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まらずもう物知り帳(8) まらずもう精神とは(上)

2009-12-18 09:34:05 | まらずもう物知り帳
【まらずもう物知り帳(8) まらずもう精神とは(上)】

 まらずもうは、ただのスポーツではなく、神事に端を発しており、勝敗という結果と同時に精神性を重んずる武道でもあります。ですから、以前もお話ししたように、「自ら負けを認める潔さ」が求められ、その精神を尊ぶからこそ、勝負判定まで自分自身が行うのです。
 大相撲でも、ルール上反則ではないからと言って、立ち合いに変化して叩き込んだり、「待った」を繰り返したり(まあこれは厳密にはルール上から反則ですが)する力士は、ファンから非難されます。相撲は「ただ勝てばいい」という「スポーツ」ではないからです。同じことがまらずもうにも言えます。以前お話したことからわかるとおり、もし仮にまらずもうが「ただ勝てばいい」という「スポーツ」であれば、負け相撲でも構わず、毎日「勝ち」とうそをつき通せばそれだけで全勝優勝できます。ですが、それではファンの支持を得られません。武道で重んじられる、「潔さ」、「正々堂々」の精神がまらずもうにも必要で、しかも、すべてが自己責任、という競技であればこそ、その精神を試される機会は頻繁に訪れるのです。今回から3回にわたって、先場所(平成21年九州場所)の十両ほしの山の取組を例に、まらずもう精神とは何かを考えてみましょう。

ケース1・きわどい相撲
 
 ほしの山は元来豪快な勝ちっぷりからは遠く、きわどい相撲を拾っていくタイプの力士であるため、判定が厳しければ「負け」になりかねない相撲もよくあります。ですが、ほしの山は自分への甘さから、「十両だし、このくらいなら勝ちでいいだろうよ」と、勝ちにすることが多く見られます。これがほしの山がファンから非難される理由の一つですが、ここで見落としてはいけないのは「十両だし」という部分です。この言葉の裏側には、「幕内でこの立ち方だったら負け」という意識が潜んでいます。大相撲であれば、序の口から幕内まで、番付が上がるにつれて対戦相手が強くなっていきますが、対戦相手もいない一人の闘いであるまらずもうでは、序の口の1番も、幕内の1番も、勝ちやすさに差は出ません。そこで、勝敗の判定まで自身にゆだねられている力士は、まらずもう精神にのっとり、自身の階級にふさわしいと思われる判定を下すのです。もちろん、「十両ならここのくらいで勝ち、ここからは負け」という明確な規定はありません。規定を作ってわかりやすく、公平にするのは簡単なことですが、時には自ら負けを認めるというまらずもう精神を尊重する競技においては、そのような規定を作るのはかえってふさわしくないと考えられているからです。
(つづく)


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