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まらずもうの歴史(7)

2010-02-13 10:09:03 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(7) 道鏡~史上最強のまらずもう力士~(前編)

・生い立ち~出家
 弓削道鏡は文武天皇4年(700年)ごろ、河内国若江郡の下級官僚の子として生まれました。生まれたときから巨大なまらをもっており、出産に立ち会った産婆は「この子には足が三本生えている!」と腰を抜かしました。両親は「これではまるで馬だ、いや馬以上だ」と驚きあきれ、生まれた赤ちゃんに「馬之介」と名付けました。生まれた瞬間には、村中の牡馬が道鏡のまらに敬意を表して、産屋の方向に向かってひざまづいた、という伝説さえあります。巨大なまらをもつ赤ちゃんの噂はかなりの広範囲につたわって、まらを見物したいという人がひっきりなしに訪れ、村にはあたらしい宿屋が建つほどでした。
 
 少年時代の馬之介は股間の巨大なまらがじゃまだったためか、ともだちと野山で遊びまわることは少なく、部屋にこもって読書ばかりしているような、内向的な少年だったといいます。ある日、新任の国司が「まらを見たい」と馬之介の家を訪れた際には、「はずかしい」とまらで部屋の戸につっかい棒をして頑強に抵抗し、国司は笑いながら「つっかい棒になるとは見事なまらである」とたくさんの褒美を置いて帰り、馬之介の巨大なまらの評判はますます高くなったと言います。

 馬之介も成人して女性に興味のでてくる年頃になり、性欲をもてあまして街へ女性を買いにでかけるようになります。しかし、馬之介が裸になると「こんな大きなものは入らない。こっちがこわれてしまう」と相手の女性に拒否されてばかり。なかなか思いをとげることができません。自棄になった馬之介は「どうせ女に相手にしてもらえないのであれば、出家したほうがましだ」と叫ぶと、そのまま奈良の葛城山へと入っていってしまいました。


・まらずもう力士としての道鏡
 出家した馬之介は「道鏡」という法名を名乗り、葛城山で宿曜秘法という占いの技術をマスターしました。この「宿曜秘法」とは天体の運行によって占う「星占い」のようなものであるという説明がなされることが多いのですが、正確にいうと太陽と月の動きに対してまらがどのように反応するかで占う、ようするに「まらずもう占い」です。道鏡はその巨大なまらを生かした圧倒的な的中率で、葛城山じゅうに宿曜秘法(=まらずもう占い)の天才として知られるようになりました。
 
 当時の葛城山は役小角(伝説的なまらずもう力士。修験道の創始者として知られる)を輩出したことでも有名なまらずもうのメッカでした。道鏡が葛城山に入ったころには、役小角はすでに仙人になって山を去っていましたが、役小角の弟子たちはまだ健在でした。古参の弟子たちは新参者の道鏡が大きなまらをぶら下げて山の中を歩きまわるのが気に入らず、つぎつぎに道鏡にまらずもう対決をいどみました。道鏡があまりに強すぎるため、対決に際しては「2時間以上の睡眠」「にんにく・にら・ねぎ・らっきょう・あさつきの5種の食品を食べること」が禁じ手とされましたが、道鏡はそのハンデをものともせずに69連勝という大記録を打ち立てました。この69連勝という記録は直接対決(=ふたりまらずもうルール)での記録であり、現行のひとりまらずもうルールで記録をつけた場合には、3年以上の期間に渡って一日も負けなかったといいます。
 道鏡が葛城山に入ってはじめて負けたのは、栄養不良によるアメーバ赤痢にかかったのが原因でした。役小角の弟子たちは、ここぞとばかりに道鏡に勝負を挑み、道鏡は3連敗。連敗を喫しても普段と変わらない堂々とした態度で土俵に上がる姿に、小角の一番弟子で葛城山のリーダー格だった義覚は「あの男は勝っても負けてもまったく変わらない」とつよく感動して、それ以降は道鏡を敵視することはなくなったといいます。

 「葛城山に巨大なまらを持つ宿曜秘法の天才があらわれた」という噂は朝廷にも伝わり、それを祝って『神亀』という年号に改元されました。改元の際には朝廷から道鏡にたくさんの衣類や食物が贈られ(記録には稲1万束と記されています)ました。道鏡はそのお礼として、数年後におきる「蝦夷の反乱」と「渤海使の来日」を予測して朝廷に奏上しました。
 聖武天皇が即位したころに道鏡は本拠地を葛城山から平城京へと移しました。奈良の都でも連戦連勝をつづけ、大仏の建造がはじまると、道鏡は「東北地方で金が産出される」という占いを朝廷に奏上しました。ただし、これ同様の占い結果は、九州の宇佐八幡宮からもほぼ同時にもたらされています。実際に金が発見されると、これをどちらの手柄とするかで朝廷は苦慮しましたが、「記録上は宇佐八幡宮の功績とする。道鏡の功績は年号を天平感宝(感宝=感度のよいまら)と改元することで歴史に名を刻む」という解決案で決着をみました。のちの道鏡と宇佐八幡との対立は、このときの手柄争いがきっかけになったとも言われています。


・当時の政治情勢
 ここで当時の政治状況を見てみましょう。前回、大仏が完成する直前に、聖武天皇が「あたらしい時代の天皇には、巨大なまらではなく、巨大なほとを持つものこそがふさわしい」と宣言して退位し、娘の阿倍内親王が孝謙天皇として皇位を継ぐことになった、という話をしました。孝謙天皇は結婚する前に皇太子になったため、そのまま結婚を禁止され(女系天皇が認められていないので、へたにこどもが生まれて皇位継承に混乱をきたすより、さいしょから結婚しないほうが都合がよかったというのが理由だと考えられています)、男性経験もありませんでした。そのため、天皇として列席した大仏の開眼式で、生まれてはじめて実物の「まら」を目にすることになりました。朝日に輝く一万本のまらを目の当たりにして「まらとはなんと美しいものなのでしょう」と感激した天皇は、その夜、宮廷一の美男だった藤原仲麻呂を寝室に誘いました。
 藤原仲麻呂のまらは「仲麻呂」の名が示すとおり中くらいのサイズで、さして目立ったところもなかったのですが、まだ性体験の少なかった孝謙天皇には(巨大なほとを持っていたとはいえ)そのほうが都合がよかったのでしょう。中国帰りのインテリで大陸風の性技に造詣が深い仲麻呂に手取り足取り仕込まれて、あっという間にベットの達人へと成長したのでした。
 藤原仲麻呂は孝謙天皇の愛人として、参議から大納言、右大臣へと、とんとん拍子に昇進していきますが、平凡なサイズのまらだったことが影響して、まらずもうが下手であるという、当時の政治家としては致命的な欠点をもっていました。仲麻呂はその欠点をカバーするために、天智天皇の孫(当時は天武天皇の子孫でなければ皇族であっても冷遇されていました)でありながら不遇な生活を送っていた大炊王に接近し、表向きは大炊王にまらずもうをとってもらい、自分は裏から政治の実権を握ろうと画策しました。
 孝謙天皇は愛人である藤原仲麻呂の「大炊王に名目上は皇位をゆずり、上皇として政治の実権を握ってはどうか」というすすめにしたがって、大炊王を天皇の地位につかせました。当時の主流派だった天武系の天皇はまらに問題をかかえていることが多かったのですが、大炊王は天智系の血統のため、かなり立派なまらを持っており、まらずもうの成績も良好だったようです。
 こうして、藤原仲麻呂は大炊王を皇位にたてることで政治の実権を完全に掌握しました。いっぽう、おもしろくないのは孝謙上皇です。政治の実権を奪われただけならまだしも、愛人だった仲麻呂が多忙を理由に夜の相手をしてくれないことが多くなり、その点にかなり不満があったようです。藤原仲麻呂の立場からすれば「いままでは天皇の命令だったから夜の相手をつとめていたが、あんな大きいだけでしまりのない、がばがばのほとにはなんの魅力も感じなかった。いまさら天皇じゃなくなった女の相手なんかしたくもない」という気分だったのでしょう。捨てられた形となった孝謙上皇にはしだいに奇行がめだつようになり(=現在の医学的見地からすると、性的欲求不満からくるヒステリー状態にあったと考えられていますが、当時は原因がわからずに『狐憑き』と考えられていました)、しまいには病気になってしまいました。
 そして、寝込んでしまった孝謙上皇の治療のために祈祷師として宮中によばれたのが、まらずもう力士として名声の高かった道鏡でした。



 ・・・えーと、だいぶ長くなったので、つづきは次回に。


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