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まらずもうの歴史(3)

2009-12-10 00:24:24 | まらずもうの歴史

・まらずもうの歴史(3) 聖徳太子(=厩戸皇子)とまらずもう
 
 前回は「古事記のなかのまらずもう」というテーマでお話をしましたが、今回は『古事記』の最後に登場する推古天皇の時代のお話です。
 推古天皇は史上初の女性天皇として非常に頭脳明晰で聡明な人物でした。しかし、「まら」を持っていなかったために「まらずもうをとることができない」という、当時の天皇としては致命的な身体上の問題点をかかえていました。そこで、聡明な推古天皇はそれをカバーするために、皇族と有力豪族のなかから、ふたりの有能なまらずもう力士を登用しました。それが聖徳太子(=厩戸皇子)と蘇我馬子です。『厩戸皇子』『馬子』という名前からも推測できるように、ふたりとも馬並みの巨大なまらを身につけており、その巨大なまらのサイズふさわしく、スケールの大きな視野のもとに政治をすすめました。


 聖徳太子と蘇我馬子のまらずもうに関わる政治的な功績はつぎの3点にあるとされています。

・仏教を政治にとりこんだ
 ふたりは、この当時大陸から日本に伝来したばかりの仏教を積極的に政治にとりいれ、法隆寺・四天王寺などの寺院を建立して、仏教とまらずもうとの結びつきを強めました。そのことが、のちに仏教界から行基・役小角・道鏡・増賀・明恵・仁寛・文観・天海などの数多くのまらずもう僧を生み出すことにつながっていきます。
 しかし、一方でこの政策は神道界からの強い反発も招き、のちにまらずもうへの2度にわたる弾圧(=奈良時代の「宇佐八幡神託事件」と明治期の「廃仏毀釈」)を生み出す遠因になったとも言われています。

・冠位十二階の制度
 まらずもう能力によって官僚をランクづけし、冠の色によってその地位が一目で見分けがつくようにしました。この制度はのちの大相撲/まらずもうにおける番付制度のルーツとされています。また、大相撲の規則ではまわしの色は紫系統と決められていますが、これは冠位十二階の最高位の色が紫であることの影響を受けたものです。

・十七条憲法
 十七条憲法の制定を契機として、まらずもうのルールの整備がはじまったと言われています。
 内容をよく読めば、「群卿百寮、早く朝れ(=まらずもうは朝にやりなさい)」などという基本的なルールに関わることだけでなく、「詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。(=まらずもうの結果は神の言葉として厳粛にうけとめなさい)」「信はこれ義の本なり。事毎に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり(=信用が大事です。見栄をはってうその結果を発表してはいけません)」「あるいは病し、あるいは使して、事を闕くことあらん。しかれども、知ること得るの日には、和すること曽てより識れるが如くせよ。(=体調が悪かったり、仕事が忙しかったりすることがあるかもしれませんが、できるかぎりまらずもうのことを考えなさい)」といった心構えに関することまで雑多な内容から構成されていて、ルールブックとよぶにはまだまだ不十分ですが、これによってルール制定にむけての大きな一歩を踏み出したことは確実です。


 また、聖徳太子は霊的能力が非常に高く、まらずもう占いを使って『未来記』『未然記』という2冊の予言署を書いたと言われています。ざんねんながらどちらの本も現存していないのですが、『太平記』という歴史書の記述によれば、聖徳太子は『未来記』のなかで、死後100年たってからおこった「宇佐八幡神託事件」におけるまらずもう弾圧を予言していたそうです。

 これらの功績から聖徳太子は、後世のまらずもう界において熱烈な信仰をあつめ、かれの絵を描くときにはかならず「まらの象徴」として「笏」を手に持たせることになっています。一般的には、『笏』は儀式のスケジュールなどを書いたカンニングペーパーとして利用されていましたが、記憶力の非常によかった聖徳太子はカンニングペーパーを必要としませんし、そもそも当時の日本にはまだ笏は入ってきていませんでした。なので、聖徳太子の『笏』はかれの偉大なまらの象徴として後世の画家が創作したものだとされています。

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