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まらずもうの歴史(11)

2016-03-10 10:00:00 | まらずもうの歴史

・まらずもうの歴史(11) まらずもうに生死をかけた男・正岡子規

 

 ひさびさのまらずもうの歴史です。順番からいえば源平合戦の話をするつもりだったのですが、大昔の話ばかりするのにもちょっと飽きてきました。というわけで、きょうは気分をかえて明治期のまらずもうの話をしようと思います。

 明治時代の話をするまえに、それまでのまらずもう史をざっとおさらいしておきましょう。古代には占いとして国家の方針を左右するほどの力を持っていたまらずもうですが、奈良時代の道鏡の失脚を機に徐々に力を失っていきます。さらに平安時代には空海の主導したまらずもう封じ込め政策のもとでその呪力まで奪われてしまいますが、その一方で、それまで貴族や僧侶など上流階級でしか行われていなかったものが、しだいに武士をはじめとするさまざまな階層へと広がっていきます。

 鎌倉~室町時代には政治の表舞台からは姿を消します。ときどき突発的にまらずもうのお告げをうける人物は現れるものの、政治のメインストリームとなることはなく、庶民の娯楽として細々と行われるだけの雌伏の時代を過ごすことにないます。この時期に占いから娯楽へとすこしづつ性質を変えていき、江戸時代になると大々的に興行として行われるようになります。庶民の間でおもしろい見世物として人気を博し、当時人気の戯作(小説のようなもの)や浮世絵にもとりあげられるなど、江戸時代はまらずもうにとって二度目の黄金時代と言ってもよいほどの活況を呈しました。(なお、現在日本まらずもう協会で行っているまらずもうは、江戸時代のやり方を踏襲しています。)

 しかし、明治の文明開化とともに「時代遅れのもの」「旧弊な文化」としてバカにされるようになります。とくに打撃となったのは1871年に出された裸体禁止令。違反した際の罰則が鞭打ち刑だったこともあり、一部のまらずもう力士はかえってまらずもうに傾倒したようですが、多くの力士はまらずもうを離れ、まらずもうは急速に衰退していきました。そんな状況を憂い、まらずもうの立て直しをめざしたのが、今回のメインテーマである正岡子規です。

 

・生い立ち

 子規は明治維新の前年(1867年)に松山藩(いまの愛媛県)の下級武士の子ととして生まれました。

 幼名は処之助(ところのすけ)。大きくなってからの名前は常規(つねのり)。「子規」という名前は雅号(=俳句をつくる際のしこ名のようなもの)です。子規は名前を変えるのが趣味だったようで、一説によると54種類もの名前を名乗ったらしいですが、この項ではいちばん有名な「子規」と呼びます。ちなみに『子規』とはホトトギスの意味。「血を吐くまで鳴く」と言われるホトトギスにちなみ、「血が出るまで射精する」という強い意気込みを表現したものと言われています。

 幼いころに父親を亡くした子規は、儒学者だった母方の祖父のもとで教育をうけました。学者だった祖父から漢籍や漢詩を学び、また江戸時代の戯作や書画など、古典全般についても幅広い教養を身につけます。いっぽう、父親のいない反動から、男性器への強い関心を示しました。祖父の蔵書には江戸期のまらずもう関連の書籍も多かったため、知らず知らずにまらずもうと触れる機会もあり、旧制松山中学(現在の松山東高)のころには、級友とまらずもう同好会をつくり、実際に取組も行っていました。

 当時の級友によると、中学時代の子規のまらずもうは「ちんぽの大きさをひけらかすだけで、やってることは露出狂と変わらんかった。でかければ偉いと思っているふしがあった」とのこと。恵まれた素質に頼った粗削りなまらずもうだったようです。

 

  (写真:巨根を自慢げにさらす少年時代の子規) 

 


・上京、野球との出会い

 1883年、子規は東京大学をめざし、受験勉強のために上京します。松山中学時代、まらずもう同好会に入っていたとはいえ、それはあくまでも趣味。さすがに一生をかけた仕事にしようとは考えていませんでした。そもそも当時のまらずもうは明治の文明開化の流れのなかで、旧弊な時代遅れの文化と考えられており、社会的にイメージもよくありません。

 上京当初は政治家や官僚をめざしていたという子規ですが、当時の明治政府は薩長出身でなければ出世もおぼつかない世界。譜代大名の松山藩は徳川方についていたため、松山出身の子規では出世の見込みは薄いこと知り、ふらふらと勉強にも身が入らない毎日を送っていました。なんとか東大には滑り込んだものの、官僚はおろか就職の見込みさえ厳しいと言われる哲学科。そのうえ、学校にもろくに行かず「哲学というのはわけがわかんらんぞなもし」などと言いだす始末。

  授業にでるのが面倒になったある日、学校ちかくの公園をふらふらと散歩していると、学生たちが野球の練習をしているのが目にとまりました。打者がバットを力いっぱいスイングすると、白いボールが放物線を描いて飛んでいきます。打球の軌跡の美しさに一目で魅入られてしまった子規。その日から野球のとりこになっていました。

 上京後、くすぶっていたエネルギーをぶつける方向性が見つかって、子規はすべての情熱を野球へ注ぎ込みました。その熱中ぶりはほとんど常軌を逸したもので、性的興奮を感じているようにさえ見えます。

  球と球をうつ木を手握りてシャツ着し見ればその時思ほぬ

と「野球のことを思い出し、野球のコスプレをしながら自慰行為にふけった」という意味の短歌をよんでいるほどです。松山時代からの知り合いで門下生でもある河東碧梧桐は、この野球への熱中ぶりを評して「変態現象」と呆れたようなコメントを残しています。

 (なお、2002年には子規は野球への熱中ぶりを評価され、野球殿堂入りを果たしています。)

 

・射精

 子規は「なぜこれほどまでに野球に夢中になるのだろうか?」と自分を見つめ直し、「ボールの描く放物線の美しさに官能性を感じるからだ」という結論に達します。すると、中学時代に行っていた、勃起を競うだけのまらずもうが単調でつまらないものに感じれらるようになりました。

 「役小角や道鏡の時代のまらずもうはきちんと射精まで至っていた」「万葉集のころのまらずもうは、古今集の時代や江戸時代のまらずもうと比べて、なんと力強く美しいことか」「時代が下るにつれて、まらずもうが射精から離れ、どんどん矮小化されていく」。子規の頭のなかにさまざまなフレーズが浮かんでは消えていきます。そして最終的に浮かんだ結論は「まらずもうに射精を取り戻そう。白球のように美しく精液を飛ばそう」というものでした。

 子規のまらずもう観を端的に示した短歌を2首あげてみます。

   松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く

   くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

 ここには、松の葉のように細いまらでもかまわない。薔薇の芽のように柔らかいまらでもかまわない。白露のように、あるいは春雨のように、繊細で美しい射精をたくさん決めようではないか。そんなふうに射精を大事にする考え方が見てとれます。

 なお、この極端なまでの射精重視の立場は、後世の評論家からは「まらそのものの美しさをないがしろにしている」「我々がやっているのは、まらずもうであって、汁ずもうではない」などと批判も浴びました。また、まらずもう界に勃起派と射精派とのあいだの断絶をひきおこした、という負の遺産もあります。しかし、子規のあげた「江戸時代のまらずもうは勃起にばかり偏り過ぎている」という問題提起は、当時のまらずもうを覆っていた閉塞感を打破したという歴史的な意義を評価されてもよいでしょう。

 

・病魔と戦いながらの執筆活動

 幼いころから病気がちだった子規ですが、20代後半に肺結核が悪化してからは思うようなまらずもうがとれなくなり、30歳を過ぎてからは寝たきりの生活を送ることになりました。力士生命が絶たれた子規が命をかけてとりくんだのは、自らのまらずもう理論を完成させることでした。残り少ない時間と競争するかのように『松蘿玉液』『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病床六尺』など、病床からたくさんの原稿を書き上げていきます。

 こうして、子規の考え方に触れた若いひとたちの間で、まらずもうはすこしづつ賛同者を増やしていきました。有名な「鶏頭の十四五本もありぬべし」という俳句は、子規の自宅で行われたまらずもう会のときの句とされ、弟子たちの亀頭を鶏頭の花に見立て、まらずもうの弟子が増えさかんになっていく様子をよんだものです。

 子規がまらずもう力士の生活においてもっとも重視していたのは食事でした。病床の日記とされる『仰臥漫録』には、事細かに食事メニューが記録されており、瀕死の病人とは思えないほどの健啖ぶりを見せています。これは「射精の基本は食事から」という現代の最新のまらずもう理論にも通用するような考え方をもとにしており、この食事のおかげで病人のわりにはそれなりの勝率を維持できていたようです。

 子規の精力的な執筆活動は、死の直前まで続けられました。絶筆となった『病床六尺』は「少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録(wikipedia)」とまらずもうにとどまらず、日本の文学史上に残る傑作随筆として現在まで読み継がれています。

 

・短歌・俳句について

 子規は短歌や俳句の実作者としても知られています。中学や高校の国語の教科書にも載っているので、そちらのほうが有名かもしれません。まらずもうについてよんだ作品もありますし、代表作をいくつかあげて、かるく解説しておきましょう。

 

  松山や秋より高き天守閣

 寝たきりになるまえ、元気なころにつくられた俳句です。隆々と勃起したまらを天守閣にたとえています。のちには射精一辺倒になった子規ですが、若いころは勃起にも価値を見出していたことがわかり、子規のまらずもう理論の変遷もうかがえます。

 

  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 子規の作品で最も有名なこの句は、寝たきりになる直前の28歳ころ、奈良旅行のときによんだものとされています。日本の歴史上、飛鳥時代から奈良時代にかけてはまらずもうの黄金時代。飛鳥や平城京では多くのまらずもう力士が活躍しました。病気で動けなくなる前に、まらずもうゆかりの地をきちんと見ておきたいと強行された旅行だったようです。法隆寺は稀代の名力士・聖徳太子ゆかりの寺。「法隆寺の門前で、柿(=精力がつくとされていました)を食べていたところ、突然射精してしまった」の意味。まらずもうに食事療法を取りいれた先駆者だけに、おやつのときもまらずもうのことが頭から離れなかったのでしょう。

 

  足たたば不尽の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを

 明治31年に発表された「足たたば」ではじまる連作のうちの一首。「足」とはもちろん三本目の足=まらのこと。人並みに勃起さえできればなんでもできるのに……という悔しさを感じさせます。切ない歌です。

 

  睾丸をのせて重たき団扇哉

 健康だったころは天才的なまらずもうをとっていた子規ですが、病気が進むにつれ納得のいく取組ができなくなっていきます。若いころには睾丸の重さなど感じなかったのが、射精もろくにできない無駄な器官となって、重く苦しくのしかかってきます。なまじ人並み以上のサイズだっただけに苦しさもひとしおだったことでしょう。しかし、そんな苦悩を感じさせないウィットに飛んだよみぶりに、子規の人間としてのスケールを感じさせる一句です。

 なお、子規は睾丸をテーマに数多くの俳句をつくっています。「睾丸の邪魔になったる涼み哉」「秋のくれ祖父のふぐり見てのみぞ」「きんたまのころげて出たる紙帳哉」「睾丸の大きな人の昼寝かな」 「夏痩やきん丸許り平気也」「睾丸に須磨のすず風吹送れ」「睾丸の垢取る冬の日向哉」「関守の睾丸あぶる火鉢哉」「睾丸の汗かいて居るあはれ也」「やかれたる夏や睾丸の土用干」 などなど。しみじみとした味わいのある句が多いようです。

 

  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

 部屋で横になるだけの毎日。ふと飾ってある花瓶を見ると、垂れ下がった藤の花がもうすこしで畳に届きそうなのにどうしても届かない。満足なまらずもうが取れないもどかしさを、まらと藤の花を重ね合わせることで表現した佳歌です。

 

  をとゝひのへちまの水も取らざりき

 これが子規の辞世の句。まらをへちまにたとえ「おとといから三日間も自慰をしていない」との意味です。射精に命をかけた子規が、自慰もできずに死んでいくという無念さが伝わってくるような、まさに壮絶な一句です。

 

 

 ・射精まらずもうのその後

 子規の提唱した射精まらずもうは、出身校の東京帝国大学をはじめとする各帝国大学のまらずもう部で研究されるようになりました。現在でも、旧帝国大学の流れをくむ七つの大学のまらずもう部では「七帝まらずもう」として、協会式のルールとは違う独自のルールでの大会が行われています。

 協会式まらずもうが朝立ちをメインとする立ち技主体のスタイルなのに対し、七帝まらずもうの最大の特徴は寝技が主体であること。東大や京大など偏差値の高い大学の新入生は高校時代のスポーツ経験が乏しく身体的素質に恵まれないことが多いのですが、とにかく寝技に持ち込んで射精しさえすれば勝ちというルールは、天賦の才に左右される部分が少なく、かつ短期間での技術の向上が期待できます。勃起する才能に乏しい選手であっても努力と研究しだいで一流選手になれるという点が、これらの大学のニーズに合致したのでしょう。

 いっぽう、七帝まらずもうの欠点は見ていてつまらないこと。ぱっと見では布団のなかで選手がなにやらもぞもぞやっているだけなので、派手な大技で勝負か決まりやすい協会式まらずもうに比べて、どうしても試合展開が地味になりがちです。射精するまでの時間も長くなりがちで、このあたりの退屈さが協会式にくらべて普及していない理由なのだろうと思われます。

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