高齢者外出介助の会

さあみんなで出かけましょう!

働いがいのある職場にする方法

2015-07-23 06:09:25 | 暮らし

昨日の臨床哲学。私はケアのチームに入っているのですが、施設などの介護職が続かない原因など話題になりました。他の職種に比べ、安い、休みが取りにくい、社会的な評価の低さ、自分の介護が十分か疑問などグラフにはいろいろありました。
ここから私が思うのは、もう10年以上前オーストラリアに施設や話を聞きに行ったとき、ケアラーさんが24時間相談できる機関に相談してと自分で悩んだことを話されてました。このことをもっと聞いておくべきだったと残念ですが、すべてでないかもしれませんが、オーストラリアでは介護職の人が一人で悩みを抱えないように相談を受ける機関があるのです。
日本でも必要と思うのです。家族の介護をしていた人がサロンで1時間話されたのですが意味が解らなくて「あなたの話が理解できない」と正直に言うと、「父が元気な時にどんな介護をしてほしいか聞いていたらよかった。どこまでしても父が喜んでいるかわからない」。
家族でさえ悩むのに仕事とはいえ高齢者の暮らしを支えることは難しいし、悩みも真剣にかかわってくれる人ほど深いと思うのです。その悩みを寄り添い聞いてくれるところがあれば。
孤立しないで済みますし、時には仕事の意義に絶望したとしても、苦しみを掃き出し自分のことして考えるような支えや寄り添ってくれる人がいると、仕事への自信回復や、続けようと新たな気持ちにならないでしょうか。
続かないと次々人を求めても、仕事の情熱は状況によってすぐに消えてしまいます。それが人間ですもの。
新しい人を増やしていくのも必要ですが、良い介護職の方々を育てていくことも大事です。以前に、社会福祉協議会の職員さんに「ここの仕事ですよ。作りませんか」と話を向けたことがありますが、そのままで終わってしまいました。
誇りが持て、働き甲斐のある環境づくりが課題ではないでしょうか?

試されるやさしさ

2015-07-13 07:09:28 | からほりさろん
加藤仁さん「寝たっきりの春」を借りてきた。副題が、倒れても生き抜く人々の記録。だめとあきらめる状況の中で立ち上がった人たち(完全な回復というより心の回復を取り戻した)というべきだろう。読み進むうちに介護のため職場を辞めた先生が登場する記述に『「やさしさ」というのは徹底的に忍耐を要求されるのだ。「毎日、毎日、私は心の中で思った。「試されているな」と。これこそが本物の人生のテストなのかもしれない」』この言葉がいつも私の中にある。というのはさろんの食事会に来られる中に、認知症の方もおられ、受け入れはしていても参加者の思いは違って当たり前。時としてすべての人に心地よい対応ができないでいる。そのうえ、助けを必要とするのが認知症に図らずもなっている人。知りつつも全体の平和を優先する私。そんな時、目が合うと「試されている」と実感するのです。まだまだ学び続けなければなりません。この著者の加藤仁さんは当会も取材に来られ単行本にも書いてくださっているのですが、もうなくなられたのが残念。この本が出版されたのが1993年2月とあり当会ができる前に、出版されているのに驚きました。

残念だったこと

2015-07-08 06:00:54 | からほりさろん

昨日阪大の臨床哲学のケアーを考えるグループから明日の話題提供をと話が来ました。それで、振り返ってKさんを思い起こしました。Kさんは独り暮らし。認知症というのでさろんにケアマネの紹介で来られるようになりましたが、来ると「仕事は何をしたらいいですか?」気持ちは現役。そんなことから自宅からサロンを含む長い距離を1日数回歩き足は達者でした。飼っていた犬が事故で死に何時も押していた歩行補助具が重たいとコンパクトなものに変わりました。そこで道の植え込みに引っかかり転倒。休みの日にこんなことがあると困ると心配性のケアマネは土日ショウトステーに行くよう手配されました。歩く力が急激に落ち、自宅と施設の暮らしでまた認知度が進みました。本人からは死ぬまで自宅にという希望を聞いていました。ある時など「私が死んだら・・こうして」と話の時ケアマネがサロンに来て、いきなり「そんなこともっと後で、今は必要ないから」と話を遮られました。「今聞いてください」私の強い口調に「ほんなら」と話を聞こうとされましたが、本人の気持ちがそこでストップ。聞くことなく終わってしまいました。結局こんなことで本人も暮らしの不安を持たれ老人ホームに入所されました。その後の振り返りの検討会に出席したのですが、皆さん口をそろえてかかわったケアマネを褒められるのです。私は不安を持ったケアマネがショウトステーを何度もするようにはかられたことが自宅での暮らしを困難にしたと思うのです。誰も本人の気持ちなどどうだった?疑問なく進められ、私の気持ちは「いいかげんにして」でしたが発言しませんでした。今振り返るとやはり言っておくべきだったと。そうせざるを得なくなった、また仕方なく(私にはそう見えたのです)選択することになった本人の気持ちをケアマネは考えることが重要と伝えるべきだったと忸怩たる思いです。