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まらずもうこの一年~平成21年総括

2009-12-29 10:15:37 | まらずもう新聞編集部のまらずもう分析
まらずもうこの一年~平成21年総括

今年も残すところあとわずか。まらずもうのこの1年を振り返ってみたい。

【名古屋場所】 

ほしの山・前頭16枚目格付け出し
●●●●●●●●●●●●●●○ 1勝14敗

記念すべきまらずもう発足の場所。ほしの山はとりあえず幕内最下位ということでスタートするも連戦連敗。千秋楽負ければ全敗という状況まで追い込まれる。いっそのこと全敗した方が良かったとする声も挙がったが、最後の最後でようやく白星。この後今年は幕内力士が出なかったため、今年の幕内年間最多勝はほしの山の1勝。大相撲の年間最多勝・白鵬には惜しくも85勝及ばなかった。

【秋場所】  

ほしの山・西十両13
○●○●○○●○●○○●○○○ 10勝5敗

十両13枚目まで番付を下げたほしの山。前場所の成績から肉体的衰えを指摘されるも、考えた取り口でカバー。就寝前に水を大量に飲むと勝ちやすいことを発見し、初めての勝ち越し。千秋楽まで優勝争いに絡む活躍を見せ、まだまだ十両では格が違うところを見せつけた。

【九州場所】

ほしの山・西十両3
○●○●●●○○●○○○○●○ 9勝6敗
池男王子・東序の口31
●や●や○やや○●や○ややや● 3勝4敗

ほしの山は序盤苦しい立ち上がりも、アダルトビデオを観賞してから土俵入りなど、なりふり構わぬ相撲で勝ち越し、再入幕を決める。勝つには勝ったものの、苦情が殺到。
また、ついに新弟子として池男王子が入門。それまで文字通り、ほしの山のひとり相撲だったまらずもう、競技人口拡大の起爆剤となる。これをきっかけに来年初場所に向けて雲虎・玉太田・摩羅の川と続々と新弟子が入門。その池男王子、初日からの2連敗が響き、終盤の追い上げもむなしくまさかの負け越し。デビュー場所は勝ち越せないというジンクスは破れなかった。


【まらずもうの記録】

平成21年幕内年間最多勝:ほしの山(1勝)

連勝記録:4(ほしの山)
幕内在位記録:1場所(ほしの山)
連続勝ち越し記録:2場所(ほしの山)
連敗記録:14(ほしの山)


皆様の生温かい声援のお陰で、無事まらずもうを開催することができました。
どうかよいお年をお迎えください。
来年もまらずもうを何卒御贔屓のほどよろしくお願い申し上げます。
皆様のまら一本一本に、神意にかなったお告げが訪れますように。
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まらずもう物知り帳(11) まらずもうの横綱土俵入り

2009-12-28 08:31:25 | まらずもう物知り帳
【まらずもう物知り帳(11) まらずもうの横綱土俵入り】

 先日新弟子の雲虎を紹介しましたので、今回は横綱土俵入りについてお話します。まらずもうは現在横綱不在ですが(ちなみに、大関・関脇・小結の役力士もまだいません)、横綱が出た場合はまらずもうでも取組前に横綱土俵入りをすることになっています。大相撲でも雲龍型・不知火型といった型があるように、まらずもうの土俵入りにもいくつかの型があったようです。資料が少ないため、全ての型についてはっきりわかっているわけではないのですが、「雲虎型」についてはほぼ解明されています。

雲虎型の土俵入り

 まらずもうの横綱は、裸一貫、まらに綱を締めて土俵入りを行います。土俵中央で足を肩幅に開いて立ち、柏手を打つまでは大相撲と変わりありませんが、この先が大相撲とは違います。
 大相撲の雲竜型では、この後四股を踏んで腰をおろし、左手を胸に、右手を横やや前方に構えていわゆる「せり上がり」に入ります。せり上がりの意味については、下段の構え→中段の構え→上段の構えを連続して行う、とも言われています。
 これに対しまらずもうの雲虎型では四股を踏むことも腰を下ろすこともなく、立った姿勢のまま左手を胸に、右手を横やや前方に構えて「せり上がり」に入ります。まらずもうのせり上がりは大相撲とは違い、足の位置などは全く変化せず、「まら」だけが下段→中段→上段とせり上がるのです。綱を締めたまらがせり上がる土俵入りの姿は、それはそれは勇壮であったと伝えられています。
 近年、力士の「四股」が一般の方にもトレーニング効果があるとして注目されていますが、まらずもうの土俵入りの所作もまらのトレーニングには有効だと報告されています。皆さんもまらの健康管理のために、土俵入りを取り入れてみてはいかがでしょうか。


  ○●○●○新弟子まだまだ募集中!!○●○●○

入門希望の方、1月9日まで初場所デビューに間に合います!!
入門希望、お問い合わせは日本まらずもう協会事務局

       ohnomatsu@mail.goo.ne.jp
まで。
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新弟子情報(雲虎)

2009-12-27 05:44:00 | 力士情報
 きょうは、現役最強との呼び声も高い雲虎関を紹介します。 
 
・しこ名:雲虎垂之助(うんこ・たれのすけ)
・生年月日:1977年3月23日
・出身地:埼玉県坂戸市
・好きなもの:焼酎、うんこ
・趣味:ドラム、剣道、うんこ
・コメント おれが出場したら、いきなり優勝しちゃうかもよ?
___________

 初場所初土俵組最後の大物。堂々の幕内付け出しデビューの新弟子は、勧誘してきたほしの山に対して「出てやってもいいけど、全勝しちゃうよ?」と言い放つほどの豪胆。早くも初場所を前にして「ほしの山を上回る成績を挙げる」と宣言している。四股名は「雲虎」。伝説の大名跡である。大相撲の土俵入りに「雲龍型」の名を残す10代横綱・雲龍。「龍虎相搏つ」の言葉通り、大相撲の横綱名、「雲龍」の向こうを張る四股名が「雲虎」。いわばまらずもうの横綱名である。横綱昇進を果たし、雲虎型の土俵入りが披露できるか注目である。
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初場所番付発表

2009-12-21 16:47:54 | 協会からのおしらせ
平成22年まらずもう初場所・新番付速報

初場所の新番付が発表されました。


△前頭 西14枚目  ほしの山【ほしのやま】(山形)
☆前頭16枚目格付出 雲虎【うんこ】(埼玉)
☆幕下15枚目格付出 玉太田【たまおおた】(神奈川)
△序の口 東16枚目 池男王子【いけめんおうじ】(北海道)
☆序の口 東29枚目 摩羅の川【まらのかわ】(沖縄)

(☆:新弟子△:番付上昇▼:番付下降)

新年にふさわしく、全員が自己最高位というおめでたい番付となりました。
ほしの山は今場所も番付運のよさを発揮して再入幕、下に2枚残して西14枚目。池男王子は先場所の31枚目から15枚上がり、東16枚目。
新弟子組では、摩羅の川が序の口最下位から、玉太田が幕下15枚目格付け出し、そして最後の大物、雲虎が幕内最下位格付け出しでデビューします。このブログでまだお伝えしていなかった雲虎については、いずれ特集を組んで紹介する予定です。

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平成22年初場所番付表

2009-12-21 14:34:33 | 番付表
備考:序ノ口西29 神奈川 汚痔の山菊介 場所中途中参加
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まらずもう物知り帳(10)まらずもう精神とは(下)

2009-12-21 08:36:40 | まらずもう物知り帳
【まらずもう物知り帳(10) まらずもう精神とは(下)】

 何かと非難の多いほしの山。その非難をもっとも集めたのが今回ご紹介する取組です。

ケース3・就寝前のアダルトビデオ観賞

 11日目を終えて6勝5敗となり、勝ち越しと再入幕がちらついたほしの山は、あろうことか就寝前にアダルトビデオを30分観賞してから土俵入り、という挙に出ました。それも2晩続けてです。そのおかげで2連勝、勝ち越しを決めたのですが、これにはさすがに苦情が殺到しました。
「見苦しい」
「そこまでやるか」
など。もちろんルール上問題はないのですが、このような姿勢はまらずもうの神様に対する冒涜ではないか、神のお告げを操作するようなことをしていいのか、という批判が噴出したのです。
 大相撲の力士も、立ち合いの変化からの叩き込みであっさり勝ちを収めると、非難を浴びることがあります。その際、変化して勝った力士は、仮に最初から作戦として変化を決めていた場合でも、きまり悪さからか、「最初から考えていたわけではない。相手が低かったこともあり、とっさにやってしまった」などとコメントすることが多いようです。それに対しほしの山は、この相撲について「前々からここ一番ではやろうと思っていた」とあっさりと認め、さらに反感を買ったのでした。ただ、見方によれば、やってしまった以上は言い訳をせず、「やろうと思っていた」とまで認める方が潔い、という見方もあるでしょう。この点は意見の分かれるところですが、あくまで「やってしまった以上は」という状況の下で、意見が分かれるということであって、やらないにこしたことはないことは言うまでもありません。
 ただ、このようなほしの山の変化技に対しても、
「なりふりかまわず懸命に白星をもぎ取りに行く姿に感動した。ほめ言葉として『そこまでやるか』と思った」
という声も寄せられました。確かに、スポーツとしてみれば、そのような見方もできるでしょう。まらずもうは、決して協会や力士のためだけに存在するわけではありません。勝敗の判定まで力士にゆだねられるというまらずもうは、その力士に関する評価ももろんファンの皆様一人一人にお任せします。力士たちは伝統的に「まらずもう精神」を追求していますが、「まらずもう精神」も時代とともに変化していくものでしょうし、協会も一つの見方を強制するつもりはありません。力士がまらずもう精神を練磨するのはもちろんですが、ファンの皆様も、その時代に応じた「まらずもう精神」とは何かを形作っていくことになるのです。

 3回にわたって、「まらずもう精神とは」というテーマでお話してきましたが、「そもそもまらずもう精神とはこういうものである」という結論は、簡単に出せるようなものではないのです。まらずもう精神について説明したのではなく、まらずもう精神とは何かを考えるきっかけとなる事例を紹介した、ということだとご理解いただければ幸いです。
 勝敗まで力士自身にゆだねられているまらずもうでは、様々な局面で精神性を試される機会が訪れ、そこで力士たちは自身のまらずもう精神を磨いていくのです。このようにまらずもうは、精神修養の場としても、非常に効果的な競技です。
 また近年では、相撲を始めようとする子供たちが、廻し姿を恥ずかしがってしまって二の足を踏む、ということもあるようですが、まらずもうでも、現代人は取組結果をネットに公開することを恥ずかしがる、という傾向があり、それがまらずもう人口の増加を妨げているようです。しかし「恥を恥とも思わない強靭な精神力」、あるいは「自らの恥をあえてさらそうとするサービス精神」こそが、息詰まるような日常を送る現代人の生活に風穴をあけるものではないでしょうか。精神修養の場としても、ぜひともまらずもうを活用してみてはいかがでしょうか。


   ○●○●○新弟子募集中!!○●○●○

入門希望、お問い合わせは日本まらずもう協会事務局

      ohnomatsu@mail.goo.ne.jp
まで。

    ●○●○本日番付発表!!○●○●

本日夕方、当ブログにて速報予定!!
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まらずもうの歴史(6)

2009-12-20 10:09:39 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(6) 奈良の大仏とまらずもう

 まらずもう政治の中枢にあった藤原四兄弟が、丹(=硫化水銀が主成分の強精剤)の過剰摂取でたてつづけに死んでしまったことに、国内は大きな衝撃をうけました。まらずもう界のリーダーが不在になったことで飢饉・大地震・有力豪族の反乱などが相次いで起こりはじめました。
 当時皇位にあった聖武天皇は全国からまらずもう力士を集めて相撲節会を開催したことでもわかるように、まらずもうにたいへん理解と愛情のあった天皇として有名ですが、藤原四兄弟の死に直面してからは「いままでの政治はまらずもうだけに頼りすぎていた。きちんと『古事記』を読みなおせばわかるが『まら』と『ほと』とはくみあわさって力を発揮するものだ。この国難に立ち向かうには『ほと=ほとけ』の力を借りて、まらずもう政治を立て直す必要がある」と考え、「巨大なまらをもつほとけ」=「大仏」をつくることを決めました。

 
・宇佐八幡宮と大仏
 実際に大仏をつくるためには数多くの労働者・材料などが必要でした。労働力のほうは天皇の権威とまらずもう僧・行基の人気を利用してなんとか集めることができたのですが、材料のほうはなかなか集まらず、とくに大仏の表面にめっきするための金が足りません。「金がないと大仏がつくれない」と困っていたところ、九州の宇佐八幡宮から「東北地方で金がとれるよ」とのおつげが下りました。
 調べてみたところ、実際に金鉱が発見され、そこで採掘された金を使って大仏にめっきをすることができました。この功績によって宇佐八幡は天皇家や仏教界・まらずもう界などへの強い影響力をもつようになりました。


・開眼供養
 数多くの問題もクリアして大仏の完成が見えてきたころ、聖武天皇は年号を天平から天平勝宝に改めました。これは『勝宝=まらずもうに勝つ』という願いをこめた改元だったとされています。同時に「まらではなく、ほとをもつ者こそが新しい時代の天皇にふさわしい」と皇位を娘にゆずり、女帝の孝謙天皇が即位しました。孝謙天皇はあたらしい時代の天皇にふさわしく、「ほと」が巨大だったと言われています。(ちなみに、この孝謙天皇は、史上最高のまらずもう力士・弓削道鏡を重用したことでも有名です。孝謙天皇と道鏡の話は次回にきちんとやります)

 天平勝宝4年4月9日早朝、東大寺において大仏開眼供養会がとりおこなわれました。インドからよばれた高僧が開眼導師として儀式の指導にあたり、その参列者は1万人以上だったと言います。大仏のまらに結びつけられた一本の長い紐が、下半身を露出させた聖武上皇をはじめとする参列者全員のまらに順番に結びつけられ、全員で心をあわせてまらずもうを行うことで大仏と結縁する、という儀式だったようです。朝日に反射して輝く黄金の大仏と、紫色の紐に結びつけられた一万人のまら。この様子を『続日本紀』には「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」(日本に仏教が伝来して以来、これほど盛大な儀式はなかった)と記されています。これが日本の歴史上、まらずもうが最も輝いていた時代を象徴するシーンだったかもしれません。 



・その後の大仏
 つくられた当初、大仏には巨大なまらがついていたといいます。しかし、現在の奈良の大仏にはまらはありません。それは、完成から約400年後、源平合戦のときに平重衡が大仏殿に火をかけ、そのときに焼失してしまったからです。鎌倉時代に重源らの勧進によって大仏は再建されたものの、当時の社会情勢はまらずもうに対しては『過去の遺物』としてたいへんに厳しいもので、そのため巨大なまらは作りなおされることはありませんでした。
 また、戦国時代にも戦火で焼失しており、現在の大仏と大仏殿は江戸時代に再建されたものです。 


・奈良の大仏の特徴
 では、大仏のお姿をよく見てみましょう。焼失と再建を繰り返したことで、つくられた当時の姿とは変わってしまったものの、現在でもわずかにまらずもうの影響を見ることができます。
(1) 大仏が立像ではなく座像なのは、朝布団からでて、まらの状態を確認した情景を表現しています。
(2) 大仏の目が半眼になっているのは、朝起きたばかりの寝ぼけまなこを表現しています。
(3) 頭に肉髻とよばれるふくらみが見られますが、これは鎌倉時代の修理のときに大仏からまらがなくなるのを悲しんだ仏師が、まらの象徴としてつけたしたものだと言われています。
(4) 手の指のあいだに水かきがふいているのは、多くの衆生を救うためにまらを少しでも大きくしようと、まらをおこすりなさったときにできたと言われています。
(5) 右手を上、左手を下にした構えは、この時代に相撲節会がはじまっていることから、相撲の横綱土俵入の影響だとされています。後世の研究者のあいだでは、まらずもうと大相撲の関係を裏付ける有力な証拠とされています。


 ・・・ちなみに、睾丸のことを俗に「金玉」といいますが、これは奈良の大仏のまらが美しい金色に輝いていたことからきたと言われています。では、きょうのお話はここまで。次回はまらずもう史上最強の力士・弓削道鏡についてお話しようと思います。おたのしみに。
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まらずもう物知り帳(9) まらずもう精神とは(中)

2009-12-19 09:05:18 | まらずもう物知り帳
【まらずもう物知り帳(9) まらずもう精神とは(中)】

 前回に引き続き、先場所(平成21年九州場所)のほしの山の取組から、まらずもう精神を検証していきましょう。

ケース2・取り直しの相撲

 九州場所3日目、ほしの山は取り直しの相撲の末、勝ちを拾いました。
取り直しの経緯は、以下の通りです。
「夜中2時ころ、いちど目がさめたときには、負けでした。「こりゃいかん」ともういちど寝て、6時ころに目がさめたら、すこしふくらんでいました。まあまあな角度もついていたし、いちおう勝ち・・・かな。」
 この取り直しの一番は、当時議論を呼びました。
「これが許されるなら、勝つまで寝直せばよくなっちゃうじゃないか」
「いやいや、夜中目が覚めた後すぐ寝て、朝6時に起きたというのは常識の範囲内じゃないか」
「しかし、どこまでが許されるのか、明確な規定を定めるべきではないか」
などなど。
 これは協会の検討課題ではあるのですが、現状では各力士の意思を尊重し、「まらずもう精神にのっとって判断するように」としか言いようがありません。ルールを設けざるをえなくなるまでは、極力まらずもう精神に期待しよう、というのが協会の考えです。時代とともに、ルール化しないと仕方がなくなる部分と言うのは確かにあるでしょう。例えば大相撲でも、かつては土俵上の「仕切り線」は存在せず、どの位置で仕切るかは各力士の意識にゆだねられていました。それが、かなり相手側にせり出して有利に仕切ろうとした力士が出たため、現在のような仕切り線ができたそうです。その結果、近年ではこの仕切り線を悪用して、相手が仕切り線より前に出られないのをいいことに、仕切り線からかなり下がって加速をつける力士が現れ・・・というような事態が生じています。本来の精神性に支えられていた部分が変化・劣化すると、ルールで抑え込まざるを得なくなり、その頃の精神性ではさらにそのルールを逆手に取って・・・という悪循環が生まれます。協会としても、そのような事態にならないよう、「まらずもう精神」でまるくおさめられるままのまらずもうでありたいと、願っているのですが・・・。
 せめてもの救いは、ほしの山の取り直しは、「朝普通に起きて、負けていたのだが、たまたま昼寝したら立ち合いがうまくいったから今日は勝ち」などというものではなかった、ということです。
(つづく)


   ○●○●○新弟子募集中!!○●○●○

入門希望、お問い合わせは日本まらずもう協会事務局

      ohnomatsu@mail.goo.ne.jp
まで。

   ○●○●初場所番付発表迫る!!●○●○

       番付発表は12月21日(月)
        当日夜公開予定

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まらずもう物知り帳(8) まらずもう精神とは(上)

2009-12-18 09:34:05 | まらずもう物知り帳
【まらずもう物知り帳(8) まらずもう精神とは(上)】

 まらずもうは、ただのスポーツではなく、神事に端を発しており、勝敗という結果と同時に精神性を重んずる武道でもあります。ですから、以前もお話ししたように、「自ら負けを認める潔さ」が求められ、その精神を尊ぶからこそ、勝負判定まで自分自身が行うのです。
 大相撲でも、ルール上反則ではないからと言って、立ち合いに変化して叩き込んだり、「待った」を繰り返したり(まあこれは厳密にはルール上から反則ですが)する力士は、ファンから非難されます。相撲は「ただ勝てばいい」という「スポーツ」ではないからです。同じことがまらずもうにも言えます。以前お話したことからわかるとおり、もし仮にまらずもうが「ただ勝てばいい」という「スポーツ」であれば、負け相撲でも構わず、毎日「勝ち」とうそをつき通せばそれだけで全勝優勝できます。ですが、それではファンの支持を得られません。武道で重んじられる、「潔さ」、「正々堂々」の精神がまらずもうにも必要で、しかも、すべてが自己責任、という競技であればこそ、その精神を試される機会は頻繁に訪れるのです。今回から3回にわたって、先場所(平成21年九州場所)の十両ほしの山の取組を例に、まらずもう精神とは何かを考えてみましょう。

ケース1・きわどい相撲
 
 ほしの山は元来豪快な勝ちっぷりからは遠く、きわどい相撲を拾っていくタイプの力士であるため、判定が厳しければ「負け」になりかねない相撲もよくあります。ですが、ほしの山は自分への甘さから、「十両だし、このくらいなら勝ちでいいだろうよ」と、勝ちにすることが多く見られます。これがほしの山がファンから非難される理由の一つですが、ここで見落としてはいけないのは「十両だし」という部分です。この言葉の裏側には、「幕内でこの立ち方だったら負け」という意識が潜んでいます。大相撲であれば、序の口から幕内まで、番付が上がるにつれて対戦相手が強くなっていきますが、対戦相手もいない一人の闘いであるまらずもうでは、序の口の1番も、幕内の1番も、勝ちやすさに差は出ません。そこで、勝敗の判定まで自身にゆだねられている力士は、まらずもう精神にのっとり、自身の階級にふさわしいと思われる判定を下すのです。もちろん、「十両ならここのくらいで勝ち、ここからは負け」という明確な規定はありません。規定を作ってわかりやすく、公平にするのは簡単なことですが、時には自ら負けを認めるというまらずもう精神を尊重する競技においては、そのような規定を作るのはかえってふさわしくないと考えられているからです。
(つづく)


  ○●○●○新弟子募集中!!○●○●○

入門希望、お問い合わせは日本まらずもう協会事務局

    ohnomatsu@mail.goo.ne.jp
まで。

  ○●○●初場所番付発表迫る!!●○●○

     番付発表は12月21日(月)
      当日夜公開予定
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まらずもうの歴史(5)

2009-12-17 09:45:59 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(5) 奈良時代~まらずもうの黄金時代~


 今回は天武天皇の子孫たちが皇位についていたいわゆる天武朝の時代(ほぼ奈良時代前半にあたる)のまらずもうをめぐる状況を見ていきたいと思います。天武天皇の子孫は、なぜか血統的にまらの弱い者が多く、女帝であったり、男子であってもまともにこどもがつくれない体質ものが多かったりして、直接まらずもうに関われない天皇が続きました。しかしそのことが、貴族や下級官僚などのあいだに「自分たちこそがまらずもうの担い手である」との意識を芽生えさせ、まらずもう人口が爆発的に増大し、政治・文化・宗教などあらゆる分野にまらずもうが浸透していくことにつながりました。また、行基や役小角といったまらずもう僧の布教活動によって、貴族や中央官僚だけでなく、庶民のあいだにもまらずもうが広まりだしたのも、このころからだと言われています。



・藤原不比等
 不比等の父の鎌足は天智天皇の腹心であったため、その子である不比等は本来ならば、壬申の乱のときに処罰されていても不思議ではなかったのですが、不比等(=ほかに比べることができるものがいないほど巨大なまら)という名が示すようなみごとな「まら」をを持っていたために許され、のちに文武天皇の補佐役としてまらずもう政治にたずさわりました。
 不比等がまずとりくんだのは、まらずもうのルールの整備です。ざんねんながら現存していないので正確な内容は伝わっていませんが、取組時のルールだけでなく、まらずもう組織のありかたや、番付の決め方、新弟子の勧誘方法、力士(引退後も含む)の待遇など、まらずもうに関するすべてのルールが統一的に網羅されたものだったと言われています。聖徳太子以来つづいていたまらずもうルールの整備作業がここで完成され、そのルールブックの名前は不比等の巨大なまらにちなんで『大宝律令』と名付けられました。


・平城遷都
 文武天皇の死後、ふさわしい後継者が見つからなかったために、母親の元明天皇が皇位につき、その即位をきっかけに遷都を行われました。その際に「都にする土地は地形が女性器に似ている地点がよい」という風水の考え方がまらずもうにも合致したため、東・西・北が山に囲まれ、南側が開けており、女性器に近い地形だと判断された奈良盆地が都に選ばれました。この「女性器に似ている地形」というのは予想以上にまらずもうにも好都合だったようで、それまでは天皇が交替するたびに遷都をする風習だったのですが、この平城京は100年ちかくの長期にわたって(ただし、一時的に遷都されたこともあります)、都として使用されました。

 奈良時代に編纂された『万葉集』には、平城京をたたえる歌として、

   あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

 という歌が載っています。教科書的には『あをによし』の「に(=丹)」とは朱色の塗料に使われた硫化水銀のことで「青色の瓦屋根・朱色の柱がならんでいる美しい奈良の都は・・・」という意味だとされていますが、それはまらずもうを知らない国文学者の誤った解釈です。「丹」は古くから塗料というよりは漢方薬として利用するのが一般的であり、まらずもう界では強精薬としてまらを大きくするのに非常に効果があるとされていました。したがって「品質のよい強精薬のとれる奈良の都は(栗の)花のようなにおいでむせかえるほど、みんなさかりがついてまらを大きくしている」と解釈するのが自然です。
 この歌からもわかるように、平城京では年齢や身分に関係なく男性はみなまらずもうにとりくんでおり、まさに「まらずもう黄金時代」とよぶにふさわしい状況を迎えました。


・藤原四兄弟
 藤原不比等の死後しばらくは、皇族でいちばん長大なまらをもっていた長屋王が政権を握っていたのですが、その長屋王をまらずもう呪術で失脚に追い込んだのが、不比等の四人の息子たちでした。四人はそれぞれ「まら」にちなんだ名前をもっています。(ちなみに当時は、人名に「麻呂」がつくことが多いのですが、この当時は「まら」を「まろ」と発音していたためだとされています。)

  武智麻呂(むちまろ)・・・詳細は不明だが「むちむちのまら」とも「むちのようなまら」とも。一説には「笞プレイ」を好んだとも言われている。
  房前(ふささき)・・・「前のほうに房がたれさがっている」の意
  宇合(うまかい)・・・「股間にうまのようなものをかっている」の意。
  麻呂(まろ)・・・そのものずばり「まら」。
 
 しかし、四人は丹(=硫化水銀を主原料とする強精薬)の過剰摂取のため、政権について10年ほどで全員死んでしまいました。この影響で、藤原氏は「まらずもうは危険である」とまらずもう界と距離を置くようになったと言われています。


 ・・・この藤原四兄弟のあいつぐ死に衝撃を受けた聖武天皇が、奈良の大仏をつくることを思い立つのですが、次回はそのお話をしようかと思います。お題は「奈良の大仏とまらずもう」。では、きょうはこのへんで。
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まらずもう物知り帳(7) まらずもうの番付編成

2009-12-16 08:05:43 | まらずもう物知り帳
【まらずもう物知り帳(7) まらずもうの番付編成】

 平成22年まらずもう初場所の番付発表が近ヅいてきました。番付発表は大相撲と同日、12月21日(月)です。そこで今回は、まらずもうの番付編成についてお話します。
 現在、まらずもうの番付は、大相撲の番付を参考に編成されています。ゆくゆくはまらずもう独自の番付を編成しようと考えていますが、現状ではいかんせん人数が足りな過ぎです。九州場所を例にとれば、所属力士は「ほしの山」「池男王子」の2人だけで、上から順に番付を組んだら、それは悲惨な番付になります。(下図参照)



 東       西
ほしの山 横綱 池男王子

(以上)




これではあんまりです。
そこで、まらずもうでは、デビューした場所の地位から、大相撲の本場所の結果を参考に番付を組む、という措置をとっています。簡単に説明すると、大相撲の幕内・十両の番付は、
(勝ち星)-(負け星)
の枚数分上下するのを原則とします。(たとえば、9勝6敗なら「9-6=3」で、3枚上昇、5勝10敗なら「5-10=-5」で、5枚降下します。)ただし、これはあくまで「原則」であって、他の力士との兼ね合いでさらに増減はあります。(そこから「番付運」というものが生じます。)
 ほしの山の場合、名古屋場所前頭16枚目扱いでデビューし1勝14敗、番付13枚降下で翌・秋場所は十両に落ち、十両13枚目になりました。ここでほしの山は10勝を挙げたのですが、ちょうど大相撲で十両13枚目だった豊桜が10勝5敗と同成績だったため、豊桜の番付と同地位にすることが決定され、九州場所は豊桜が十両3枚目だったため(原則上5枚上がるところを10枚上がったのですからこれはかなりの幸運です)、ほしの山も十両3枚目に確定しました。現在、まらずもうの番付はこのように大相撲の番付を参考に編成されています。次回初場所の番付に関しては、ほしの山の地位は大相撲で入幕が予想される

北太樹より下、白馬と同じかやや上

というのが目安で、池男王子は

序の口の廣瀬よりやや下

というのが目安です。番付発表当日、当ブログでも速報をお伝えする予定ですが、番付編成制度上、大相撲の番付発表を待たねばならないため、若干のタイムラグが生じることが予想されます。(当日夜、発表予定です。)そこで、「ほしの山の番付は?」「池男王子の番付は?」と一刻も早く知りたい、という方は、まずは上記の目安を参考に、大相撲の新番付をごらんになるとよいでしょう。
大相撲・まらずもうとも、新番付の発表は12月21日です。お楽しみに!


  ○●○●○新弟子募集中!!○●○●○

入門希望、お問い合わせは日本まらずもう協会事務局

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まらずもう物知り帳(6) 初土俵の地位・選択の手引き

2009-12-15 14:46:51 | まらずもう物知り帳
【まらずもう物知り帳(6) 初土俵の地位・選択の手引き】

 飽きもせず当ブログを御覧になっている読者の皆様は、そろそろ入門に気持ちが傾いてきていることと思います。前回お話しした通り、まらずもうは3つの階級からデビューできるため、どれを選べばいいのか迷っている頃ではないでしょうか?そこで今回は、それぞれの階級でデビューするメリット・デメリットを紹介したいと思います。
 まず、大きく違うのが幕内とそれ以外です。
 両者の最大の違いは1場所にとる番数で、幕内なら15日間連続、幕下・序の口なら15日のうち7番とればいいのです。
 15日連続でまらずもうをとる覚悟がある力士だけが、幕内付け出しを許されます。
 幕内でスタートすれば、最初から番付最高位になれますが、その分出世していく醍醐味は味わえないことになります。一方、序の口・幕下付け出しはまずは15日中7番でいいので、15日はちょっと・・・という方にはこちらがお勧めです。
 序の口デビューなら、番付を駆け上がる楽しみが最も味わえますが、出世には時間がかかり、全勝優勝を繰り返しても十両昇進まで最短で5場所かかります。一方、幕下付け出しなら全勝優勝すれば1場所で十両入りが可能です。
 また、序の口で入門してその場所全休すると番付から消えてしまいますが、幕下15枚目格でデビューすれば、全休を繰り返しても7場所程度は番付に残りますので、とりあえず入門して、気が向いてから取ろう、という方にもお勧めです。番付に名が残るというのは、番付が埋まらないという悩みを抱える協会としては大変ありがたいことです。「番付に名前載せてもいいけど、実際とるかどうかわからない」という心やさしい方は、ぜひ幕下付け出しデビューを。

<幕内最下位>
・最初から最高位でまらずもうが取れる。
・15日連続で取らなければならない。
・出世する楽しみの大部分は省いているので、この際横綱・大関でも目指すくらいしか励みがない。

<幕下15枚目格付け出し>
・1場所7番とればいい。
・実力次第でスピード出世が可能。(→うっかりするとすぐに15番取ることになるのでそれなりの心構えが必要)
・とりあえず入門しておけば、しばらく番付に残れる。

<序の口>
・1場所7番取ればいい。
・好成績をあげても、出世にはそれなりの時間がかかる。(→しばらくの間は7番で済むともいえる)
・番付を上げる達成感を最も味わえる。


  ○●○●○新弟子募集中!!○●○●○

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まらずもう物知り帳(5) 新弟子の番付

2009-12-14 08:24:01 | まらずもう物知り帳
【まらずもう物知り帳(5) 新弟子の番付】

 再三にわたってお伝えしていますが、日本まらずもう協会では新弟子を切実に募集しています。
 昨日、元学生横綱・玉太田の幕下付け出しが発表され、ますます活気づくまらずもう界ではありますが、まだまだこのままの人数では、正直さまになる番付が書けません。
 そこで今回は、新弟子になったときの番付面での待遇などを説明しましょう。
 まらずもうの新弟子は、現在、次の3つのうち1つを自由に選択してデビューすることができます。
 ・幕内最下位
 ・幕下15枚目格
 ・序の口
現代の大相撲では幕内からスタートすることはあり得ませんし、幕下付け出しを認められるには、学生横綱やアマ横綱、国体優勝などの実績が必要ですが、まらずもうではそのような規定は一切なく、自分の希望だけで幕下付け出しも、幕内付け出しも可能です。今回幕下付け出しとなった玉太田は、たまたま自称元学生横綱ですが、何の実績もなくても、まらずもうでは幕下付け出しが認められます。これは、勝敗までも自分で判断するというまらずもうの精神から、自分のデビュー時の実力も自己の判断を尊重しようという姿勢の表れなのです。
 ただし、幕内からのデビューを認めているのは、本音を言えば現在のまらずもう界の人手不足によるもので、幕内力士が42人に達した時点で、幕内付け出しは打ち切る予定です。ですから、幕内からスタートしたいという方は今がチャンスです。入門はお早めに。
 また、序の口からデビューする場合、大相撲では、まずは初土俵では番付に載らない「前相撲」という相撲を取り、そこでの成績をもとに次の場所からようやく序の口として番付に載る、という手続きを踏みますが、まらずもうでは前相撲は存在せず、入門直後から序の口としてデビューできます。
 「相撲部屋はあるの?」という質問もいただきますが、自己申告・自己責任を美徳とする孤独な闘い・まらずもうにおいては、相撲部屋制度はとっていません。誰かの弟子になる必要もありません。いつも通りの生活のまま、力士になることができるのがまらずもうの魅力です。まらずもうは各人の自由を尊重する競技ですから、部屋制度や徒弟制度を「禁止」しているわけでももちろんありません。義務化していないだけです。ですから自己責任において、「この人こそがまらずもうの師匠だ」と誰かを崇め、個人的に弟子入りすることもこれまた自由ですし、「引退後は部屋を開いて力士を育てたい」というのであれば、それもまた自由です。

  ○●○●○新弟子募集中!!○●○●○

入門希望、お問い合わせは日本まらずもう協会事務局

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新弟子情報(玉太田)

2009-12-13 14:27:49 | 力士情報
・しこ名:玉太田 貴(たまおおた・たかし)
・生年月日:1981年3月2日
・出身地:神奈川県横浜市
・好きな食べもの:ビール
・趣味:フットサル

_______________
 
 まらずもう界の名門・神奈川大学卒で、大学時代は学生まらずもう界のトップスターとして鳴らし、アマチュア時代の実績を買われて幕下15枚目格に付け出された。かれの素質に期待をよせる好角家からは、この男に『葱錦』の大名跡を継がせてみたい、との声もあがっていたが、一部からは時期尚早との声もあり「玉太田」という名前でのデビューとなった。

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まらずもうの歴史(4)

2009-12-13 14:18:00 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(4) 大化の改新とまらずもう

 聖徳太子が亡くなったあとしばらくは、蘇我氏がひきつづき推古天皇や仏教勢力と協力しながらまらずもう政治を行っていました。しかし、推古天皇が崩御して、男性の舒明天皇が即位したあとも、そのまま蘇我氏が政治の実権を握りつづけたことに皇族たちが不満をもちはじめ、舒明天皇のあと「やはり天皇は男性よりも女性のほうが蘇我氏にとっては都合がいい」と女性の皇極天皇を即位させたときに皇族たちの不満はピークに達しました。

 642年の7月、日照りがつづいたため、蘇我蝦夷はまらずもうで雨乞いをしました。翌日に雨がわずかに降ったものの、水不足は解消されませんでした。これを好機と見た中大兄皇子・軽皇子といった皇族たちがまらずもう雨乞いを行ったところ、たちまち雷雨となりそのまま5日間にわたって雨が降りつづけ、水不足は解消されました。この対決結果を見た宮廷の群臣たちは蘇我氏の独裁体制に疑問をもつようになりました。
 ちなみに、この対決結果には、神祇官としてまらずもうのサポートを行っていた中臣鎌足が、その立場を利用して蘇我蝦夷のまらずもうを妨害していたのではないか、との説があります。それまで無名の中級官僚だった鎌足が大化の改新後に大抜擢されたのも、この説を裏付けています。

 645年6月、中大兄皇子と中臣鎌足は機は熟したと判断し、宮廷内で蘇我入鹿を暗殺しました。このニュースをきいた蘇我蝦夷は自殺し、このクーデターによって蘇我氏は政治的な力を大きく削がれました。このとき、中大兄皇子はみずからは皇位につかず、鎌足の協力のもと、皇太子としてまらずもうの実権をにぎりました。
 
 中大兄皇子、中臣鎌足のまらずもうに関わる功績としては
(1)年号を制定した
 日本史上初の年号として「大化」と制定しました。この年号には「まらが大きく化けるように」との願いがこめられてます。
(2)まらのおつげによって、なんども遷都をした
 中大兄皇子のまらは、サイズこそ巨大だったものの、まらの方向は一定せず、そのためにかれが政権の中心にあった時代はなんども遷都を繰り返しました。そのことが結果的には奈良盆地に本拠地を置く豪族たちの政治的な力を削ぐことにつながり、天皇に権力を集中することが可能になったと言われています。

 中大兄皇子は政権の末期になると、天智天皇として即位し、腹心の中臣鎌足にも「藤原」の姓を与えてまらずもうをとる資格を授けました。ただし、鎌足は「藤原」姓をもらったときにはすでに高齢であり、実際にまらずもうをとることは不可能であったと言われています。
 
 
 さいごに、百人一首の第一番にもえらばれている天智天皇の御製として有名な歌についても触れておきましょう。

   秋の田の刈穂の庵のとまをあらみわが衣手は露ににれつつ

 この歌は百人一首にも入っている有名な歌ですが、天皇が秋のボロ屋で露に濡れるようなことがあるのか? ということが旧来から疑問視されており、天皇が農民の気持ちになって詠んだ歌だ、などという無理な解釈がされていますが、まらずもう協会の研究では違う解釈をします。
 この「とまをあらみ」の部分は、並べ間違えて伝えられたもので「とまらをあみ」が正しいのではないかというのが協会での見解です。つまり、伝えられていくうちに「ら」の字が二文字後退してしまったのです。万葉集には「ミ語法」と呼ばれる語法があり、「速し」「無し」などの形容詞の語尾を「み」に変えて(例「速み」「無み」)、「~を~み」という形にすると、「~が~なので」という意味になります。大相撲で「片男波部屋」という部屋がありますが、この「片男波」ももとは万葉歌の「潟を無み」からとられていて、「(鳥がとまるような)干潟がないので」という意味です。さて、「とまらをあみ」の解釈に戻りましょう。この「あみ」は「悪(あ)し」のミ語法、「まらをあみ」は「まらが悪いので」という意味になります。「秋の田の刈穂の庵」は当時の流行歌で、全体の解釈は「『秋の田の刈穂の庵の~』と、(ごきげんで歌いながらまらずもうをとっていたが、)まらが悪いので私の衣手は露に濡れてしまったよ」となります。ここにも、まらの方向性が定まらず遷都を繰り返した、思うに任せぬまらの様子がありありと描かれていますが、後世の人たちがその事実を隠ぺいするために順序を入れ替え、「とまをあらみ」(苫(とま、ボロ屋の屋根の材料)の目が粗いので)と歪曲したようです。
 
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