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まらずもうの歴史(8)

2013-06-23 20:44:39 | まらずもうの歴史

・まらずもうの歴史(8) 道鏡~史上最強のまらずもう力士~(後編)

 前回の更新から何年もたってしまいました、すいません。前回は、史上最強のまらずもう力士・道鏡の生い立ちの話をしました。今回は、道鏡がまらずもう占いによって政治の実権をにぎったものの、宮中の反まらずもう勢力の陰謀で失脚するまでの話をします。

 

・孝謙上皇と道鏡

 恋人である藤原仲麻呂に捨てられ、欲求不満から奇行がめだつようになった女帝・孝謙上皇。男性と見るや手当たりしだいに声をかけ、満足できないと殺してしまい、相手をするような男性がいなくなると厩にいって馬を相手に獣姦する・・・そんなことが繰り返され、宮中の役人たちは困り果ててしまいました。なにせ、いつ自分が上皇に声をかけられ殺されてしまうかわかったものではありません。「上皇を性的に満足させるような人物はいないか!」 官僚たちの注文に、白羽の矢がたったのが道鏡でした。

 驚いたのは道鏡です。若いころには売春宿にいっても巨根すぎると拒否され、おれは一生童貞か・・・とあきらめていたところに、「やんごとなきお方の夜のお相手をしてくれ」との申し入れ。
「いや、わしのまらなんか突っ込んだら破裂しちゃいますよ」
「上皇のあそこは馬でも満足しないくらいガバガバだから、だいじょうぶ」
「ほんと知りませんよ」
「ほんとにガバガバで、道鏡さんくらいのサイズじゃないとダメなのよ」
とかなんとか、うまく言いくるめられ、けっきょく参内することとなりました。 

 上皇の寝室に送り込まれ、裸になった道鏡。潤んだ瞳で道教の巨根を見つめる上皇。ふたりの間に言葉は必要ありません。心配されていた性器の相性も抜群。猿のようにお互いを求め合い、不安定だった上皇の精神状態もしだいに落ち着きを取り戻していきました。


・藤原仲麻呂の失脚

 道鏡のおかげで欲求不満が解消した孝謙上皇。精神的に安定して、さて現状をつらつらと考えてみると、かえすがえすも腹が立つのは藤原仲麻呂です。「自分を踏み台にして出世したくせに、必要がなくなるとあっさり捨てて見向きもしない、こんな不誠実な男は許せない」と怒りをつのらせます。一方の藤原仲麻呂のほうも「さいきん忙しくて相手をしてやれなかったけれど、べつに捨てたわけじゃない。ちょっと目を離したすきに、わけのわからん坊主なんかとくっつきやがって」と、上皇と道鏡の関係が気に入らない。まあ、要するに痴話げんかですね。
 しかし、藤原仲麻呂もいくら家柄のいい秀才とはいえ、皇族相手にケンカをしちゃいけません。本気を出した孝謙上皇にだんだんと追い詰められていき、やけをおこして反乱を企てるものの失敗、さいごは死刑になってしまいました。(恵美押勝の乱


・道教の政治
 
 孝謙上皇は藤原仲麻呂を死刑にすると、もういちど天皇の位につきました。(=称徳天皇とよばれています。) このひとは政治に私情を持ち込む悪い癖があるのか、恋人ができるとその恋人の意見ばかり聞いてしまうようで、仲麻呂とつきあっていたときは仲麻呂の言うなりでしたし、仲麻呂と別れて道鏡とつきあいだすと、今度は道鏡の意見ばかり聞いてしまいます。
 
 そうして実権を握った道鏡ですが、政治家としては目立った功績はありません。しいて功績を上げれば、まらずもうを保護して全国にまらずもう占いをするためのお寺をつくったこと、吉備真備に命じて中国から『金烏玉兎集』という占いの本を日本に持ち込ませたこと、の2点でしょうか。以前、「まらずもうは占いとして行われていた」という話をしましたが、この『金烏玉兎集』によってまらずもう占いの理論体系が完成したことになります。

 天皇の愛人として、また政治家として、無難に過ごしていた道鏡ですが、ただのお坊さんが巨大な権力を握ったことについては、反発を感じる人々もいました。


・宇佐八幡宮神託事件
 
 皇居の周回ジョギングをするひとならご存知かと思いますが、地下鉄竹橋駅の出口ちかくに衣冠束帯姿の巨大なブロンズ像があります。この人物は和気清麻呂といい、皇室の危機を守った国家の大恩人ということで、皇居近くに銅像をつくってもらいました。では、かれはなにから皇室を守ったかのでしょうか? 実は道鏡の脅威から皇室を守ったということになっているのです。では、なぜ政治家としては「まらずもうの保護」以外には、ほとんどなにもしなかった道鏡が国家的な大悪人とされてしまったのでしょうか?

 さっき道鏡の出世に反発を覚えた人々がいると言いましたが、とくに危機感を感じたのは
・藤原氏
・神道勢力
のふたつです。

 藤原氏についてですが、藤原四兄弟がまらずもうの際にドーピングをしようとして、薬物の過剰摂取でたてつづけに死んでしまったという事件以来、まらずもうとは距離を置いていました。また、道鏡の出現以降、一族内には「藤原仲麻呂の失脚は道鏡のせい」ということで、まらずもうを敵視する人々も増えていました。

 また、神道勢力がまらずもうを憎んでいたのは、まらずもうが仏教を背景に勢力を伸ばしていたから、です。聖徳太子の政治以降、仏教とまらずもうはワンセットとして考えられており、この当時、仏教に押されてどんどん勢力が衰えていった神道系の人々にとって、まらずもうのせいで・・・という感情がつのっていたようです。

 そんな状況のなかで、まらずもう力士の道鏡が権力を握ったために、かれらは道鏡を目の敵にするようになり、ます。そして、道鏡を追い落とすための陰謀をめぐらせることにしました。

 かれらは、和気清麻呂に命じて、宇佐八幡神社が「道鏡は天皇の位を狙っている悪人だ。道鏡を天皇にしてはいけない」というおつげをした、とでっちあげさせました。このころは人々が迷信の影響をもろに受けていた時代です。由緒ある神社のおつげを無視するわけにはいきません。称徳天皇は泣く泣く道鏡と別れ、道鏡は政治的な権力を失い、藤原氏がふたたび実権を握ったのでした。(宇佐八幡宮神託事件

 また、この事件以降、まらずもうは政治と完全に切り離されました。皇族・有力貴族・大寺院のなかでは宗教的・文化的な影響力はしばらく残ったものの、反まらずもうの藤原氏による政治がつづいたこと、道鏡の一派として国賊扱いされる危険があったことなどの理由から、宮中で表立ってまらずもう占いの話はしにくくなってしまったようです。


・その後の道鏡
 
 失脚したあとの道鏡がどうなったのかについては、はっきりしませんが、二つの説があるようです。ひとつは肥後国(いまの熊本県)に流されたというもの。もうひとつは下野国(いまの栃木県)に流されたというもの。
 
 肥後説によると、藤子姫という身体の相性のいい女性を見つけて性的に幸せな余生を送り、その子孫は大相撲の家元である吉田司家のルーツとなった、とされているようです。

 いっぽう、下野説によると、左遷先に向かう旅の途中で自分のまらの重さに耐えられなくなった道鏡は、とある山の上で自分のまらを切り落とし、その後は女っけなしの余生を送ったとのこと。ちなみに、まらを切り落とした山には、のちに切り落とされたまらを祀る神社がつくられ、その山には金精山という名前がついたそうです。まらずもうの三段目にいる金精山は、この山から名前をとったものと思われます。

 

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