まらずもうブログ

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毛呂乃~わが半生~(3)

2015-11-04 10:00:00 | 毛呂乃~わが半生~

第3話 雷電

 先日、私がいやがらせ目的で一本糞親方のまらに電気を流したとの報道があったが、なぜそのような誤報が流れたのであろうか。電気療法は心身を若々しく保ってくれる。適度な電流を流すことで、朝は爽快に目覚め、昼も休むことなく精力的に活動できるようになり、夜は体内のエネルギーをまらに集中させ爆発させることができる。初心者の一本糞親方に見合った弱めの電圧をかけ、一本糞親方も気持ちがいいと言っていたではないか。にも関わらず、いやがらせ目的などと報道されてしまうのは、はなはだ不本意であるが、それも私の不徳のいたすところなのであろう。

 私が電気の効用に気がついたのは保育園のときであった。ある夏の日、午前のお散歩の最中である。それまで晴れていた空に、にわかに雲がわき出て、スコールのような雨が降ってきた。私とクラスメートの園児たちと引率の保母は公園の大きな木の下で雨宿りをすることになった。不安そうに空を見上げる園児たちに、保母は「天気予報は晴れだったのにおかしいわねえ。すぐに止むからだいじょうぶよ」などと気休めを言う。

 ふと、私は雲の色がおかしいことに気がついた。夏らしい真っ白な入道雲ではない。灰色のすこし黄色みがかかった不吉な色である。直観的に「危険である」と悟った。雨宿りしている木に雷が落ちてしまったら全員即死である。保母の静止もきかずあわてて走りだし、広場の草の上に横になった。ズボンを脱ぐとまらを急いで勃起させた。1メートル、2メートル……、このままでは間に合わない。もっと早く勃起を、着替えのときにこっそり触った保母のおっぱいのことを考えながら、必死に股間に意識を集中させた。5メートル、6メートル……まらの高さが木の高さを超えた、と思った瞬間、私のまらに轟音ととともに雷が落ちた。まらが避雷針になったのだ。みなが雨宿りしている木のほうを確認すると、園児たちは呆然した顔でわたしのまらを見つめている。私のまらが保育園を救ったのだ。

 雷に打たれてから、私のまらには不思議な変化が起きた。まらが独自の意識をもつようになったのだ。それは不思議な感覚だった。わたくしが意図しないタイミングで勃起するようになった。私のふりをして級友の園児と会話していることもあった。好みの異性をみつけると勝手に尻を追いかけて行ってしまい、気がつくとまらがいないということもあった。まるで股間に別個の人格がいるという感覚だろうか。勝手に動き回るので困らされることも多々あったが、それでも一緒に過ごす時間が長ければ心が通じ合ってくる。私とまらとが最高の親友になるのに時間はかからなかった。

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毛呂乃~わが半生~(2)

2015-10-11 15:29:33 | 毛呂乃~わが半生~

第2話 みみず千匹

 身体的な発達に比べて、言語面の発達はやや遅れぎみであった。これは単に、ちんぽの成長に栄養を優先的に使って、他の部分の成長は後回しになっただけのことなのだが、母上は「この子は知恵遅れではなかろうか」と心配なさったらしい。定期検診でも医者には「しばらく様子を見ましょう」としか言われず、不安は募るばかり。私が三歳の折、はじめて言葉を発したときには、安心して脱力したのか、その場に座り込んでしまったとのことだ。
 そのときに私が発した言葉は「まんまん」。母上はなぜかこれを「おなかが空いている」という意味に理解したらしい。食べたくもないのに果物などを与えられ、私がそれを食べるのをじっと見つめるので、非常に難儀したのを覚えている。
 どうやら私の言葉は伝わりにくいらしい。最近でも、まらずもうの結果報告を一本糞親方や玉椿理事に話すと、陳腐で卑小な勃起ぶりに伝わってしまう。まらずもうブログを読むたびに、「こんなみみっちい勃起はしていない。なぜ私の偉大な勃起を正確に伝えないのか」と腹立たしい思いをする。三つ子の魂百までというが、私の言葉が誤解されやすいのは幼児のころからのようだ。

 喋り出すのは遅かったものの、本を読めるようになったのは早かった。きっかけは父上の書斎で遊んでいたときのことである。本棚の裏にたくさんの写真集が隠してあるのに気がついた。裸の女性が様々なポーズをとっている写真である。若いとも美しいとも言いがたいような厚化粧の女性ばかりだったが、当時の私はそれを貪るように読んだ。
 今思い返してみると、父上はなかなかの裏本の目利きだったようだ。書斎にこっそり隠してあるものだけであるから、コレクションの冊数はたいしたことはないが、なかなか粒ぞろいの本が置いてあった。当時の私のお気に入りは『どじょう地獄』『みみず千匹』といった、女性と小動物とが戯れるモチーフのもの。私もこれに影響を受けて、みみずや毛虫やダンゴムシを集めたものである。集めた虫は、肛門で味見をするのが常であったが、毛虫はちくちくした刺激が癖になるかんじ。ダンゴムシは硬いばかりで面白味に欠ける。王道はやはりみみずであろう。柔らかい感触といい、腸内でうねうねうごく感覚といい、みみずは今でもときどき楽しんでいる。
 それまでやや成長が遅れぎみで、一日中畳にまらを擦り付けて遊んでいるような内向的な子どもが、急に外で元気に遊ぶようになって、母上は「うちの子が健康的になってくれた」と喜んだそうである。私自身も自分の身体が日々たくましくなるのを実感する毎日であった。

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毛呂乃~わが半生~(1)

2015-10-05 10:00:00 | 毛呂乃~わが半生~

第1話 大きなちんぽのおとこのこ

 栴檀は双葉より芳しというが、私は生まれたときから巨根であった。一般に赤ん坊というものは、胴体に比して頭が大きなものであるが、私のまらは頭よりもだいぶ大きかった。母上は難産でかなり苦しんだようである。

 私を取り上げた看護婦などは、亀頭を頭とを勘違いしたのか、医者に向かって「先生、この赤ちゃん、目も鼻もついていません。口しかありません」と叫んだそうである。なるほど、頭よりも大きなまらなど見たこともなかったのであれば無理もない。しかし、見せられた医者の方も「どれどれ、なるほど。これは珍しい赤ん坊だ。逆にちんぽのほうに顔がついている」と答えたそうであるから、ひどい病院もあったものである。

 退院後も母上はご苦労なさったらしい。私は他の子に比べて精通も早く、乳呑み子のうちから射精していたそうである。射精好きの私のことであるから、ひまさえあれば射精している。上の口で乳を与えたそばから、下の口からもミルクを吐き出してしまっては、当然のことながら体重が増えない。母乳だけでは栄養不足、粉ミルクを与えても足りない。最後には父上のちんぽをくわえさせていたらしい。父上のザーメンは幼少期の私の大好物であり、うまそうにちんぽを吸う私を見るたびに、母上は「母親としての自信がなくなる」とぼやいていたとのことである。

 それでも母上は一生懸命私を育ててくださった。這えば立て、立てば歩めの親心というが、親というものはありがたいものである。ある日、懸命にはいはいの練習に励んでいた私は、重大なことに気がついた。はいはいをしているとまらの先端が床に擦れて気持ちがいいのである。まだ人語は話せなかったが、私がはいはいをすれば、母上が喜んでくれるのはわかる。その上、まらが気持ちいい。私はその日からはいはいに夢中になった。私が這ったあとには、なめくじの跡のようにカウパーの跡ができた。僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる。私は誇らしい気持ちでいっぱいだった。

 しかし、まらが成長するにつれ、まらの先端が擦れるのが気持ちいいを通りこして痛いと感じられるようになってしまった。まらを床からすこし離そう、こするかこすらないかの微妙な距離がいちばん気持ちがいい。まらと床との適度な距離を探すうち、私は知らず知らずのうちに立って歩けるようになっていたのである。私がまらを引きずりながらよちよち歩いているのを見た母上は「この子はもう歩けるようになった」と非常に喜ばれたそうである。

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