いた「一票の格差はあって当然」である。(下記アドレス参照ください)
このところ、日本中で弁護士さんたちが、「一票の格差」によって平等な権利が侵されたと訴えて、すべてに違憲の結果が出ている。しかし、中身を見てみると選挙制度そのものに問題があるものも少なくない。弁護士が徒党を組んで訴訟を起こすのも奇妙な構図である。
現在の小選挙区制は、トップ以外の政党の意見は存在しないことになる。第2党以下の票は無効に近いものになる。「一票の格差」を生んでいるのは、小選挙区制の方が大きくないか。
選挙の前の有権者数で評価するなら、選挙後の獲得票の数も考慮しなければ、片手落ちである。得票数の下限を設け、当選者を制限するか、投票率の少ないところは、国会議員選出に無関心であるとして、当選者を出さないようにするなどしなければ、「一票の格差」が生じる。
そもそも、一票の格差は都会の論理であり、人類の驕りである。田舎や一次産業が軽んぜられる原因はここにある。私たちが、1000名の署名を集めるのにどれほど苦労しているのか、労力がいるのか、どれほどの環境を配慮にしているか全く考慮していない。法の下の平等など、人間社会のものである。
札幌で柳の木の伐採反対運動があった。反対の署名は極めて短期間に数万人集まったと聞く。同じ時期に、知床の自然木の伐採反対運動があったが、とてもじゃないが署名人数が集まらない。
知床の山中の楢の大木が切られようが、ほとんどの人が気が付かない。署名など集まるわけがない。貴重な山林の自然木は伐採されて、人が都合で植えた木が保護される方が民主的であるわけがない。自然の評価を人間の数で軽重を決定するシステムがおかしいのである。
産業も同じである。誰もがなければ生きてい行けない、食糧を生産する人たちはごく限られている。そして、デスクで仕事をする人たちに比べると、極めて広大な面積を占めて仕事をしていることになる。収入も低い。広い地域や就業人数の少ない産業は、今でも「一票の格差」を実感している。
人間の数に応じて権利の大小、過多、濃淡を設定するのは人間の驕りである。一票の格差があって当然である。この世は人が住んでいるだけではないからである。法律だけでこの世を諮る愚かさを、裁判官も弁護士も知るべきなのである。