まらずもうブログ

日本まらずもう協会公式ブログ

まらずもうの歴史(14) 天智天皇と額田王

2020-05-12 10:00:00 | まらずもうの歴史

 あいかわらず外出自粛生活がつづいております。やることがないので、古い歌の話でもしたくなりました。

 

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手はつゆにぬれつつ (天智天皇)

 小倉百人一首の第一番ということで、とても有名な歌ですね。わたくし暗記が苦手なもので、百人一首はおぼえきれなかったのですが、さすがにこの歌は覚えております。ざっくり現代語訳すると


 秋の刈り入れの終わった田んぼの仮小屋のとまぶきの目が粗いので、わたしの袖はつゆで濡れていく


 なんだか、わかったようなわからないような感じですが、だいたいこんな意味でしょうか。高校の古文だとふつうは「袖が濡れる=涙で濡れる」という公式めいたことを暗記させられるわけですが、ここでは「泣く」という意味で解釈している参考書は見当たりません。つゆで濡れてゆく……ってだけです。

 涙じゃなかったらなんで濡れているのか? 屋根や壁のすきまが粗いとなぜ袖が濡れるのか。解釈がむずかしいですね。雨漏りで濡れるなら「雨にぬれつつ」と言えばいいものを、わざわざ「つゆ」と言う以上は、雨で濡れているわけではない。では「つゆ」とはなんのつゆなのか。

 そうです。「精液」です。天智天皇は露出趣味があったので、誰かに見られながら自慰をすると興奮する性癖があったのです。


 秋の刈り入れの終わった田んぼの仮小屋のとまぶきの目が粗いので、だれかに見られているようなスリルから自慰もはかどり、わたしの衣や手は精液で濡れていく


 こういう解釈が成立するわけです。この解釈をふまえると、額田王のつぎの歌の解釈も変わってくるかもしれません。

 

 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る (額田王)

 額田王は天智天皇の愛人であり、天智の弟の天武天皇とも恋愛関係にあったと言われている、よくいえば「恋多き女性」、今風の言葉でいえば「ビッチ」です。美人だったとの伝説もあり、いまでも文学少女たちから人気がある万葉歌人ですね。

 この歌もすごく有名で、高校の教科書で読んだというひとも多いと思いますが、これをふつうに現代語訳するとこんなかんじでしょうか。


 明るくかがやく紫草の野を行ったり御料地の野を来たり。野の番人が見ていないでしょうか。あなたが手を振っているのを


 わたくしの学力不足のため、どうもうまく訳せませんでしたが、だいたいの意味は伝わりますかね。天智天皇が主催して宮中のみんなでピクニックに行った折、額田王が天武天皇に「私に手なんか振ったら、二人の不倫関係がばれてしまいます。手を振るのはやめて」と呼びかけた、ちょっとお昼のメロドラマっぽいシーンだという解釈が一般的です。この時代においては「袖を振る」というのが求愛行動だった、という解説もよく見かけます。

 これもたしかに読者の想像力をかきたてるおもしろい解釈だとは思うんですが、「不倫関係がばれるからやめて」って大っぴらにアピールするってのは、なんか不自然ですよね。歌になんかしたらかえって自分から不倫関係を宣伝しているようなものです。

 というわけで、べつな解釈の可能性も考えてみたいところ。このときに「秋の田の」の歌の解釈が補助線のように働いてきます。これは不倫相手の天武天皇に呼びかけた歌ではなく、天智天皇への呼びかけだと考えてみましょう。

 ピクニックでひさびさの外出、息苦しい宮殿を離れて解放感にひたる天智天皇。生来の露出趣味もあり、公然と自慰行為を始めてしまいます。いっぽう、自分の旦那がしこしこと袖を上下させているのに気づき、あわてたのが額田王。「ちょっとあんた! 人前でなにやってんの!」という気分を表現した歌だと考えると、解釈は以下のように変わります。


 外が明るいってのに、紫草の野原に射精! 御料地に射精! 野の番人が見てるんじゃないですか! あなたが袖を振ってオナニーに励んでいるのを!


 旦那の公然わいせつをあわてて制止する額田王と、愛人にきつく叱られてますます興奮する天智天皇。二人の表情を想像すると、ちょっと微笑ましいですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(13)

2019-03-25 12:00:00 | まらずもうの歴史

まらずもうの歴史(13) 元号とまらずもう

 

 いよいよ4月1日に新元号が発表され、5月からは新しい元号になるそうです。

 日本で初めて元号が使われたのが、645年の『大化』。この元号は「大化=大きく化けた」という文字を見ればわかるように、まらずもう占いによって名づけられており、これ以降、飛鳥・奈良時代の元号は、まらずもうにちなんだものが多く見られます。ということで、今回はこの時代の元号とまらずもうの関係について概観してみましょう。

 

・飛鳥時代の元号

 まずは飛鳥時代の元号について見てみましょう。飛鳥時代は天智系と天武系の血筋のあいだで皇位が行き来していた時代です。天武系の天皇が、まらずもうに理解と愛情を示していたのに対し、天智系の天皇はまらずもうに冷淡で元号制定にも消極的な傾向があります。

元号 天皇 父系 始期 いわれ
大化 孝徳天皇   645年 まらが大きくなった 
白雉 孝徳天皇   650年 精液が飛ぶのを白い雉に見立てた
元号なし 天智など 天智 654年  
朱鳥 天武天皇 天武 686年 雉は発情すると顔が赤くなる
元号なし 持統など 天智 686年  
大宝 文武天皇 天武 701年 大きなたま
慶雲 文武天皇 天武 704年 雲=朝まらがふくらむようす
和銅 元明天皇 天智 708年 不明


・大化

 日本史上初めての元号として名高い「大化」。中大兄皇子や中臣鎌足ら青年貴族たちが蘇我氏を倒すクーデターの密談をしていた際に、突然勃起したものがおり、それを吉兆としたことから名づけられました。ちなみに、見事な勃起で歴史に名を残した青年貴族は、高向玄理(たかむこのくろまろ)。玄理は勃起の角度にすぐれ、美しい黒まらの持ち主であったといわれています。

 

・白雉

 大化の改新のとき、中大兄皇子らに担ぎ上げられて皇位についた孝徳天皇ですが、天皇と中大兄の仲はだんだんと険悪になっていきます。お飾りとしてなんの実権も持たされず、不遇をかこつ孝徳天皇は白い精液を飛ばして憂さ晴らしをするくらいしかできませんでした。その様子を白い鳥に見立てて名づけられた元号が、白雉。孝徳天皇の不満を象徴するような元号です。

 

・元号なしの時代

 孝徳天皇の死後、中大兄皇子が母(斉明天皇)を天皇にたてて完全に政権を握ったあとは、元号をたてられることはありませんでした。斉明天皇の死後、中大兄皇子が天智天皇として即位すると、まらずもうへの締め付けを強め、まらずもうの影響のつよい飛鳥から、影響の薄い近江への遷都を敢行するなど、「そこまでやるか」というくらいまらずもうをパージする政策をとります。天智天皇も若いころは優秀なまらずもう力士としてまらずもうを活用していたのに、この急な政策転換は大きな謎です。まらずもうになんらかの危険性を感じたのかもしれません。

 天智天皇の死後、天智の子・大友皇子と、天智の弟・大海人皇子とのあいだで後継者争いの戦争が勃発しました。これが有名な壬申の乱。戦いはまらずもう占いを活用した大海人皇子方の大勝利に終わります。大友皇子はまらずもう嫌いの父・天智天皇の影響もあり、まらずもう占いを軽視していたことが敗因とされています。

 

 

・朱鳥

 壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位。都を近江から、まらずもうの本場・飛鳥に戻します。天武天皇は天智朝の時代にパージされていたまらずもうの復権をめざし、元号を復活させました。その元号が朱鳥。雉は発情すると顔が赤くなることから名づけられました。

 

・元号なしの時代

 天武天皇の死後に即位したのが、天武の妻であり、天智の娘でもある持統天皇。持統天皇は女性だったため、また天智の娘という血筋の影響もあったでしょう、まらずもうへの理解が薄く、元号を制定しませんでした。

 

・大宝

 持統朝の時代に廃止された元号を再度復活させたのは、天武天皇の孫である文武天皇です。「大宝律令」で有名なこの元号の由来は「巨大な睾丸」。文武天皇の巨大な睾丸から名づけられました。

 

・慶雲

 中国では古くから男女の情交を婉曲的に言い換えた表現として「雲雨」という言葉が使われてきました。「朝は雲となり夕には雨となる」という漢詩のフレーズがもとになっており、雲はまらが雲のようにむくむくとふくらむさま、雨は女性器がしとしと湿るようすを表していいます。慶雲は文字どおり「めでたい勃起」という意味になります。

 

・和銅

 文武天皇のつぎに即位した元明天皇も、持統天皇と同じように天智天皇の娘です。天智系の女帝であったため、まらずもうへの理解は薄く、まらずもうとはあまり関係のない元号をつけたようです。

 

 

・奈良時代の元号

 天武系の天皇が皇位をにぎりつづけた奈良時代。まらずもう史上最強力士・道鏡を輩出するなど、まらずもうの黄金時代といわれています。この時代の元号もまらずもう占いの影響を強く受けていますが、天武系の血筋が絶えるとまらずもうの影響がだんだん小さくなっていきます。

元号 天皇 父系 始期 いわれ
霊亀 元正天皇 天武 715年 神々しいまら
養老 元正天皇 天武 717年 老人が勃起した
神亀 聖武天皇 天武 724年 神聖なまら
天平 聖武天皇 天武 729年 天をしずめるほどの勃起
天平感宝 聖武天皇 天武 749年 感じやすいまら
天平勝宝 孝謙天皇 天武 749年 すぐれたまら
天平宝字 孝謙天皇 天武 757年 文字どおりまら
天平神護 称徳天皇 天武 765年 ちんこ→じんご
神護景雲 称徳天皇 天武 767年 ちんこがふくらむようす
宝亀 光仁天皇 天智 770年 宝物のようなまら
天応 光仁天皇 天智 781年 不明
延暦 桓武天皇 天智 782年 不明

 

・霊亀

 平城京への遷都がおわって5年後、さいしょの改元でついた名前は霊亀。文字通り、神々しいまら、の意味です。元正天皇は天武天皇の娘。女帝として生涯独身を通しながらも、まらずもうに対しては深い理解を示しました。

 

・養老

 養老の滝、の故事で有名な養老。美濃国のとある老人が突然勃起し、まらから精液が滝のように噴出したことにちなんで改元されました。元正天皇は老人のもとまで行幸し、まらを愛でながら「美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり」と声をかけられたそうです。

 

・神亀

 意味はもちろん「神聖なまら」。 聖武天皇はまらずもうへの理解と造詣が深い天皇として有名であり、のちにまらの象徴として、東大寺の大仏をつくらせました。現在の大仏は江戸時代につくりなおされたもののため、まらは目立ちませんが、当時の大仏は金色に光るそれはみごとなまらだったそうです。

 

・天平

 奈良時代の最盛期を象徴するような元号として知られる「天平」。瑞亀(めでたいまら)の出現を機に「天をしずめるほどのまら」という意味で「天平」名づけられました。この時代は数年ごとに改元されることが多かったのですが、天平は21年という異例の長さになりました。

 

・天平感宝

 「まらも元号も長いほうがよい」というおつげのもとに元号の文字数が増えました。天平感宝の「感宝」は感じやすいまら。ここからしばらくは四字元号の時代がつづきます。

 

・天平勝宝

 聖武天皇が崩御して、あとをついだのが娘の孝謙天皇です。女帝ながらまらずもう好きな天皇として有名で、まらずもう占いの最盛期をつくった名君として知られています。「勝宝」の意味は「すぐれたまら」。この時代に奈良の大仏の改元供養が行われました。

 

・天平宝字

 「宝字=文字どおりまら」の意味です。この時期の歴史はちょっと複雑です。

 女帝の孝謙天皇はまらずもうの重要性をよく理解していました。まらずもうが好きなのに、自身ではまらずもうができない孝謙天皇は、稀代のまらずもう力士・道鏡を重用し、さまざまなまらずもう政策を採用していきます。

 そして、「やはり天皇本人にもまらがついているほうがよい」と考えていちど天皇の位を退位します。独身の孝謙天皇にはこどもがいなかったので、親戚の淳仁天皇にあとを継がせました。しかし、淳仁天皇はまらずもうに興味を示さず、元号も「天平宝字」のまま変更せず、まらずもうにちなんだ改元すらしようともしませんでした。それに怒った孝謙上皇は淳仁天皇やその側近の藤原仲麻呂を追放して、もういちど称徳天皇として天皇に即位しなおします。(つまり、孝謙天皇と称徳天皇は同一人物です)

 

・天平神護

 藤原仲麻呂や淳仁天皇らの反対派を倒し、まらずもうの危機を守った称徳天皇と道鏡。まらずもう占いを神の護りであると感謝の意をこめて「天平神護」と改元します。「神護」は「ちんこ」に音の響きが似ていることもあり、ある意味ダブルミーニングとなっています。

 

・神護景雲

 『景雲』は「雲のようにむくむくと大きくなる朝まらの景色」の意味です。

 「まらずもうができる天皇」という称徳天皇の悲願を達成するため、天皇は道鏡に皇位をゆずることを考えますが、これには反対意見が多く、和気清麻呂の暗躍もあり、この計画はつぶされてしまいました。(=宇佐八幡宮神託事件)  道鏡への譲位計画の失敗以降、称徳ー道鏡のまらずもう政権は徐々に力を失っていくことになります。

 

・宝亀

 称徳天皇の死後、彼女にこどもがいなかったため天武系の血筋が絶え、ひさびさに天智系の天皇として即位したのが光仁天皇。まず最初に行ったのが、道鏡の追放と、まらずもうの影響の強い四字元号を廃止することでした。ただ、完全にまらずもうの影響を脱することはできなかったらしく、折衷案としてついた元号は「宝亀」。宝物のようなまら、の意味です。

 

・天応

 光仁天皇時代のふたつめの元号。しいていえば「天の反応」という意味でしょうか。まらずもうの影響はだいぶ弱くなっており、朝廷のまらずもう離れが感じられます。

 

・延暦

 光仁天皇のあとをついだ桓武天皇はまらずもう離れを加速させます。延暦というまらずもうと関係のない元号をつけ、延暦3年には平城京から長岡京(京都府向日市~長岡京市あたり)への遷都、さらに延暦13年には平安京(京都市)への遷都と都を、まらずもうの中心地・奈良から遠ざけていき、まらずもう勢力の分断を狙いました。こうして、まらずもう政治は終焉を迎えました。(平安遷都後のまらずもうについては→まらずもうの歴史(9) を参照してください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(12)

2017-12-06 06:00:00 | まらずもうの歴史

まらずもうの歴史(12) ちんぽおばけ~白河院

 さいきん、大相撲の横綱・日馬富士がモンゴル人の後輩力士・貴ノ岩にリンチを加え、貴ノ岩の師匠の貴乃花親方がそれを警察に訴えたため、日馬富士が引退に追い込まれるというニュースがありました。連日、ワイドショーでは、相撲協会の隠蔽体質や貴乃花親方の対応の是非などについてさまざまな報道がなされ、テレビで貴乃花親方の顔を見ない日はないほどです。

 いっぽう、ネット上では貴乃花親方の出生の秘密についてもまことしやかな噂が流れています。この噂はだいぶ以前からちらほらと流れてはいて、三代目若乃花との絶縁の原因になったとか、へんな宗教にのめりこむきっかけになったとか、いろいろと言われています。当ブログは名誉棄損で訴えられたくはないので、噂の内容については詳しいことは書きません。気になる方はgoogleかなんかで『貴乃花 輪島 家系図』などと検索をかけていただければ、初代若乃花を中心とした複雑な家系図がでてくるかと思いますので、そちらをご参照ください。

 このブログは「まらずもうブログ」なので、まらずもうに話をもどしますと、平安時代後期のまらずもう界でも、似たような下半身スキャンダルが起きていました。というわけで今回のテーマは、例の家系図とそっくりな、初代若乃花にあたる白河院を中心に、鳥羽院、崇徳院、後白河院の4人の関係について、話をしようかと思います。

 

 中学校の社会科の時間に「院政」という言葉をきいたことがあるとおもいます。皇室のなかでいちばん立場の強い人物が天皇を退位したあとも自分の子や孫を天皇にすえて、後見人という立場で政治に影響力を保持しつづける、というあれです。社会科の成績がよかったひとは、白河院という人物が院政をはじめた、ということまで覚えているかもしれません。

 白河院の言葉として、最も有名なのが「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」というものでしょう。当時、圧倒的な権力者として権力をふるった白河院が三つだけ自分の思い通りにならないものとして、あげたものとされています。このうち、「双六の賽」とは博打で勝てないこと。「山法師」とは比叡山にいるまらずもう力士たちのこと。そして、「賀茂川の水」とは京都市内を流れる賀茂川の流れに自分の精液をなぞらえ、性欲があふれて自分では抑えられないことを述べているといわれています。この言葉からもわかるように、白河院は激しい性欲の持ち主としてしられていました。それでも若いうちは正妻一本槍だったのですが、正妻に先立たれ、また政治的にも絶対的な権力を握るようになると、歯止めがきかなくなったかのように、手当たりしだいに女性に手をつけはじめ、そして、手をつけた女性を身近な家来などにおしつけるのです。というわけで、あちこちに白河院のご落胤がいたようですが、いちばん有名なケースは平清盛でしょうか。まあ、これは愛人を押しつけられた平忠盛(清盛の義理の父)も「出世の糸口になる」と喜んでいましたし、実際にのちに平家が政界進出するきっかけにもなったので、ウィンウィンといったところでしょう。しかし、こうした幸せなケースばかりではなく、自分の孫の鳥羽院に愛人を押しつけたケースでは、鳥羽院はだいぶ嫌がっていたようです。

 かわいそうな鳥羽院。役どころでいえば、元大関の貴ノ花ということになるでしょうか。鳥羽院の父にあたる堀河天皇は非常に優秀な人物で、白河院も息子の堀河天皇には目をかけてかわいがっていたのですが、身体が弱く29歳の若さで死んでしまいまいます。しかたなく、まだ幼かった鳥羽院が皇位をつぐことになったのですが、当然、政務をみることはできず、祖父・白河院が後見人として政治の実権をにぎることになります。そういった事情で即位したこともあり、のちに鳥羽院が成長したあとも、白河院には逆らえなかったようです。

 幼い鳥羽院を傀儡にして政治の実権を握り、やりたい放題の白河院。あるとき、とある貴族の娘である藤原璋子という5歳の幼女がかわいいという噂をきくと、その5歳児に興味をそそられます。まだ幼い璋子を養女という形でひきとり、性欲のおもむくままに手をつけました。璋子は幼いころから白河院に性のてほどきをうけ、48歳差という年齢差にも関わらず、それはそれは仲睦まじい愛人関係だったといいます。璋子が16歳になるころには、宮中では白河院と璋子の愛人関係はなかば周知の事実となっていました。それでもどこかに嫁に出さなくてはならない年齢です。身分の低い愛人なら適当な家来に押しつけてもよかったのでしょうが、名目上は白河院の養女という立場上、ちゃんとした家柄のところに嫁に出したいところ。しかし、そういう噂があっては、どこでも嫁にもらうのを嫌がられてしまいます。こまった白河院は、璋子を自分の孫の鳥羽天皇ところに嫁がせることにしたというわけです。相手が天皇なら身分に不足はありませんし、自分の孫のところなら、だれに気兼ねすることもなく自由に会いに行けるので、一石二鳥です。

 白河院は嫁に出したあとも、以前とかわらず璋子へ手をだしつづけます。璋子としても2歳下でなんだか頼りない鳥羽天皇よりも、歳上で頼りがいのある白河院のほうが好み。白河院とばかりいちゃついて、鳥羽天皇のことなど見向きもしません。いっぽう、嫁だと思っていた女に相手にされない鳥羽天皇はおもしろくありません。結婚後しばらくして璋子に男の子が生まれましたが、身に覚えのない鳥羽天皇は赤ちゃんを見ても「俺の子じゃねーよ。じーさんのこどもなんだから、叔父さんじゃん」と知らん顔。この三代目若乃花みたいな赤ちゃんがのちの崇徳院になります。

 当然のことながら、璋子と鳥羽院の夫婦関係は新婚当初から冷え切っていました。それでも白河院が生きているうちは、別な女性に手をださなかった鳥羽院ですが、白河院が死ぬと璋子を放置して玉藻前という女性を寵愛するようになります。

 藤原璋子のほうも鳥羽院には不満をもっていました。晩年の白河院は、高齢になって勃起力が衰え、性交能力を失ってしまったあと、「璋子が別の男とやってるのを見ると、ちょっと興奮する」などと言いだすようになります。幼いころから白河院にセックスを仕込まれて、セックス中毒ぎみだった璋子、白河院が勃起しないのでは……と、手当たりしだいにいろんな男を引っぱりこんでは、白河院に見せつけるようにセックス三昧の日々をおくります。そのときに生まれたのがのちの後白河天皇。貴乃花親方みたいな役どころでしょうか。まあ、後白河院の父親については、鳥羽院も璋子に誘われるまま手をだした覚えはあるので、崇徳院のときのようにあからさまに「こいつは自分の子ではない」とは言いませんが、実際のところ誰の子かよくわからないこともあり、そこまで良好な親子関係ではなかったようです。

 このような荒んだ家庭環境では、崇徳院も後白河院もだいぶ性格がゆがんでしまいました。三代目若乃花と貴乃花が不仲だったように、崇徳院と後白河院ものちに激しく仲違いをして保元の乱という大戦争になります。まらずもう史的にも重要な戦争ですが、やたら長くなるのでこのあたりの話はまたこんどにしましょう。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(11)

2016-03-10 10:00:00 | まらずもうの歴史

・まらずもうの歴史(11) まらずもうに生死をかけた男・正岡子規

 

 ひさびさのまらずもうの歴史です。順番からいえば源平合戦の話をするつもりだったのですが、大昔の話ばかりするのにもちょっと飽きてきました。というわけで、きょうは気分をかえて明治期のまらずもうの話をしようと思います。

 明治時代の話をするまえに、それまでのまらずもう史をざっとおさらいしておきましょう。古代には占いとして国家の方針を左右するほどの力を持っていたまらずもうですが、奈良時代の道鏡の失脚を機に徐々に力を失っていきます。さらに平安時代には空海の主導したまらずもう封じ込め政策のもとでその呪力まで奪われてしまいますが、その一方で、それまで貴族や僧侶など上流階級でしか行われていなかったものが、しだいに武士をはじめとするさまざまな階層へと広がっていきます。

 鎌倉~室町時代には政治の表舞台からは姿を消します。ときどき突発的にまらずもうのお告げをうける人物は現れるものの、政治のメインストリームとなることはなく、庶民の娯楽として細々と行われるだけの雌伏の時代を過ごすことにないます。この時期に占いから娯楽へとすこしづつ性質を変えていき、江戸時代になると大々的に興行として行われるようになります。庶民の間でおもしろい見世物として人気を博し、当時人気の戯作(小説のようなもの)や浮世絵にもとりあげられるなど、江戸時代はまらずもうにとって二度目の黄金時代と言ってもよいほどの活況を呈しました。(なお、現在日本まらずもう協会で行っているまらずもうは、江戸時代のやり方を踏襲しています。)

 しかし、明治の文明開化とともに「時代遅れのもの」「旧弊な文化」としてバカにされるようになります。とくに打撃となったのは1871年に出された裸体禁止令。違反した際の罰則が鞭打ち刑だったこともあり、一部のまらずもう力士はかえってまらずもうに傾倒したようですが、多くの力士はまらずもうを離れ、まらずもうは急速に衰退していきました。そんな状況を憂い、まらずもうの立て直しをめざしたのが、今回のメインテーマである正岡子規です。

 

・生い立ち

 子規は明治維新の前年(1867年)に松山藩(いまの愛媛県)の下級武士の子ととして生まれました。

 幼名は処之助(ところのすけ)。大きくなってからの名前は常規(つねのり)。「子規」という名前は雅号(=俳句をつくる際のしこ名のようなもの)です。子規は名前を変えるのが趣味だったようで、一説によると54種類もの名前を名乗ったらしいですが、この項ではいちばん有名な「子規」と呼びます。ちなみに『子規』とはホトトギスの意味。「血を吐くまで鳴く」と言われるホトトギスにちなみ、「血が出るまで射精する」という強い意気込みを表現したものと言われています。

 幼いころに父親を亡くした子規は、儒学者だった母方の祖父のもとで教育をうけました。学者だった祖父から漢籍や漢詩を学び、また江戸時代の戯作や書画など、古典全般についても幅広い教養を身につけます。いっぽう、父親のいない反動から、男性器への強い関心を示しました。祖父の蔵書には江戸期のまらずもう関連の書籍も多かったため、知らず知らずにまらずもうと触れる機会もあり、旧制松山中学(現在の松山東高)のころには、級友とまらずもう同好会をつくり、実際に取組も行っていました。

 当時の級友によると、中学時代の子規のまらずもうは「ちんぽの大きさをひけらかすだけで、やってることは露出狂と変わらんかった。でかければ偉いと思っているふしがあった」とのこと。恵まれた素質に頼った粗削りなまらずもうだったようです。

 

  (写真:巨根を自慢げにさらす少年時代の子規) 

 


・上京、野球との出会い

 1883年、子規は東京大学をめざし、受験勉強のために上京します。松山中学時代、まらずもう同好会に入っていたとはいえ、それはあくまでも趣味。さすがに一生をかけた仕事にしようとは考えていませんでした。そもそも当時のまらずもうは明治の文明開化の流れのなかで、旧弊な時代遅れの文化と考えられており、社会的にイメージもよくありません。

 上京当初は政治家や官僚をめざしていたという子規ですが、当時の明治政府は薩長出身でなければ出世もおぼつかない世界。譜代大名の松山藩は徳川方についていたため、松山出身の子規では出世の見込みは薄いこと知り、ふらふらと勉強にも身が入らない毎日を送っていました。なんとか東大には滑り込んだものの、官僚はおろか就職の見込みさえ厳しいと言われる哲学科。そのうえ、学校にもろくに行かず「哲学というのはわけがわかんらんぞなもし」などと言いだす始末。

  授業にでるのが面倒になったある日、学校ちかくの公園をふらふらと散歩していると、学生たちが野球の練習をしているのが目にとまりました。打者がバットを力いっぱいスイングすると、白いボールが放物線を描いて飛んでいきます。打球の軌跡の美しさに一目で魅入られてしまった子規。その日から野球のとりこになっていました。

 上京後、くすぶっていたエネルギーをぶつける方向性が見つかって、子規はすべての情熱を野球へ注ぎ込みました。その熱中ぶりはほとんど常軌を逸したもので、性的興奮を感じているようにさえ見えます。

  球と球をうつ木を手握りてシャツ着し見ればその時思ほぬ

と「野球のことを思い出し、野球のコスプレをしながら自慰行為にふけった」という意味の短歌をよんでいるほどです。松山時代からの知り合いで門下生でもある河東碧梧桐は、この野球への熱中ぶりを評して「変態現象」と呆れたようなコメントを残しています。

 (なお、2002年には子規は野球への熱中ぶりを評価され、野球殿堂入りを果たしています。)

 

・射精

 子規は「なぜこれほどまでに野球に夢中になるのだろうか?」と自分を見つめ直し、「ボールの描く放物線の美しさに官能性を感じるからだ」という結論に達します。すると、中学時代に行っていた、勃起を競うだけのまらずもうが単調でつまらないものに感じれらるようになりました。

 「役小角や道鏡の時代のまらずもうはきちんと射精まで至っていた」「万葉集のころのまらずもうは、古今集の時代や江戸時代のまらずもうと比べて、なんと力強く美しいことか」「時代が下るにつれて、まらずもうが射精から離れ、どんどん矮小化されていく」。子規の頭のなかにさまざまなフレーズが浮かんでは消えていきます。そして最終的に浮かんだ結論は「まらずもうに射精を取り戻そう。白球のように美しく精液を飛ばそう」というものでした。

 子規のまらずもう観を端的に示した短歌を2首あげてみます。

   松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く

   くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

 ここには、松の葉のように細いまらでもかまわない。薔薇の芽のように柔らかいまらでもかまわない。白露のように、あるいは春雨のように、繊細で美しい射精をたくさん決めようではないか。そんなふうに射精を大事にする考え方が見てとれます。

 なお、この極端なまでの射精重視の立場は、後世の評論家からは「まらそのものの美しさをないがしろにしている」「我々がやっているのは、まらずもうであって、汁ずもうではない」などと批判も浴びました。また、まらずもう界に勃起派と射精派とのあいだの断絶をひきおこした、という負の遺産もあります。しかし、子規のあげた「江戸時代のまらずもうは勃起にばかり偏り過ぎている」という問題提起は、当時のまらずもうを覆っていた閉塞感を打破したという歴史的な意義を評価されてもよいでしょう。

 

・病魔と戦いながらの執筆活動

 幼いころから病気がちだった子規ですが、20代後半に肺結核が悪化してからは思うようなまらずもうがとれなくなり、30歳を過ぎてからは寝たきりの生活を送ることになりました。力士生命が絶たれた子規が命をかけてとりくんだのは、自らのまらずもう理論を完成させることでした。残り少ない時間と競争するかのように『松蘿玉液』『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病床六尺』など、病床からたくさんの原稿を書き上げていきます。

 こうして、子規の考え方に触れた若いひとたちの間で、まらずもうはすこしづつ賛同者を増やしていきました。有名な「鶏頭の十四五本もありぬべし」という俳句は、子規の自宅で行われたまらずもう会のときの句とされ、弟子たちの亀頭を鶏頭の花に見立て、まらずもうの弟子が増えさかんになっていく様子をよんだものです。

 子規がまらずもう力士の生活においてもっとも重視していたのは食事でした。病床の日記とされる『仰臥漫録』には、事細かに食事メニューが記録されており、瀕死の病人とは思えないほどの健啖ぶりを見せています。これは「射精の基本は食事から」という現代の最新のまらずもう理論にも通用するような考え方をもとにしており、この食事のおかげで病人のわりにはそれなりの勝率を維持できていたようです。

 子規の精力的な執筆活動は、死の直前まで続けられました。絶筆となった『病床六尺』は「少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録(wikipedia)」とまらずもうにとどまらず、日本の文学史上に残る傑作随筆として現在まで読み継がれています。

 

・短歌・俳句について

 子規は短歌や俳句の実作者としても知られています。中学や高校の国語の教科書にも載っているので、そちらのほうが有名かもしれません。まらずもうについてよんだ作品もありますし、代表作をいくつかあげて、かるく解説しておきましょう。

 

  松山や秋より高き天守閣

 寝たきりになるまえ、元気なころにつくられた俳句です。隆々と勃起したまらを天守閣にたとえています。のちには射精一辺倒になった子規ですが、若いころは勃起にも価値を見出していたことがわかり、子規のまらずもう理論の変遷もうかがえます。

 

  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 子規の作品で最も有名なこの句は、寝たきりになる直前の28歳ころ、奈良旅行のときによんだものとされています。日本の歴史上、飛鳥時代から奈良時代にかけてはまらずもうの黄金時代。飛鳥や平城京では多くのまらずもう力士が活躍しました。病気で動けなくなる前に、まらずもうゆかりの地をきちんと見ておきたいと強行された旅行だったようです。法隆寺は稀代の名力士・聖徳太子ゆかりの寺。「法隆寺の門前で、柿(=精力がつくとされていました)を食べていたところ、突然射精してしまった」の意味。まらずもうに食事療法を取りいれた先駆者だけに、おやつのときもまらずもうのことが頭から離れなかったのでしょう。

 

  足たたば不尽の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを

 明治31年に発表された「足たたば」ではじまる連作のうちの一首。「足」とはもちろん三本目の足=まらのこと。人並みに勃起さえできればなんでもできるのに……という悔しさを感じさせます。切ない歌です。

 

  睾丸をのせて重たき団扇哉

 健康だったころは天才的なまらずもうをとっていた子規ですが、病気が進むにつれ納得のいく取組ができなくなっていきます。若いころには睾丸の重さなど感じなかったのが、射精もろくにできない無駄な器官となって、重く苦しくのしかかってきます。なまじ人並み以上のサイズだっただけに苦しさもひとしおだったことでしょう。しかし、そんな苦悩を感じさせないウィットに飛んだよみぶりに、子規の人間としてのスケールを感じさせる一句です。

 なお、子規は睾丸をテーマに数多くの俳句をつくっています。「睾丸の邪魔になったる涼み哉」「秋のくれ祖父のふぐり見てのみぞ」「きんたまのころげて出たる紙帳哉」「睾丸の大きな人の昼寝かな」 「夏痩やきん丸許り平気也」「睾丸に須磨のすず風吹送れ」「睾丸の垢取る冬の日向哉」「関守の睾丸あぶる火鉢哉」「睾丸の汗かいて居るあはれ也」「やかれたる夏や睾丸の土用干」 などなど。しみじみとした味わいのある句が多いようです。

 

  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

 部屋で横になるだけの毎日。ふと飾ってある花瓶を見ると、垂れ下がった藤の花がもうすこしで畳に届きそうなのにどうしても届かない。満足なまらずもうが取れないもどかしさを、まらと藤の花を重ね合わせることで表現した佳歌です。

 

  をとゝひのへちまの水も取らざりき

 これが子規の辞世の句。まらをへちまにたとえ「おとといから三日間も自慰をしていない」との意味です。射精に命をかけた子規が、自慰もできずに死んでいくという無念さが伝わってくるような、まさに壮絶な一句です。

 

 

 ・射精まらずもうのその後

 子規の提唱した射精まらずもうは、出身校の東京帝国大学をはじめとする各帝国大学のまらずもう部で研究されるようになりました。現在でも、旧帝国大学の流れをくむ七つの大学のまらずもう部では「七帝まらずもう」として、協会式のルールとは違う独自のルールでの大会が行われています。

 協会式まらずもうが朝立ちをメインとする立ち技主体のスタイルなのに対し、七帝まらずもうの最大の特徴は寝技が主体であること。東大や京大など偏差値の高い大学の新入生は高校時代のスポーツ経験が乏しく身体的素質に恵まれないことが多いのですが、とにかく寝技に持ち込んで射精しさえすれば勝ちというルールは、天賦の才に左右される部分が少なく、かつ短期間での技術の向上が期待できます。勃起する才能に乏しい選手であっても努力と研究しだいで一流選手になれるという点が、これらの大学のニーズに合致したのでしょう。

 いっぽう、七帝まらずもうの欠点は見ていてつまらないこと。ぱっと見では布団のなかで選手がなにやらもぞもぞやっているだけなので、派手な大技で勝負か決まりやすい協会式まらずもうに比べて、どうしても試合展開が地味になりがちです。射精するまでの時間も長くなりがちで、このあたりの退屈さが協会式にくらべて普及していない理由なのだろうと思われます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(10) 

2015-04-06 10:00:00 | まらずもうの歴史

・まらずもうの歴史(10) 金太郎のモデルとなった平安時代の伝説的力士・下毛野

 『金太郎』という昔話は、タイトルこそ非常に有名ですが、「あらすじを説明してみろ」と言われると、うまく説明できない人が多いのではないでしょうか。一般的に知られているのは「まさかりを担いだ金太郎という元気なこどもが、熊と相撲をとったり、熊にまたがって乗馬の練習をしたりした」。昔話に詳しいひとでも「大人になったあと、坂田金時という立派なさむらいになって、大江山の酒呑童子をやっつけた」を知っているのがせいぜい。絵本を読んでもストーリーははっきりしませんし、昭和の伝説的アニメ・『まんが日本昔ばなし』でも「悪い熊と戦う」「熊は仲間、悪い猪と戦う」と2種類の作品があるくらいに混乱しています。

 「金太郎」や成人後の「坂田金時」は、現代の感覚でいえば『ハローキティ』あたりの立ち位置に近く、お話というよりはキャラクター。元気な男の子の象徴として、金太郎飴五月人形・金時豆・金時芋・きんぴらごぼう(=金太郎の息子の「金平」から名前がつきました)などさまざまにグッズ展開されますが、キティちゃん同様、べつにストーリーが固まったお話ではないのです。

 金太郎は平安時代中期のまらずもう少年・下毛野公時(しもつけの・の・きんとき)がモデルとされています。きょうは、平安時代を代表する早熟の天才・下毛野公時についての話をしましょう。

 

(1)生涯について

 下毛野は西暦1000年に下級役人の子として生まれました。幼児のころから人並み外れた巨根で、性欲も強く、いつもまらをいじっていないと気がすまないこどもでした。7歳ころ、まらずもうの才能を見出されて、まらずもう力士としてデビューします。この時代、朝廷の上級貴族はまらずもうを野蛮な風習と考えるようになったこともあり、まらずもうは衰退傾向にありました。宮中での相撲節会が行われることも少なくなっていましたが、下毛野は天才少年として相撲ぶりが際立っていたため、わざわざ特別に開催されたほどです。幼いながらも豪快で破天荒な相撲ぶりは宮中の話題を集めましたが、1017年、九州に新弟子をスカウトに行ったときに、18歳の若さで病死。男色を好んでいたため、旅先の売春宿で性病をもらってしまったらしいです。

 時の権力者・藤原道長は下毛野のパトロンで、稚児のような扱いで男色関係にありました。道長はかれの死を知った悲しみのあまり重病を得て、1019年にはそのまま東大寺で受戒してしまったほどです。道長が仏門に入る際に、藤原氏の氏寺である興福寺ではなく、まらずもうの中心地である東大寺を選んだのも、下毛野を悼んでとのことだと言われています。

 

(2)下毛野の相撲ぶり

 下毛野の相撲は、獣姦・男色などそれまでタブーとされていた大技を積極的に取り入れた自由な取り口が持ち味でした。(→これは、空海によるまらずもう封じ込め政策のせいで、女性相手に興奮するオーソドックスなまらずもうがやりにくかった、という理由もあります。第9回参照。)現代まらずもう力士と比較すると、ちょうど毛呂乃の相撲に近かったようです。1000年後を先取りするような下毛野の革新的な相撲には、文化人の隠れファンも多く、かの有名な紫式部も、

  たづきなき旅の空なるすまひをば 雨もよにとふ人もあらじな 

(巡業で遠くまで旅にでかけている相撲とり。外は雨がふっているが、まるで力士の精液のように見えて、遠い旅先から力士が訪ねてきてくれているような気がする。実際はいないのに)

という歌で下毛野の相撲をたたえています。天候まで左右して、精液を雨のように降らせるところなども、やはり現代の毛呂乃に通じるところがありますね。

 

 また、古代のまらずもうは呪術や占いとして発展してきたという歴史がありますが、下毛野にも呪術師的な側面があり、他人の性的エネルギーを自分のまらに吸収したり、逆に自分のエネルギーを他人に分け与えたり、性的エネルギーの出し入れが自由にできるという特殊能力がありました。現代の毛呂乃もときどき似たような技を使いますが、下毛野の技はより洗練されており、狙ったまらを狙ったタイミングで勃起させることができたと言います。

 この能力を最大限に利用したのが、パトロンである藤原道長です。道長は自分の娘(=彰子)に将来の天皇を産ませ、天皇の祖父として政治の実権を握ることを狙っていました。一条天皇の後宮での、道長の娘・彰子と、ライバルの定子との主導権争いは有名ですが、この際に、下毛野の他人の勃起を自由に操れる能力が大いに役に立ちます。入内してから9年間、なかなかこどもに恵まれなかった彰子ですが、下毛野が一条天皇に秘術を使うと、たちまち懐妊。こうして、彰子の産んだこども(=後一条天皇)のもとで道長は絶大な権力を振るうことができました。下毛野は摂関政治全盛の影の立役者とも言われています。

 下毛野の死後、藤原摂関家の娘たちは男児に恵まれないという不運が続き、道長の一族を中心とした摂関政治はしだいに衰えていきます。道長が世をはかなんで受戒したのも、そのあたりのことを予期していたからかもしれません。

 

 下毛野(しもつけの)というしこ名は、下の毛、つまり陰毛に由来しています。現在のまらずもうでも、摩羅の川(まらの皮)、蒼狼(早漏)、播潟(張形)など、まらずもうに関連のある言葉からしこ名をもってくることが多いのですが、こういったしこ名を使う風習はこの時期からはじまったと言われており、そういった意味でも現代を先取りした力士と言えるでしょう。

 

(3)金太郎というキャラクターの成立

 下毛野の死後、かれのような破天荒なまらずもうをとる力士は現れず、その非常識なまでにスケールの大きな相撲ぶりはしだいに伝説化していき、伝説化の過程で話がすこしづつ変質していきます。ふつう、伝説化すると話がどんどん大げさになるのですが、下毛野の場合は、もともとが非常識にスケールの大きい相撲をとっていたため、ぎゃくに話が小さくなり

 ・まらずもうの力士だった→(ふつうの)相撲が好きだった

 ・獣姦を好んだ→山の動物たちを相手に相撲の稽古をした

 ・熊系の男性と後背位で交わるのを好んだ→熊にのって乗馬の練習をした

 ・ペニスが勃起すると先端が肩の位置まできた→肩にまさかりを担いでいた

 ・若くして亡くなった→永遠の少年としてのイメージ

など、一般人にも理解しやすい形になっていったようです。

 こうした下毛野の伝説化は、鎌倉時代に書かれた『今昔物語集』からはじまり、江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃などでイメージが固定化、しまいには「こどもの健やかな成長を願うキャラクター」というもともとの原型をとどめない形にまで矮小化されてしまいました。

 ようするに、昔話『金太郎』のストーリーがいまいちわかりにくいのは、こども相手に獣姦だの男色だのといった話ができないため、ぼかしているうちになんだかわけのわからないことになってしまった、というわけなのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(9)

2014-01-05 10:00:00 | まらずもうの歴史

 

・まらずもうの歴史(9) 平安時代のまらずもう

・陽物くらべ

 この絵は『陽物くらべ』というタイトルで、『鳥獣戯画』で有名な平安時代の高僧・鳥羽僧正(1053-1140)が描いたとされています。僧侶、下級貴族、武士などさまざまな階層のひとびとが、たのしそうにまらの大きさを比べている様子が描かれています。飛鳥時代・奈良時代のまらずもうが上級貴族や身分の高い僧侶によって行われる国家の運営方針を決めるための占いであったのに対して、平安時代になると、もっと広い階層によって行われ、より身近な内容が占われるようになりました。一言でいえば、まらずもうが大衆化したのです。今回は、平安時代におけるまらずもうの大衆化の過程について概観してみます。

 

・平安遷都

 前回触れたように、道鏡の失脚後、まらずもうは政治の表舞台から姿を消しますが、政治の実権を奪い返した藤原氏は、まらずもうが力を盛り返すことを恐れていました。そこで、まらずもうの教えが色濃く残る奈良の都を捨て、遷都を行うことになりました。まらずもうの呪力の届かない地で、まらずもうと切り離された新しい政治を行おうとしたのです。あたらしい都の場所については、道鏡を失脚に追いやった和気清麻呂の意見が取り入れられ、山城国葛野郡から愛宕郡のあたりに決まり、平安京と名づけられました。

 また、平城京のころには聖武天皇の発案で宮中で年に1度、男女の交合を象徴する七夕の7月7日に、相撲節会という儀式が行われていましたが、平安遷都後はしだいに惰性で行われる形式的なものとなりました。それも西暦830年ころからは行われなくなり、宮中からまらずもうが完全に消えることとなりました。

 

・弘法大師によるまらずもうの封じ込め

 平安遷都後の政府首脳たちは、単にまらずもうの呪力から離れるだけでなく、その呪力をきちんと封じ込める必要を感じていました。そこで、唐から密教を持ち帰って帰国したばかりの天才・弘法大師(774-835)を抜擢し、まらずもうの封じ込めを依頼しました。まず、弘法大師は、まらずもうの呪力の残っている奈良・平城京を南北から挟むように、南に高野山金剛峯寺、北に教王護国寺(=東寺)をつくり、霊的な結界をつくります。とくに教王護国寺は平安京の南端に位置し、都を守る最後の砦としての意味も持っていました。

 同時に、まらずもうの呪力を弱めるための手段として、まらずもうの本場、奈良の東大寺(=まらずもうの本尊である大仏が安置してあるお寺です)に潅頂道場を開きます。この道場では公然と男色のやり方が教えられていました。まらを男性の肛門に挿入し、まらのもつ呪力を男性の体内に吸いあげることで、まらの呪力をべつのエネルギーに転化してしまうという方法で、まらずもうを無力化したのです。我が国はのちに男色天国と言われるほどホモセクシャルが一般化するのですが、日本に男色をはじめて持ち込んだのが、この弘法大師だと言われています。弘法大師が指導した男色の方法は貴族や僧侶たちの間で人気を集め、広く行われるようになり、それと反比例するようにまらずもうのもつ呪力が落ちていくのでした。

 

・まらずもう復権運動とその失敗(1)~菅原道真~

 まらずもう側もただ手をこまねいていたわけではありません。まらずもうを政治の場に取り戻そうとする運動もありました。まらずもう復権運動の代表的な人物が、菅原道真(845-903)と平将門(903-940)です。

 菅原道真は、相撲の祖と言われる野見宿禰の子孫ということもあり、幼少のころから相撲やまらずもうに深い理解を示していました。また、まらずもうの才能だけでなく、学問や詩歌にも優れた才能を見せ、まらずもうに冷たい時勢ということもあり、まらずもうよりも学才をもって朝廷に仕えました。若いころは中くらいの家格に応じてほどほどの出世コースを歩んでいた道真ですが、41歳のときに讃岐守に任命され、任国の讃岐国で目にした光景に愕然とします。讃岐は弘法大師の出身地。弘法大師は故郷・讃岐の狸に呪いをかけ、狸たちは玉袋だけを異様に発達させ、成獣になってもまらが幼児のように小さいままという、見るも哀れな姿になっていたのです。いや、狸だけではありません、国衙にいた現地出身の下級役人の服を脱がせてみると、呆れるほどに小さなまら。あろうことか弘法大師は讃岐の男性がまらずもうに手を出すことがないよう、また、男色のときにまらを肛門に挿入するのに都合がいいようにと、まらが大きくならない呪いをかけていたのです。(筆者註:筆者が大学1年生のとき、香川県出身の同級生がいたのですが、彼もやはり「おかま」でした。当時は「もおー、星野くんったら~」などとくねくね動くのが気持ち悪いとしか思わなかったのですが、あれも弘法大師の呪いだったのかもしれません)

「これはなんということだ!」 まらずもうを愛する道真は怒りをあらわにしました。「呪いで讃岐の男のまらを小さくするとは、やっていいことと悪いことがある!」 怒りに燃える道真は「弘法大師がそういうつもりなら、わしはまらずもうで国を動かしてみせる!」とまらずもうの復権を祖先の神々に誓うのでした。その日から道真はまらずもう占いを使って大きな手柄をいくつも立てていきます。京都にもどったあとも道真はまらずもう占いでつぎつぎに功績を重ね、家格からすると異例なペースでの出世を果たしていき、当時の政府のナンバー2である右大臣にまで出世しました。

 しかし、道真の出世もここまででした。連日連夜のまらずもう占いに、彼のまらは爆発寸前。暴発しそうなまらを鎮めるために通った女郎屋で悪い病気をもらってしまったのです。梅毒にかかって以降は道真のまらずもうは精彩を欠き、些細なミスから政敵に上げ足をとられる形となり、大宰府に左遷され政治生命を失いました。梅毒にかかって膿のでるまらを見ながら詠んだ次の歌が有名です。

  「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

 まらずもうができなくなった道真の無念な気持ちが伝わってくるようです。道真は恨みの気持ちを抱えたまま左遷先の大宰府で命を落とし、その死後、平安京にはさまざまな事件が起こります。道真の政敵が不幸な死に方をしたり、皇居に雷が落ちて火事になったりしたため、関係者たちは「道真の祟りだ」「まらずもうの呪いだ」と恐怖に震えました。その道真の祟りのなかで、もっとも大きなものが平将門の反乱だったのです。

 

・まらずもう復権運動とその失敗(2)~平将門~

 平将門は道真が死ぬのと同じ年、道真の生まれ変わりのようにして誕生しました。地方豪族の息子として生まれた将門は、ほんとうに道真の生まれ変わりのように、誰に教わったわけでもないのに幼いころからまらずもう占いの才能がありました。とくに軍事の方面の能力は抜きんでており、まらの指し示す方向に兵を動かせば決して負けることがなかったほどです。優れた才能を持ちつつ地方豪族として静かな暮らしを送っていた将門ですが、近隣の豪族との領地争いをきっかけに、平凡な生活が一転します。まらが指し示すまま兵士を動かし、いつのまにか関東一円を征服、周囲から「新皇」と持ち上げられるような立場に立ってしまいました。しかし、そんな将門の前に立ちふさがったのが、弘法大師でした。いや、弘法大師はすでに死んでいたのですが。

 将門の反乱にあわてた当時の天皇は、教王護国寺からある僧侶をよびだして「関東におきた反乱はまらずもうの呪力によるものときく。教王護国寺は弘法大師ゆかりの寺。この反乱を鎮める方法はないか」と相談しました。相談された僧侶は「それならばたやすいこと」と、弘法大師が彫った不動明王の像を携え、関東へ向かいます。関東は成田の地についたその僧侶は不動明王像にむかって熱心に祈祷を行いました。するとどうでしょう、弘法大師の法力で、将門からまらずもう占いの能力が消えてしまったではありませんか。その日以降、将門の軍は連戦連敗を重ね、ついには捕えられ、処刑されてしまいました。(ちなみに、このできごとが成田山新勝寺ができる由来とされています)

 処刑された将門の死体は、まらずもうの呪力による死後の復活を心配されたのか、バラバラに切り刻まれて、パーツごとに埋葬されました。いまでも将門の首塚は有名ですが、首塚以外にも関東各地に腕塚・足塚・胴塚などがあり、それぞれ篤い信仰を集めています。ただ、肝心のまらについては、どこに埋葬されたかわかっていません。「将門のまら塚がどこにあるのか」は現在のまらずもう研究の最大のテーマのひとつです。

 

・まらずもうの大衆化

 道真の祟りや、将門の反乱は、当時のひとびとに大きな衝撃を与えました。奈良時代にはまらずもうは宮中の秘事として行われていたため、一般の庶民にはまらずもうの存在は知られていなかったのですが、このふたつの事件で、まらずもうの呪力の強さが一般にも広く知られるようになりました。

 また地理的な面でも、それ以前、まらずもうは畿内でしか行われていなかったものが、弘法大師の封じ込め作戦で畿内から追い出されたために、弘法大師のパワーから逃れるようにして畿内以外に広がっていきます。道真の流された九州、将門の関東、将門の乱の同時期に藤原純友が反乱をおこした瀬戸内海など、西暦1000年すぎには全国でまらずもうが行われるようになっていました。

 このように全国各地で、老いも若きも身分も問わずまらずもうを行う状況に、一部の貴族や僧侶には「世は末法だ」と嘆くものもいましたが、庶民は「新しい娯楽」「よく当たる占い」としてまらずもうを受け入れていくのでした。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(8)

2013-06-23 20:44:39 | まらずもうの歴史

・まらずもうの歴史(8) 道鏡~史上最強のまらずもう力士~(後編)

 前回の更新から何年もたってしまいました、すいません。前回は、史上最強のまらずもう力士・道鏡の生い立ちの話をしました。今回は、道鏡がまらずもう占いによって政治の実権をにぎったものの、宮中の反まらずもう勢力の陰謀で失脚するまでの話をします。

 

・孝謙上皇と道鏡

 恋人である藤原仲麻呂に捨てられ、欲求不満から奇行がめだつようになった女帝・孝謙上皇。男性と見るや手当たりしだいに声をかけ、満足できないと殺してしまい、相手をするような男性がいなくなると厩にいって馬を相手に獣姦する・・・そんなことが繰り返され、宮中の役人たちは困り果ててしまいました。なにせ、いつ自分が上皇に声をかけられ殺されてしまうかわかったものではありません。「上皇を性的に満足させるような人物はいないか!」 官僚たちの注文に、白羽の矢がたったのが道鏡でした。

 驚いたのは道鏡です。若いころには売春宿にいっても巨根すぎると拒否され、おれは一生童貞か・・・とあきらめていたところに、「やんごとなきお方の夜のお相手をしてくれ」との申し入れ。
「いや、わしのまらなんか突っ込んだら破裂しちゃいますよ」
「上皇のあそこは馬でも満足しないくらいガバガバだから、だいじょうぶ」
「ほんと知りませんよ」
「ほんとにガバガバで、道鏡さんくらいのサイズじゃないとダメなのよ」
とかなんとか、うまく言いくるめられ、けっきょく参内することとなりました。 

 上皇の寝室に送り込まれ、裸になった道鏡。潤んだ瞳で道教の巨根を見つめる上皇。ふたりの間に言葉は必要ありません。心配されていた性器の相性も抜群。猿のようにお互いを求め合い、不安定だった上皇の精神状態もしだいに落ち着きを取り戻していきました。


・藤原仲麻呂の失脚

 道鏡のおかげで欲求不満が解消した孝謙上皇。精神的に安定して、さて現状をつらつらと考えてみると、かえすがえすも腹が立つのは藤原仲麻呂です。「自分を踏み台にして出世したくせに、必要がなくなるとあっさり捨てて見向きもしない、こんな不誠実な男は許せない」と怒りをつのらせます。一方の藤原仲麻呂のほうも「さいきん忙しくて相手をしてやれなかったけれど、べつに捨てたわけじゃない。ちょっと目を離したすきに、わけのわからん坊主なんかとくっつきやがって」と、上皇と道鏡の関係が気に入らない。まあ、要するに痴話げんかですね。
 しかし、藤原仲麻呂もいくら家柄のいい秀才とはいえ、皇族相手にケンカをしちゃいけません。本気を出した孝謙上皇にだんだんと追い詰められていき、やけをおこして反乱を企てるものの失敗、さいごは死刑になってしまいました。(恵美押勝の乱


・道教の政治
 
 孝謙上皇は藤原仲麻呂を死刑にすると、もういちど天皇の位につきました。(=称徳天皇とよばれています。) このひとは政治に私情を持ち込む悪い癖があるのか、恋人ができるとその恋人の意見ばかり聞いてしまうようで、仲麻呂とつきあっていたときは仲麻呂の言うなりでしたし、仲麻呂と別れて道鏡とつきあいだすと、今度は道鏡の意見ばかり聞いてしまいます。
 
 そうして実権を握った道鏡ですが、政治家としては目立った功績はありません。しいて功績を上げれば、まらずもうを保護して全国にまらずもう占いをするためのお寺をつくったこと、吉備真備に命じて中国から『金烏玉兎集』という占いの本を日本に持ち込ませたこと、の2点でしょうか。以前、「まらずもうは占いとして行われていた」という話をしましたが、この『金烏玉兎集』によってまらずもう占いの理論体系が完成したことになります。

 天皇の愛人として、また政治家として、無難に過ごしていた道鏡ですが、ただのお坊さんが巨大な権力を握ったことについては、反発を感じる人々もいました。


・宇佐八幡宮神託事件
 
 皇居の周回ジョギングをするひとならご存知かと思いますが、地下鉄竹橋駅の出口ちかくに衣冠束帯姿の巨大なブロンズ像があります。この人物は和気清麻呂といい、皇室の危機を守った国家の大恩人ということで、皇居近くに銅像をつくってもらいました。では、かれはなにから皇室を守ったかのでしょうか? 実は道鏡の脅威から皇室を守ったということになっているのです。では、なぜ政治家としては「まらずもうの保護」以外には、ほとんどなにもしなかった道鏡が国家的な大悪人とされてしまったのでしょうか?

 さっき道鏡の出世に反発を覚えた人々がいると言いましたが、とくに危機感を感じたのは
・藤原氏
・神道勢力
のふたつです。

 藤原氏についてですが、藤原四兄弟がまらずもうの際にドーピングをしようとして、薬物の過剰摂取でたてつづけに死んでしまったという事件以来、まらずもうとは距離を置いていました。また、道鏡の出現以降、一族内には「藤原仲麻呂の失脚は道鏡のせい」ということで、まらずもうを敵視する人々も増えていました。

 また、神道勢力がまらずもうを憎んでいたのは、まらずもうが仏教を背景に勢力を伸ばしていたから、です。聖徳太子の政治以降、仏教とまらずもうはワンセットとして考えられており、この当時、仏教に押されてどんどん勢力が衰えていった神道系の人々にとって、まらずもうのせいで・・・という感情がつのっていたようです。

 そんな状況のなかで、まらずもう力士の道鏡が権力を握ったために、かれらは道鏡を目の敵にするようになり、ます。そして、道鏡を追い落とすための陰謀をめぐらせることにしました。

 かれらは、和気清麻呂に命じて、宇佐八幡神社が「道鏡は天皇の位を狙っている悪人だ。道鏡を天皇にしてはいけない」というおつげをした、とでっちあげさせました。このころは人々が迷信の影響をもろに受けていた時代です。由緒ある神社のおつげを無視するわけにはいきません。称徳天皇は泣く泣く道鏡と別れ、道鏡は政治的な権力を失い、藤原氏がふたたび実権を握ったのでした。(宇佐八幡宮神託事件

 また、この事件以降、まらずもうは政治と完全に切り離されました。皇族・有力貴族・大寺院のなかでは宗教的・文化的な影響力はしばらく残ったものの、反まらずもうの藤原氏による政治がつづいたこと、道鏡の一派として国賊扱いされる危険があったことなどの理由から、宮中で表立ってまらずもう占いの話はしにくくなってしまったようです。


・その後の道鏡
 
 失脚したあとの道鏡がどうなったのかについては、はっきりしませんが、二つの説があるようです。ひとつは肥後国(いまの熊本県)に流されたというもの。もうひとつは下野国(いまの栃木県)に流されたというもの。
 
 肥後説によると、藤子姫という身体の相性のいい女性を見つけて性的に幸せな余生を送り、その子孫は大相撲の家元である吉田司家のルーツとなった、とされているようです。

 いっぽう、下野説によると、左遷先に向かう旅の途中で自分のまらの重さに耐えられなくなった道鏡は、とある山の上で自分のまらを切り落とし、その後は女っけなしの余生を送ったとのこと。ちなみに、まらを切り落とした山には、のちに切り落とされたまらを祀る神社がつくられ、その山には金精山という名前がついたそうです。まらずもうの三段目にいる金精山は、この山から名前をとったものと思われます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(7)

2010-02-13 10:09:03 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(7) 道鏡~史上最強のまらずもう力士~(前編)

・生い立ち~出家
 弓削道鏡は文武天皇4年(700年)ごろ、河内国若江郡の下級官僚の子として生まれました。生まれたときから巨大なまらをもっており、出産に立ち会った産婆は「この子には足が三本生えている!」と腰を抜かしました。両親は「これではまるで馬だ、いや馬以上だ」と驚きあきれ、生まれた赤ちゃんに「馬之介」と名付けました。生まれた瞬間には、村中の牡馬が道鏡のまらに敬意を表して、産屋の方向に向かってひざまづいた、という伝説さえあります。巨大なまらをもつ赤ちゃんの噂はかなりの広範囲につたわって、まらを見物したいという人がひっきりなしに訪れ、村にはあたらしい宿屋が建つほどでした。
 
 少年時代の馬之介は股間の巨大なまらがじゃまだったためか、ともだちと野山で遊びまわることは少なく、部屋にこもって読書ばかりしているような、内向的な少年だったといいます。ある日、新任の国司が「まらを見たい」と馬之介の家を訪れた際には、「はずかしい」とまらで部屋の戸につっかい棒をして頑強に抵抗し、国司は笑いながら「つっかい棒になるとは見事なまらである」とたくさんの褒美を置いて帰り、馬之介の巨大なまらの評判はますます高くなったと言います。

 馬之介も成人して女性に興味のでてくる年頃になり、性欲をもてあまして街へ女性を買いにでかけるようになります。しかし、馬之介が裸になると「こんな大きなものは入らない。こっちがこわれてしまう」と相手の女性に拒否されてばかり。なかなか思いをとげることができません。自棄になった馬之介は「どうせ女に相手にしてもらえないのであれば、出家したほうがましだ」と叫ぶと、そのまま奈良の葛城山へと入っていってしまいました。


・まらずもう力士としての道鏡
 出家した馬之介は「道鏡」という法名を名乗り、葛城山で宿曜秘法という占いの技術をマスターしました。この「宿曜秘法」とは天体の運行によって占う「星占い」のようなものであるという説明がなされることが多いのですが、正確にいうと太陽と月の動きに対してまらがどのように反応するかで占う、ようするに「まらずもう占い」です。道鏡はその巨大なまらを生かした圧倒的な的中率で、葛城山じゅうに宿曜秘法(=まらずもう占い)の天才として知られるようになりました。
 
 当時の葛城山は役小角(伝説的なまらずもう力士。修験道の創始者として知られる)を輩出したことでも有名なまらずもうのメッカでした。道鏡が葛城山に入ったころには、役小角はすでに仙人になって山を去っていましたが、役小角の弟子たちはまだ健在でした。古参の弟子たちは新参者の道鏡が大きなまらをぶら下げて山の中を歩きまわるのが気に入らず、つぎつぎに道鏡にまらずもう対決をいどみました。道鏡があまりに強すぎるため、対決に際しては「2時間以上の睡眠」「にんにく・にら・ねぎ・らっきょう・あさつきの5種の食品を食べること」が禁じ手とされましたが、道鏡はそのハンデをものともせずに69連勝という大記録を打ち立てました。この69連勝という記録は直接対決(=ふたりまらずもうルール)での記録であり、現行のひとりまらずもうルールで記録をつけた場合には、3年以上の期間に渡って一日も負けなかったといいます。
 道鏡が葛城山に入ってはじめて負けたのは、栄養不良によるアメーバ赤痢にかかったのが原因でした。役小角の弟子たちは、ここぞとばかりに道鏡に勝負を挑み、道鏡は3連敗。連敗を喫しても普段と変わらない堂々とした態度で土俵に上がる姿に、小角の一番弟子で葛城山のリーダー格だった義覚は「あの男は勝っても負けてもまったく変わらない」とつよく感動して、それ以降は道鏡を敵視することはなくなったといいます。

 「葛城山に巨大なまらを持つ宿曜秘法の天才があらわれた」という噂は朝廷にも伝わり、それを祝って『神亀』という年号に改元されました。改元の際には朝廷から道鏡にたくさんの衣類や食物が贈られ(記録には稲1万束と記されています)ました。道鏡はそのお礼として、数年後におきる「蝦夷の反乱」と「渤海使の来日」を予測して朝廷に奏上しました。
 聖武天皇が即位したころに道鏡は本拠地を葛城山から平城京へと移しました。奈良の都でも連戦連勝をつづけ、大仏の建造がはじまると、道鏡は「東北地方で金が産出される」という占いを朝廷に奏上しました。ただし、これ同様の占い結果は、九州の宇佐八幡宮からもほぼ同時にもたらされています。実際に金が発見されると、これをどちらの手柄とするかで朝廷は苦慮しましたが、「記録上は宇佐八幡宮の功績とする。道鏡の功績は年号を天平感宝(感宝=感度のよいまら)と改元することで歴史に名を刻む」という解決案で決着をみました。のちの道鏡と宇佐八幡との対立は、このときの手柄争いがきっかけになったとも言われています。


・当時の政治情勢
 ここで当時の政治状況を見てみましょう。前回、大仏が完成する直前に、聖武天皇が「あたらしい時代の天皇には、巨大なまらではなく、巨大なほとを持つものこそがふさわしい」と宣言して退位し、娘の阿倍内親王が孝謙天皇として皇位を継ぐことになった、という話をしました。孝謙天皇は結婚する前に皇太子になったため、そのまま結婚を禁止され(女系天皇が認められていないので、へたにこどもが生まれて皇位継承に混乱をきたすより、さいしょから結婚しないほうが都合がよかったというのが理由だと考えられています)、男性経験もありませんでした。そのため、天皇として列席した大仏の開眼式で、生まれてはじめて実物の「まら」を目にすることになりました。朝日に輝く一万本のまらを目の当たりにして「まらとはなんと美しいものなのでしょう」と感激した天皇は、その夜、宮廷一の美男だった藤原仲麻呂を寝室に誘いました。
 藤原仲麻呂のまらは「仲麻呂」の名が示すとおり中くらいのサイズで、さして目立ったところもなかったのですが、まだ性体験の少なかった孝謙天皇には(巨大なほとを持っていたとはいえ)そのほうが都合がよかったのでしょう。中国帰りのインテリで大陸風の性技に造詣が深い仲麻呂に手取り足取り仕込まれて、あっという間にベットの達人へと成長したのでした。
 藤原仲麻呂は孝謙天皇の愛人として、参議から大納言、右大臣へと、とんとん拍子に昇進していきますが、平凡なサイズのまらだったことが影響して、まらずもうが下手であるという、当時の政治家としては致命的な欠点をもっていました。仲麻呂はその欠点をカバーするために、天智天皇の孫(当時は天武天皇の子孫でなければ皇族であっても冷遇されていました)でありながら不遇な生活を送っていた大炊王に接近し、表向きは大炊王にまらずもうをとってもらい、自分は裏から政治の実権を握ろうと画策しました。
 孝謙天皇は愛人である藤原仲麻呂の「大炊王に名目上は皇位をゆずり、上皇として政治の実権を握ってはどうか」というすすめにしたがって、大炊王を天皇の地位につかせました。当時の主流派だった天武系の天皇はまらに問題をかかえていることが多かったのですが、大炊王は天智系の血統のため、かなり立派なまらを持っており、まらずもうの成績も良好だったようです。
 こうして、藤原仲麻呂は大炊王を皇位にたてることで政治の実権を完全に掌握しました。いっぽう、おもしろくないのは孝謙上皇です。政治の実権を奪われただけならまだしも、愛人だった仲麻呂が多忙を理由に夜の相手をしてくれないことが多くなり、その点にかなり不満があったようです。藤原仲麻呂の立場からすれば「いままでは天皇の命令だったから夜の相手をつとめていたが、あんな大きいだけでしまりのない、がばがばのほとにはなんの魅力も感じなかった。いまさら天皇じゃなくなった女の相手なんかしたくもない」という気分だったのでしょう。捨てられた形となった孝謙上皇にはしだいに奇行がめだつようになり(=現在の医学的見地からすると、性的欲求不満からくるヒステリー状態にあったと考えられていますが、当時は原因がわからずに『狐憑き』と考えられていました)、しまいには病気になってしまいました。
 そして、寝込んでしまった孝謙上皇の治療のために祈祷師として宮中によばれたのが、まらずもう力士として名声の高かった道鏡でした。



 ・・・えーと、だいぶ長くなったので、つづきは次回に。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(6)

2009-12-20 10:09:39 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(6) 奈良の大仏とまらずもう

 まらずもう政治の中枢にあった藤原四兄弟が、丹(=硫化水銀が主成分の強精剤)の過剰摂取でたてつづけに死んでしまったことに、国内は大きな衝撃をうけました。まらずもう界のリーダーが不在になったことで飢饉・大地震・有力豪族の反乱などが相次いで起こりはじめました。
 当時皇位にあった聖武天皇は全国からまらずもう力士を集めて相撲節会を開催したことでもわかるように、まらずもうにたいへん理解と愛情のあった天皇として有名ですが、藤原四兄弟の死に直面してからは「いままでの政治はまらずもうだけに頼りすぎていた。きちんと『古事記』を読みなおせばわかるが『まら』と『ほと』とはくみあわさって力を発揮するものだ。この国難に立ち向かうには『ほと=ほとけ』の力を借りて、まらずもう政治を立て直す必要がある」と考え、「巨大なまらをもつほとけ」=「大仏」をつくることを決めました。

 
・宇佐八幡宮と大仏
 実際に大仏をつくるためには数多くの労働者・材料などが必要でした。労働力のほうは天皇の権威とまらずもう僧・行基の人気を利用してなんとか集めることができたのですが、材料のほうはなかなか集まらず、とくに大仏の表面にめっきするための金が足りません。「金がないと大仏がつくれない」と困っていたところ、九州の宇佐八幡宮から「東北地方で金がとれるよ」とのおつげが下りました。
 調べてみたところ、実際に金鉱が発見され、そこで採掘された金を使って大仏にめっきをすることができました。この功績によって宇佐八幡は天皇家や仏教界・まらずもう界などへの強い影響力をもつようになりました。


・開眼供養
 数多くの問題もクリアして大仏の完成が見えてきたころ、聖武天皇は年号を天平から天平勝宝に改めました。これは『勝宝=まらずもうに勝つ』という願いをこめた改元だったとされています。同時に「まらではなく、ほとをもつ者こそが新しい時代の天皇にふさわしい」と皇位を娘にゆずり、女帝の孝謙天皇が即位しました。孝謙天皇はあたらしい時代の天皇にふさわしく、「ほと」が巨大だったと言われています。(ちなみに、この孝謙天皇は、史上最高のまらずもう力士・弓削道鏡を重用したことでも有名です。孝謙天皇と道鏡の話は次回にきちんとやります)

 天平勝宝4年4月9日早朝、東大寺において大仏開眼供養会がとりおこなわれました。インドからよばれた高僧が開眼導師として儀式の指導にあたり、その参列者は1万人以上だったと言います。大仏のまらに結びつけられた一本の長い紐が、下半身を露出させた聖武上皇をはじめとする参列者全員のまらに順番に結びつけられ、全員で心をあわせてまらずもうを行うことで大仏と結縁する、という儀式だったようです。朝日に反射して輝く黄金の大仏と、紫色の紐に結びつけられた一万人のまら。この様子を『続日本紀』には「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」(日本に仏教が伝来して以来、これほど盛大な儀式はなかった)と記されています。これが日本の歴史上、まらずもうが最も輝いていた時代を象徴するシーンだったかもしれません。 



・その後の大仏
 つくられた当初、大仏には巨大なまらがついていたといいます。しかし、現在の奈良の大仏にはまらはありません。それは、完成から約400年後、源平合戦のときに平重衡が大仏殿に火をかけ、そのときに焼失してしまったからです。鎌倉時代に重源らの勧進によって大仏は再建されたものの、当時の社会情勢はまらずもうに対しては『過去の遺物』としてたいへんに厳しいもので、そのため巨大なまらは作りなおされることはありませんでした。
 また、戦国時代にも戦火で焼失しており、現在の大仏と大仏殿は江戸時代に再建されたものです。 


・奈良の大仏の特徴
 では、大仏のお姿をよく見てみましょう。焼失と再建を繰り返したことで、つくられた当時の姿とは変わってしまったものの、現在でもわずかにまらずもうの影響を見ることができます。
(1) 大仏が立像ではなく座像なのは、朝布団からでて、まらの状態を確認した情景を表現しています。
(2) 大仏の目が半眼になっているのは、朝起きたばかりの寝ぼけまなこを表現しています。
(3) 頭に肉髻とよばれるふくらみが見られますが、これは鎌倉時代の修理のときに大仏からまらがなくなるのを悲しんだ仏師が、まらの象徴としてつけたしたものだと言われています。
(4) 手の指のあいだに水かきがふいているのは、多くの衆生を救うためにまらを少しでも大きくしようと、まらをおこすりなさったときにできたと言われています。
(5) 右手を上、左手を下にした構えは、この時代に相撲節会がはじまっていることから、相撲の横綱土俵入の影響だとされています。後世の研究者のあいだでは、まらずもうと大相撲の関係を裏付ける有力な証拠とされています。


 ・・・ちなみに、睾丸のことを俗に「金玉」といいますが、これは奈良の大仏のまらが美しい金色に輝いていたことからきたと言われています。では、きょうのお話はここまで。次回はまらずもう史上最強の力士・弓削道鏡についてお話しようと思います。おたのしみに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(5)

2009-12-17 09:45:59 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(5) 奈良時代~まらずもうの黄金時代~


 今回は天武天皇の子孫たちが皇位についていたいわゆる天武朝の時代(ほぼ奈良時代前半にあたる)のまらずもうをめぐる状況を見ていきたいと思います。天武天皇の子孫は、なぜか血統的にまらの弱い者が多く、女帝であったり、男子であってもまともにこどもがつくれない体質ものが多かったりして、直接まらずもうに関われない天皇が続きました。しかしそのことが、貴族や下級官僚などのあいだに「自分たちこそがまらずもうの担い手である」との意識を芽生えさせ、まらずもう人口が爆発的に増大し、政治・文化・宗教などあらゆる分野にまらずもうが浸透していくことにつながりました。また、行基や役小角といったまらずもう僧の布教活動によって、貴族や中央官僚だけでなく、庶民のあいだにもまらずもうが広まりだしたのも、このころからだと言われています。



・藤原不比等
 不比等の父の鎌足は天智天皇の腹心であったため、その子である不比等は本来ならば、壬申の乱のときに処罰されていても不思議ではなかったのですが、不比等(=ほかに比べることができるものがいないほど巨大なまら)という名が示すようなみごとな「まら」をを持っていたために許され、のちに文武天皇の補佐役としてまらずもう政治にたずさわりました。
 不比等がまずとりくんだのは、まらずもうのルールの整備です。ざんねんながら現存していないので正確な内容は伝わっていませんが、取組時のルールだけでなく、まらずもう組織のありかたや、番付の決め方、新弟子の勧誘方法、力士(引退後も含む)の待遇など、まらずもうに関するすべてのルールが統一的に網羅されたものだったと言われています。聖徳太子以来つづいていたまらずもうルールの整備作業がここで完成され、そのルールブックの名前は不比等の巨大なまらにちなんで『大宝律令』と名付けられました。


・平城遷都
 文武天皇の死後、ふさわしい後継者が見つからなかったために、母親の元明天皇が皇位につき、その即位をきっかけに遷都を行われました。その際に「都にする土地は地形が女性器に似ている地点がよい」という風水の考え方がまらずもうにも合致したため、東・西・北が山に囲まれ、南側が開けており、女性器に近い地形だと判断された奈良盆地が都に選ばれました。この「女性器に似ている地形」というのは予想以上にまらずもうにも好都合だったようで、それまでは天皇が交替するたびに遷都をする風習だったのですが、この平城京は100年ちかくの長期にわたって(ただし、一時的に遷都されたこともあります)、都として使用されました。

 奈良時代に編纂された『万葉集』には、平城京をたたえる歌として、

   あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

 という歌が載っています。教科書的には『あをによし』の「に(=丹)」とは朱色の塗料に使われた硫化水銀のことで「青色の瓦屋根・朱色の柱がならんでいる美しい奈良の都は・・・」という意味だとされていますが、それはまらずもうを知らない国文学者の誤った解釈です。「丹」は古くから塗料というよりは漢方薬として利用するのが一般的であり、まらずもう界では強精薬としてまらを大きくするのに非常に効果があるとされていました。したがって「品質のよい強精薬のとれる奈良の都は(栗の)花のようなにおいでむせかえるほど、みんなさかりがついてまらを大きくしている」と解釈するのが自然です。
 この歌からもわかるように、平城京では年齢や身分に関係なく男性はみなまらずもうにとりくんでおり、まさに「まらずもう黄金時代」とよぶにふさわしい状況を迎えました。


・藤原四兄弟
 藤原不比等の死後しばらくは、皇族でいちばん長大なまらをもっていた長屋王が政権を握っていたのですが、その長屋王をまらずもう呪術で失脚に追い込んだのが、不比等の四人の息子たちでした。四人はそれぞれ「まら」にちなんだ名前をもっています。(ちなみに当時は、人名に「麻呂」がつくことが多いのですが、この当時は「まら」を「まろ」と発音していたためだとされています。)

  武智麻呂(むちまろ)・・・詳細は不明だが「むちむちのまら」とも「むちのようなまら」とも。一説には「笞プレイ」を好んだとも言われている。
  房前(ふささき)・・・「前のほうに房がたれさがっている」の意
  宇合(うまかい)・・・「股間にうまのようなものをかっている」の意。
  麻呂(まろ)・・・そのものずばり「まら」。
 
 しかし、四人は丹(=硫化水銀を主原料とする強精薬)の過剰摂取のため、政権について10年ほどで全員死んでしまいました。この影響で、藤原氏は「まらずもうは危険である」とまらずもう界と距離を置くようになったと言われています。


 ・・・この藤原四兄弟のあいつぐ死に衝撃を受けた聖武天皇が、奈良の大仏をつくることを思い立つのですが、次回はそのお話をしようかと思います。お題は「奈良の大仏とまらずもう」。では、きょうはこのへんで。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(4)

2009-12-13 14:18:00 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(4) 大化の改新とまらずもう

 聖徳太子が亡くなったあとしばらくは、蘇我氏がひきつづき推古天皇や仏教勢力と協力しながらまらずもう政治を行っていました。しかし、推古天皇が崩御して、男性の舒明天皇が即位したあとも、そのまま蘇我氏が政治の実権を握りつづけたことに皇族たちが不満をもちはじめ、舒明天皇のあと「やはり天皇は男性よりも女性のほうが蘇我氏にとっては都合がいい」と女性の皇極天皇を即位させたときに皇族たちの不満はピークに達しました。

 642年の7月、日照りがつづいたため、蘇我蝦夷はまらずもうで雨乞いをしました。翌日に雨がわずかに降ったものの、水不足は解消されませんでした。これを好機と見た中大兄皇子・軽皇子といった皇族たちがまらずもう雨乞いを行ったところ、たちまち雷雨となりそのまま5日間にわたって雨が降りつづけ、水不足は解消されました。この対決結果を見た宮廷の群臣たちは蘇我氏の独裁体制に疑問をもつようになりました。
 ちなみに、この対決結果には、神祇官としてまらずもうのサポートを行っていた中臣鎌足が、その立場を利用して蘇我蝦夷のまらずもうを妨害していたのではないか、との説があります。それまで無名の中級官僚だった鎌足が大化の改新後に大抜擢されたのも、この説を裏付けています。

 645年6月、中大兄皇子と中臣鎌足は機は熟したと判断し、宮廷内で蘇我入鹿を暗殺しました。このニュースをきいた蘇我蝦夷は自殺し、このクーデターによって蘇我氏は政治的な力を大きく削がれました。このとき、中大兄皇子はみずからは皇位につかず、鎌足の協力のもと、皇太子としてまらずもうの実権をにぎりました。
 
 中大兄皇子、中臣鎌足のまらずもうに関わる功績としては
(1)年号を制定した
 日本史上初の年号として「大化」と制定しました。この年号には「まらが大きく化けるように」との願いがこめられてます。
(2)まらのおつげによって、なんども遷都をした
 中大兄皇子のまらは、サイズこそ巨大だったものの、まらの方向は一定せず、そのためにかれが政権の中心にあった時代はなんども遷都を繰り返しました。そのことが結果的には奈良盆地に本拠地を置く豪族たちの政治的な力を削ぐことにつながり、天皇に権力を集中することが可能になったと言われています。

 中大兄皇子は政権の末期になると、天智天皇として即位し、腹心の中臣鎌足にも「藤原」の姓を与えてまらずもうをとる資格を授けました。ただし、鎌足は「藤原」姓をもらったときにはすでに高齢であり、実際にまらずもうをとることは不可能であったと言われています。
 
 
 さいごに、百人一首の第一番にもえらばれている天智天皇の御製として有名な歌についても触れておきましょう。

   秋の田の刈穂の庵のとまをあらみわが衣手は露ににれつつ

 この歌は百人一首にも入っている有名な歌ですが、天皇が秋のボロ屋で露に濡れるようなことがあるのか? ということが旧来から疑問視されており、天皇が農民の気持ちになって詠んだ歌だ、などという無理な解釈がされていますが、まらずもう協会の研究では違う解釈をします。
 この「とまをあらみ」の部分は、並べ間違えて伝えられたもので「とまらをあみ」が正しいのではないかというのが協会での見解です。つまり、伝えられていくうちに「ら」の字が二文字後退してしまったのです。万葉集には「ミ語法」と呼ばれる語法があり、「速し」「無し」などの形容詞の語尾を「み」に変えて(例「速み」「無み」)、「~を~み」という形にすると、「~が~なので」という意味になります。大相撲で「片男波部屋」という部屋がありますが、この「片男波」ももとは万葉歌の「潟を無み」からとられていて、「(鳥がとまるような)干潟がないので」という意味です。さて、「とまらをあみ」の解釈に戻りましょう。この「あみ」は「悪(あ)し」のミ語法、「まらをあみ」は「まらが悪いので」という意味になります。「秋の田の刈穂の庵」は当時の流行歌で、全体の解釈は「『秋の田の刈穂の庵の~』と、(ごきげんで歌いながらまらずもうをとっていたが、)まらが悪いので私の衣手は露に濡れてしまったよ」となります。ここにも、まらの方向性が定まらず遷都を繰り返した、思うに任せぬまらの様子がありありと描かれていますが、後世の人たちがその事実を隠ぺいするために順序を入れ替え、「とまをあらみ」(苫(とま、ボロ屋の屋根の材料)の目が粗いので)と歪曲したようです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(3)

2009-12-10 00:24:24 | まらずもうの歴史

・まらずもうの歴史(3) 聖徳太子(=厩戸皇子)とまらずもう
 
 前回は「古事記のなかのまらずもう」というテーマでお話をしましたが、今回は『古事記』の最後に登場する推古天皇の時代のお話です。
 推古天皇は史上初の女性天皇として非常に頭脳明晰で聡明な人物でした。しかし、「まら」を持っていなかったために「まらずもうをとることができない」という、当時の天皇としては致命的な身体上の問題点をかかえていました。そこで、聡明な推古天皇はそれをカバーするために、皇族と有力豪族のなかから、ふたりの有能なまらずもう力士を登用しました。それが聖徳太子(=厩戸皇子)と蘇我馬子です。『厩戸皇子』『馬子』という名前からも推測できるように、ふたりとも馬並みの巨大なまらを身につけており、その巨大なまらのサイズふさわしく、スケールの大きな視野のもとに政治をすすめました。


 聖徳太子と蘇我馬子のまらずもうに関わる政治的な功績はつぎの3点にあるとされています。

・仏教を政治にとりこんだ
 ふたりは、この当時大陸から日本に伝来したばかりの仏教を積極的に政治にとりいれ、法隆寺・四天王寺などの寺院を建立して、仏教とまらずもうとの結びつきを強めました。そのことが、のちに仏教界から行基・役小角・道鏡・増賀・明恵・仁寛・文観・天海などの数多くのまらずもう僧を生み出すことにつながっていきます。
 しかし、一方でこの政策は神道界からの強い反発も招き、のちにまらずもうへの2度にわたる弾圧(=奈良時代の「宇佐八幡神託事件」と明治期の「廃仏毀釈」)を生み出す遠因になったとも言われています。

・冠位十二階の制度
 まらずもう能力によって官僚をランクづけし、冠の色によってその地位が一目で見分けがつくようにしました。この制度はのちの大相撲/まらずもうにおける番付制度のルーツとされています。また、大相撲の規則ではまわしの色は紫系統と決められていますが、これは冠位十二階の最高位の色が紫であることの影響を受けたものです。

・十七条憲法
 十七条憲法の制定を契機として、まらずもうのルールの整備がはじまったと言われています。
 内容をよく読めば、「群卿百寮、早く朝れ(=まらずもうは朝にやりなさい)」などという基本的なルールに関わることだけでなく、「詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。(=まらずもうの結果は神の言葉として厳粛にうけとめなさい)」「信はこれ義の本なり。事毎に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり(=信用が大事です。見栄をはってうその結果を発表してはいけません)」「あるいは病し、あるいは使して、事を闕くことあらん。しかれども、知ること得るの日には、和すること曽てより識れるが如くせよ。(=体調が悪かったり、仕事が忙しかったりすることがあるかもしれませんが、できるかぎりまらずもうのことを考えなさい)」といった心構えに関することまで雑多な内容から構成されていて、ルールブックとよぶにはまだまだ不十分ですが、これによってルール制定にむけての大きな一歩を踏み出したことは確実です。


 また、聖徳太子は霊的能力が非常に高く、まらずもう占いを使って『未来記』『未然記』という2冊の予言署を書いたと言われています。ざんねんながらどちらの本も現存していないのですが、『太平記』という歴史書の記述によれば、聖徳太子は『未来記』のなかで、死後100年たってからおこった「宇佐八幡神託事件」におけるまらずもう弾圧を予言していたそうです。

 これらの功績から聖徳太子は、後世のまらずもう界において熱烈な信仰をあつめ、かれの絵を描くときにはかならず「まらの象徴」として「笏」を手に持たせることになっています。一般的には、『笏』は儀式のスケジュールなどを書いたカンニングペーパーとして利用されていましたが、記憶力の非常によかった聖徳太子はカンニングペーパーを必要としませんし、そもそも当時の日本にはまだ笏は入ってきていませんでした。なので、聖徳太子の『笏』はかれの偉大なまらの象徴として後世の画家が創作したものだとされています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(2) 

2009-12-07 06:12:19 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(2) 古事記に見られるまらずもう

 『古事記』は日本最古の歴史書として奈良時代のはじめころに書かれた本です。上中下の3巻からなっており、上巻では日本という国をつくった神々の話を、中巻・下巻ではその神々の子孫である歴代の天皇の伝記が書いてあります。とくに神話のことが書いてある上巻には「まらずもうのルーツ」とも言うべき話がたくさん載っていて、まらずもうの歴史に興味のあるひとや、まらずもうの歴史を研究しているひとなら、『古事記』は必ず読んでおくべきだとされています。


・イナザギノミコトとまらずもう
 世界ができたばかりのころ、陸地はまだ存在しておらず、海の上には脂のようなものがぷかぷかと浮いているだけでした。そこで天界にいらっしゃる神様たちは、イザナギノミコトとイザナミノミコトという男女の神さまに「陸地をつくるように」と命令しました。
 ふたりはアメノヌホコという玉飾りを施した矛をもらって、その矛で海をかきまぜました。その矛を引き上げたときにしたたり落ちたしずくでオノゴロ島という島ができました。一説によると、アメノヌホコはその形状や玉飾りなどが、まらの形状によく似ており、後世のまらずもうはこの故事を見立てているとも言われています。
 さて、イザナギとイザナミはオノゴロ島に降りたちました。そこでイザナギはイザナミの身体に「まら」がついていないことを知り、「わたしの身体には余ったところが一か所ある。だからわたしの余分なところで、おまえの足りないところを塞いでしまおう」と言いました。イナザミは「いいわよ」とそれを了承すると「あなにやし、えをとこを」とイザナギのまらをほめたたえる呪文をとなえました。イザナギはそれに対して「あなにやし、えをとめを」とイザナミのほとをほめたたえ、そのままセックスになだれこみました。それによってイザナミは妊娠したのですが、生まれてきたのは骨がしっかりしていない不具の子だったので、川に流して捨ててしまいました。ふたりは「なにがいけなかったのだろう?」と天界のえらい神様に相談すると、「女が先に『あなにやし、えをとこを』と言い出したのがよくない。セックスは男が誘うものだ」と教えてくれました。ふたりは「なるほど」と納得して、こんどは男のほうから誘うと、ちゃんとしたこども(=島)がたくさん生まれました。そのときに生まれたこどもたち(=島)が現在の日本列島になったということです。
 この国生みの故事が、史上初のまらずもうと言われていますが、現在のまらずもうとは形式が大きく違っていますね。


・スサノオノミコトとまらずもう
 その後もイザナギとイザナミはこどもをたくさんつくりましたが、イザナミは火の神さまを産んだときに女性器を火傷して、それがもとで死んでしまいました。イザナギは黄泉の国にイザナミを迎えに行ったのですが、からだが腐ってしまったイザナミを見て、イザナギはびびって逃げてしまいました。戻ってきて「おそろしくきたないところだった」と川にはいって身体を洗っているときにも、たくさんの神様がうまれましたが、イザナギが鼻を洗っているときにうまれたのが、現在でも「まらずもうの祖」として有名なスサノオノミコトです。
 現在でも「鼻のでかいやつはあそこもでかい」などと言うように、「鼻」と「まら」は密接な関係があります。スサノオは出生のときから「まら」と強い関係があったということになりますね。 
 ある日、スサノオは姉のアマテラスオオミカミのところに遊びにいきました。スサノオの乱暴な性格をきらっていたアマテラスは「自分の国を奪いにきたのではないか?」と疑い、警備をかためて待ちかまえていました。アマテラスの詰問に対して。スサノオは「わたしに邪心はありません」と、まらずもうで身の潔白を証明しました。(このまらずもうはスサノオがひとりで行っており、イザナギの時代のまらずもうと比べて、現在のまらずもうの形式にだいぶ近づいています。)
 アマテラスはまらずもうの結果に納得したものの、疑われたスサノオは腹の虫がおさまらず、そのへんにうんこをしまくったり、田んぼを破壊したりと、乱暴のかぎりをつくします。アマテラスはスサノオの乱暴をおそれ、天の岩屋にこもってしまいました。困ったのはほかの神様たちです。いろいろ対策を考えた結果、岩屋の前で、女はストリップ、男はまらずもうをして、どんちゃん騒ぎをすることにしました。アマテラスはにぎやかな様子が気になって、無事に岩屋の外にでてきてくれたということです。これが、興行(ショー)としてのまらずもうのはじめということになっています。
 いっぽうスサノオは乱暴の罪で、天界を追放されて下界におりてきました。スサノオは下界でもまらずもうを駆使してヤマタノオロチを倒すなどいろんな手柄を立て、さいごは島根県あたりの王さまになりました。


・天孫降臨とまらずもう
 それから長いあいだ、下界はスサノオの娘婿の大国主命(オオクニヌシノミコト)が統治していましたが、ある日天界にいるアマテラスは「下界はわたしの子孫が統治すべきだ」とおっしゃって、使者をおつかわしになりました。それに反発する大国主のこどもたちと、使者とのあいだでまらずもう合戦が行われましたが、大国主の息子たちが敗れて、けっきょく下界はアマテラスの子孫が統治することになりました。
 さっそくアマテラスは自分の孫のニニギノミコトを下界におつかわしになりました。下界におりると、ニニギはふたりの若い女性を「妃にどうぞ」と差し出されました。コノハナサクヤヒメに対してはまらが敏感に反応したのですが、もうひとりのイワナガヒメに対してはまらがぜんぜん反応しませんでした。そこでニニギはコノハナサクヤヒメだけを妃にして、イワナガヒメのほうを実家にかえしてしまいました。あとで話をきいたところ「コノハナサクヤヒメを妃にすれば花のように繁栄するでしょうし、イワナガヒメを妃にすれば岩のように寿命が伸びたでしょう。あなたはコノハナサクヤヒメだけを妃にしてイワナガヒメを実家に帰してしまったので、あたなたの子孫たちは繁栄は得られますが、長寿のほうは期待できません」と言われてしまいました。これが、まらずもう史上はじめての敗戦と言われています。
 

・その後のまらずもう
 その後、ニニギの子孫が天皇として即位し、まらずもうの力を使いながら、日本を統治していきます。初代の神武天皇は大物主神(=その名前の示すとおり巨大なまらを持っていたといいます)の娘と結婚して、大物主神が治める現在の奈良県あたりに都を定めました。第十代の崇神天皇のころ疫病が流行したときには、夢枕に大物主神が現れて正しいまらずもうのやり方を伝え、天皇がそのとおりにまらずもうをすると、疫病がぴたりとおさまったといいます。このように天皇家はまらずもうを使いながら政治をすすめていったと古事記には記されています。


 『古事記』は推古天皇の時代までの歴史が書いてありますが、次回はその推古天皇の時代のお話をしようとおもいます。テーマは「聖徳太子・蘇我馬子とまらずもう」。では、次回もおたのしみに。

 
  
 
   
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まらずもうの歴史(1)

2009-12-05 10:46:41 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(1) まらずもうとはなにか

 まらずもうは、古墳時代から(当時は占いとして)行われていた競技です。古事記にも「スサノオノミコトがまらずもうをなさった」など多くの記述が見られるように由緒正しい競技であり、奈良時代には伝説的なまらずもう力士である弓削道鏡が登場して隆盛を極めました。しかし、平安時代になると突然衰えてしまい、これ以降は一部の神社などで細々と行われるのみで、記録などはほとんど残っていません。現代のまらずもうは、それを現代人にも理解しやすい形で復活させたものです。
 現代のまらずもうは、日本まらずもう協会が大相撲を参考にしながら運営しています。(大相撲を参考にしているので、古事記に載っているまらずもうとはすこし形式が違っています。) まらずもうは、大相撲の開催期間にあわせて開催され、大相撲とおなじような番付が組まれています。力士たちは大相撲とおなじように勝ち越しや優勝をめざして毎日まらずもうにとりくんでいます。
 まらずもうの取組は、ひとりで行われます。(大相撲ではふたりの力士だけでなく、行司や勝負審判や呼び出しなど、多くの人間が取組にかかわっています。まらずもうは完全にひとりで行われます。そこが大相撲とまらずもうの最大の違いです。)
 取組の日の朝、まらずもうの力士は、まらの状態を確認することを通じて、神のおつげを聞きます。まらの状態が神意にかなっていれば「勝ち」。神意にかなっていなければ「負け」です。この点においては現代も古代もかわりません。
 ただし、古代であれば、まらずもうの結果によって示された神意によって、戦争をはじめたり、裁判の判決をくだしたり、政治的なリーダーをえらんだり(ときには天皇をまらずもうでえらぶこともあったようです)したわけですが、現代のまらずもうにはざんねんながらそこまでの力はありません。力士が協会に結果を報告して、協会はそのデータをまとめて公表するだけです。ざんねんなことですが、しかたありません。

 今回の話はここまで。次回からは各論に入ります。まずは「古事記に見られるまらずもう」というテーマで話したいと思います。おたのしみに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする