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まらずもう物知り帳(3) まらずもうは「孤独な闘い」

2009-12-11 10:34:32 | まらずもう物知り帳
【まらずもう物知り帳(3) まらずもうは「孤独な闘い」】

 「孤独な闘い」と評される競技は多々ありますが、まらずもうほどその形容がふさわしい競技もめったにないでしょう。なにしろ、対戦相手はおろか、審判さえもいないのですから。
「審判もいないとなると、きわどい勝負をしたら勝敗はどうするんだ?極端な話、インチキしてもばれないんじゃないか?」という疑問がわくでしょうか。この疑問は、まらずもうの精神を教えてくれる、とてもよい質問です。
 結論からいえば、きわどい勝負の時、勝敗を判定するのも力士本人ですし、よって、インチキして、負けた相撲を「勝ち」と報告してもバレません。「それでは競技として成り立たないじゃないか」と思われるかもしれませんが、実は、だからこそのまらずもうなのです。大相撲と他の格闘技の最大の違いは、競技開始の瞬間にあります。通常の格闘技は、審判の開始合図に従って競技を開始しますが、大相撲では行司や土俵下の審判が開始の合図を送るのではなく、力士同士が互いに呼吸を合わせて立つのです。「対戦相手より早く、有利な態勢になりたい」という思いと、「対戦相手と呼吸を合わせる」というのは、普通に考えると背反することですが、そこにこそ大相撲の妙味があるのです。外国の方などは大相撲の立ち合いの制度を聞くと、「なぜそれで競技が成り立つのか」と不思議に思うそうです。ですが、仮に大相撲の立ち合いを、審判の合図とともに始めるようにしたら、大相撲の醍醐味は失われてしまいますし、そうなったらそれはもはや大相撲ではないでしょう。これと同じように、勝敗の判定まで自分でする、という、一見競技として成り立たないような制度にこそ、まらずもうの妙味があるのです。
 まらずもうは孤独な闘いです。負けたとき、審判に負けを宣告されるのと、自分自身で負けを認めるのと、どちらがより辛いか、考えてみましょう。まらずもうには、負けたときに自ら負けを認めるという潔さが求められます。きわどい判定で負けたとき、その判定を下したのが審判であれば、審判に不満の矛先を向けて、気を紛らわせることもできるでしょう。しかし、まらずもうでは、そのような状況の中、裁定してくれる人は他にいないのです。自分自身で、「勝ち」とするか、あるいは負けを認めるかを判断しなければならないのです。これは大変つらいことです。だからこそ、潔く負けを認めた力士は、勝った力士と同じように畏敬のまなざしを向けられるのです。
 さらに、そもそもまらずもうとは何か思い出してみましょう。まらずもうとは、まらの状態を通して、神のお告げを聞くことでした。ですから、どう見ても負けだったものを「勝ち」と告げるのは、神のお告げをねじ曲げることになります。負け相撲や、きわどい相撲を「勝ち」と報告することはできますが、その瞬間から、その力士は「あんな相撲を勝ちにしてしまった」という思いを背負い続けることになります。一人で闘い、その勝敗の裁定まで自分自身が全責任を負う。まらずもうは、「孤独な闘い」の究極形態といえるでしょう。



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