10月5日シンポジュウムに行きました。
このときから頭は最期を自宅で迎えることが出来る町にどうしたら出来るかを考え続けています。
まとまりもなく話したい思いに駆られ発言したのですが桜井先生(シンポジスト開業医)は私の言葉尻を捕らえ「何で家で死ねへんの?死ねへんと思うの?」迫られました。気がつけば、私の覚悟があれば死は迎えられるのです。
皆さんできるのですよ。よく高齢の皆さんが話で「子供の言うのを聞かな面倒見てもらえへん」といって引越しされていきますが、子供さんの都合で老人ホームか病院で最期を迎えることにならないでしょうか?
それなら住み慣れた自宅で、最期を迎えられるようしませんか。専門家との関係つくりと近隣のたすけあいの輪があれば望むまで暮らせる町になると希望を持つのですが。
サロンで最後まで暮らせる町にしたい願いを実現に向け知恵を出し合いませんか。
自宅で最期を迎えるのは私達の子供時代は当たり前でした。いつの間にか病院になりましたが、シンポジュウムで語られたのは、「命を次世代につなぐ」こと。これが出来ると事例で話してくださいました。
故人の葬儀で孫さんが遺族代表で挨拶され「祖母の看病に一生懸命だった父を尊敬するということと。命を考えて生きる」と言う話だったそうです。すご~~いと思ったのです。
聖書にも祝宴の家に行くよりは喪中の家に行くほうがよい。そこには、全ての人の終わりがあり、・・・・というような記述があります。どのように生きてこられたのか、その人を知ることが出来心に留めるようになると。またこのように大きな意味を子、孫に伝えられるのだと。