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まらずもうの歴史(5)

2009-12-17 09:45:59 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(5) 奈良時代~まらずもうの黄金時代~


 今回は天武天皇の子孫たちが皇位についていたいわゆる天武朝の時代(ほぼ奈良時代前半にあたる)のまらずもうをめぐる状況を見ていきたいと思います。天武天皇の子孫は、なぜか血統的にまらの弱い者が多く、女帝であったり、男子であってもまともにこどもがつくれない体質ものが多かったりして、直接まらずもうに関われない天皇が続きました。しかしそのことが、貴族や下級官僚などのあいだに「自分たちこそがまらずもうの担い手である」との意識を芽生えさせ、まらずもう人口が爆発的に増大し、政治・文化・宗教などあらゆる分野にまらずもうが浸透していくことにつながりました。また、行基や役小角といったまらずもう僧の布教活動によって、貴族や中央官僚だけでなく、庶民のあいだにもまらずもうが広まりだしたのも、このころからだと言われています。



・藤原不比等
 不比等の父の鎌足は天智天皇の腹心であったため、その子である不比等は本来ならば、壬申の乱のときに処罰されていても不思議ではなかったのですが、不比等(=ほかに比べることができるものがいないほど巨大なまら)という名が示すようなみごとな「まら」をを持っていたために許され、のちに文武天皇の補佐役としてまらずもう政治にたずさわりました。
 不比等がまずとりくんだのは、まらずもうのルールの整備です。ざんねんながら現存していないので正確な内容は伝わっていませんが、取組時のルールだけでなく、まらずもう組織のありかたや、番付の決め方、新弟子の勧誘方法、力士(引退後も含む)の待遇など、まらずもうに関するすべてのルールが統一的に網羅されたものだったと言われています。聖徳太子以来つづいていたまらずもうルールの整備作業がここで完成され、そのルールブックの名前は不比等の巨大なまらにちなんで『大宝律令』と名付けられました。


・平城遷都
 文武天皇の死後、ふさわしい後継者が見つからなかったために、母親の元明天皇が皇位につき、その即位をきっかけに遷都を行われました。その際に「都にする土地は地形が女性器に似ている地点がよい」という風水の考え方がまらずもうにも合致したため、東・西・北が山に囲まれ、南側が開けており、女性器に近い地形だと判断された奈良盆地が都に選ばれました。この「女性器に似ている地形」というのは予想以上にまらずもうにも好都合だったようで、それまでは天皇が交替するたびに遷都をする風習だったのですが、この平城京は100年ちかくの長期にわたって(ただし、一時的に遷都されたこともあります)、都として使用されました。

 奈良時代に編纂された『万葉集』には、平城京をたたえる歌として、

   あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

 という歌が載っています。教科書的には『あをによし』の「に(=丹)」とは朱色の塗料に使われた硫化水銀のことで「青色の瓦屋根・朱色の柱がならんでいる美しい奈良の都は・・・」という意味だとされていますが、それはまらずもうを知らない国文学者の誤った解釈です。「丹」は古くから塗料というよりは漢方薬として利用するのが一般的であり、まらずもう界では強精薬としてまらを大きくするのに非常に効果があるとされていました。したがって「品質のよい強精薬のとれる奈良の都は(栗の)花のようなにおいでむせかえるほど、みんなさかりがついてまらを大きくしている」と解釈するのが自然です。
 この歌からもわかるように、平城京では年齢や身分に関係なく男性はみなまらずもうにとりくんでおり、まさに「まらずもう黄金時代」とよぶにふさわしい状況を迎えました。


・藤原四兄弟
 藤原不比等の死後しばらくは、皇族でいちばん長大なまらをもっていた長屋王が政権を握っていたのですが、その長屋王をまらずもう呪術で失脚に追い込んだのが、不比等の四人の息子たちでした。四人はそれぞれ「まら」にちなんだ名前をもっています。(ちなみに当時は、人名に「麻呂」がつくことが多いのですが、この当時は「まら」を「まろ」と発音していたためだとされています。)

  武智麻呂(むちまろ)・・・詳細は不明だが「むちむちのまら」とも「むちのようなまら」とも。一説には「笞プレイ」を好んだとも言われている。
  房前(ふささき)・・・「前のほうに房がたれさがっている」の意
  宇合(うまかい)・・・「股間にうまのようなものをかっている」の意。
  麻呂(まろ)・・・そのものずばり「まら」。
 
 しかし、四人は丹(=硫化水銀を主原料とする強精薬)の過剰摂取のため、政権について10年ほどで全員死んでしまいました。この影響で、藤原氏は「まらずもうは危険である」とまらずもう界と距離を置くようになったと言われています。


 ・・・この藤原四兄弟のあいつぐ死に衝撃を受けた聖武天皇が、奈良の大仏をつくることを思い立つのですが、次回はそのお話をしようかと思います。お題は「奈良の大仏とまらずもう」。では、きょうはこのへんで。
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